そう言って、私はさいかわちゃんを見送った。
もう会うこともないだろう。
いや、正確には――会わない方がいいのかもしれない。
今回の件で私は自分の未熟さを痛感していた。
何度話しても距離は縮まらず、聞きたいことは聞けないまま。
私の関わり方が正しかったのかも分からない。
おそらく担当は変わるだろう。
上からそう判断されても不思議ではなかったし、私自身もその方がさいかわちゃんのためなのではないかと思っていた。
だから、あの小さな背中が廊下の向こうへ消えていくのを見ながら、これが最後かもしれないと考えていた。
◇
それから数か月が過ぎた。
結局、担当は本当に変更になった。
引き継ぎの日、私は資料を渡しながら苦笑した。
さいかわちゃんについて書けることは驚くほど少なかったからだ。
それでも新しい担当者は優しく頷いてくれた。
「大丈夫ですよ。ここからは私が見てみます」
「お願いします」
それしか言えなかった。
そして季節は移り変わる。
私は別の仕事に追われ、さいかわちゃんのことを思い出す時間も少なくなっていた。
そんなある日だった。
施設を訪れた帰り道。
近くの公園を通りかかった私は、ベンチに座る小さな人影を見つけた。
見覚えがあった。
いや、見間違えるはずがない。
「……さいかわちゃん?」
少女はゆっくり顔を上げた。
相変わらず表情は薄い。
けれど、私のことは覚えていたらしい。
「……せんせい。」
久しぶりに聞く声だった。
少しだけ胸が熱くなる。
「久しぶりだね」
「……うん」
会話はそこで止まる。
昔と同じだ。
だけど、不思議と気まずくはなかった。
「元気にしてた?」
「……たぶん」
「そっか」
私は隣のベンチに腰を下ろした。
無理に話を広げるつもりはなかった。
昔は沈黙が怖かった。
何か話さなければと焦っていた。
でも今は違う。
しばらく風の音だけが流れる。
すると。
「……ねえ。」
さいかわちゃんがぽつりと呟いた。
「ん?」
「せんせいは、まだしんぱいするの?」
私は少しだけ目を丸くした。
あの日と同じような質問だった。
だけど今なら、少しは上手く答えられる気がした。
「するよ」
私は迷わず答える。
「担当じゃなくなったけど?」
「うん」
「もう、かんけいないのに?」
私は笑った。
「関係なくないからかな」
「……?」
「さいかわちゃんが元気でいてくれたら嬉しいし、困ってたら心配になる。たぶんそれだけだよ」
少女は黙ったまま私を見る。
何かを考えるように。
やがて。
「……へんなの」
そう呟いた。
「そうかもね」
すると、さいかわちゃんは少しだけ視線を逸らした。
耳がほんのり赤い。
「……でも」
小さな声。
「わるくない」
私は聞き返さなかった。
聞き返したら消えてしまいそうだったから。
風が吹く。
木々が揺れる。
夕日が公園を橙色に染めていた。
その時だった。
「……せんせい。」
「ん?」
「ありがとう」
初めてだった。
自分から言葉を向けてくれたのは。
私は驚きながらも頷く。
「どういたしまして」
さいかわちゃんは少し俯いた。
そして――。
ふっ、と。
今まで見たこともないほど自然に。
少し照れくさそうに。
笑った。
その笑顔を見た瞬間。
あの日の自分が抱えていた後悔も、迷いも、ほんの少しだけ報われた気がした。
夕暮れの公園に、小さな笑い声が溶けていく。
私はその笑顔を忘れないだろうと思った。
――そう思っていた。
◇
数日後。
職場で書類整理をしていた私は、上司から声を掛けられた。
「少しいいですか?」
呼ばれるまま席を立つ。
会議室に入ると、机の上には見覚えのあるファイルが置かれていた。
その表紙を見た瞬間、思わず言葉を失う。
「……さいかわちゃん?」
上司が静かに頷く。
「担当者の異動が決まりました」
「え……」
私は目を瞬かせた。
「現在の担当者からの引き継ぎ希望もあって、再度あなたにお願いしたいと考えています」
予想していなかった言葉だった。
「私、ですか……?」
「以前よりも関係性が築けていると判断されました。それに――」
上司は一枚の報告書を差し出す。
「本人があなたの名前を出したそうです」
心臓が小さく跳ねた。
「本人が……?」
「はい。『あの先生なら話してもいい』と」
しばらく言葉が出なかった。
あれだけ何もできなかったと思っていた。
距離を縮められなかったと思っていた。
担当を外された時も、自分には向いていなかったのだと考えていた。
それなのに。
机の上のファイルを見つめる。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
今度こそ。
そう心の中で呟きながら。
◇
翌週。
久しぶりの面談室だった。
以前と同じ椅子。
同じ机。
同じ静かな空気。
扉が開く。
入ってきた少女と目が合った。
「久しぶりだね」
私がそう言うと、さいかわちゃんは少しだけ目を細めた。
「……うん」
以前ならそれで終わっていた。
けれど。
「公園ぶり」
そう付け加えた。
私は思わず笑ってしまう。
「そうだね。公園ぶりだ」
さいかわちゃんは椅子に座る。
少しの沈黙。
でも、昔とは違う。
無理に埋める必要のない沈黙だった。
やがて私は口を開く。
「また担当になったよ」
「しってる」
「聞いてた?」
「うん」
そして。
「……わたしが、おねがいした」
小さな声。
だけど、はっきりと聞こえた。
私は驚いて目を見開く。
「そうだったんだ」
さいかわちゃんは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……だって」
「うん?」
「ほかのひとだと、またさいしょからだから」
その言葉に胸が温かくなる。
信頼。
そう呼ぶにはまだ小さいかもしれない。
それでも確かに、以前にはなかったものだった。
「ありがとう」
私がそう言うと。
「……べつに」
さいかわちゃんは照れ隠しのように答えた。
だけど。
その口元は。
ほんの少しだけ緩んでいた。
窓から差し込む午後の日差しの中で。
今度はきっと、前よりも少しだけ。
お互いのことを知っていける。
そんな予感を抱きながら、私は新しい面談の時間を始めた。