グリモアR~私立グリモワール魔法学園・ランペイジ~   作:ザクロ

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天に瞬く星の重さ

 

 空を見上げていた。

 だが、雲も太陽も見えなかった。

 

 黒。

 

 見渡す限りの天空が、黒一色の『何か』に覆われている。

 雷鳴が轟く雨雲、とは違う。白紙のページを黒いクレヨンで塗り潰したような……とも違う。

 なんというか、厚みがある。一枚のキャンバスに全ての絵具を何回も何回も何回も上塗りし、結果として濃密な黒色が生み出されてしまったような、そんな空だった。

 

 それでも辺りが暗闇に包まれていないのは、実際には太陽の光が地上まで届いているからだ。

 黒い『何か』に空を覆われているように見えるが、それは()()()()()()()()()()()()()というだけの話。本来『あれ』には、もっと違う色があるのだろう。白く見える雲のように、青く見える大空のように、『あれ』にだって太陽の光を透き通らせるような、独特の輝きがあったのだろう。

 

 だが、人間側にそれを認識する機能がない。

 脳が視覚情報を処理する際、『それ』に黒という既存の色を当てはめるしかなかったのだ。

 

 その事実を、どう解釈すればよかったのか。

 人間の持つ能力の限界と捉えるべきか。あるいは、人間と『それ』との間にある、どうしようもないほどの隔絶や相容れなさと捉えるべきか。

 考えたが、答えは得られなかった。

 答えよりも早く、異変が来た。

 

「…………」

 

 黒く染まった上空の一点で、ぼうっ、と微かな光が灯るのが見えた。

 小さい。とてつもなく。

 夕焼け空にかろうじて見える星のような、弱く虚ろな光だった。

 あれが何かを考える前に、彼女は耳に取り付けた小型インカムのスイッチを入れる。

 

「転校生君。……転校生君、聞こえる?」

 

 ズズ、ガガガッ、と数回ほどノイズが響いた後、インカムの向こうから『聞こえます。魔力いりますか?』とコチラの要望を先回りした声。

 

「ええ、貰いたいかも。できれば少し多めに。座標は───」

 

 インカム越しに、己の居場所を伝える。

 本来の緯度と経度ではない。事前の作戦会議で『この辺りをこう区画しよう』とあらかじめ決めていた、臨時の位置情報。しかし目印としては十分に機能した。

 イヤホンから『行きますね』という言葉が聞こえた直後、見えない何かが体内に滑り込んでくる感覚があって「んっ、んぅ……っ」───思わず体をよじる。

 

「んふ、まだくすぐったい。……ううん、大丈夫。そっちも忙しいのにありがとう。おかげで元気いっぱい」

 

 声だけは、一切の緊張感もなく。

 

「え? ……いえ、まだこっちで戦うわ。ちょっと数が多いの。そっちに行かないようにここで食い止める。……大丈夫、危なくなったら逃げるから。……頑張りましょう、お互いに」

 

 言い終えて、インカムのスイッチを切る。耳から外して懐にしまい、今一度、改めて黒い空を見上げる。

 ……頭上の光が、先程よりも大きく膨れ上がっていた。

 遠い星に思えていたそれは、一層激しさを増し、色濃く白に染まり、気付けば太陽と見紛うほどの輝きを放っている。

 

 その真下に、彼女は一人で立っていた。

 

 周りには誰もいない。代わりに、無人の建築物が所狭しと並んでいる。

 元々ここは、それなりに栄えた都市だったのだろう。だが今となってはもぬけの殻。建物全てが廃墟と化し、経年劣化でボロボロに崩れ、剥がれ、穴だらけの有様で視界を覆う。電柱も根本しか残っていない。地面を舗装するアスファルトも大部分が砕け、固められた土砂が剥き出しになっている。()()()()()()()()()()()()()()()()。文字通りのゴーストタウンであった。

 

 それ以上に寒々しく感じるわけは、おそらく命の影が見当たらないからだ。

 雑草が一本も生えていない。アスファルトの隙間からも。建物の表面にも。ネズミや野生動物が横切る事すらない。どこにも生命の痕跡がない。自然世界のサイクルを徹底的に排除したような、死の空気だけがその場に漂っている。

 

「さて」

 

 何でもなさそうな声が合図になった。

 彼女の周囲に、無数の『光』が浮かび上がる。どこからともなく、唐突に。それはダイヤモンドダストのような幻想的な煌めきを放ち、彼女の体を静かに取り囲んでいく。

 一〇〇年分も廃れた街で、光に包まれながら彼女は言う。

 

「始めましょう」

 

 次の瞬間だった。

 天空の光が、チカッ、と大きく瞬いた。

 そもそもの正体、上空で光を放っていたものは何だったのか。

 答えは直後に来た。

 

 

 

 

 裏世界の廃街に、『何か』が落ちた。

 着弾した瞬間、直径三〇〇〇メートルの大地が丸ごとクレーターと化す。

 

 

 

 

 天から地へ、垂直に。

 単なる自由落下ではなく、爆発的な加速を得て突き刺さったその一撃。

 衝撃波は絶望そのものだった。着弾点から全方位へ、瞬く間に。いっそ強烈という表現すら生温い空気の爆発が、凄まじい勢いで地上の全てを薙ぎ払った。

 事象自体は単純だ。物体が地面に衝突し、その風圧が周囲に拡散される。ただそれだけの話。

 

 だが、その速度を異常なまでに吊り上げるとどうなるか。

 

 立ち並んでいた廃墟の群れ。わずかに残っていたアスファルトの残骸。それら全てが音速の二倍から三倍の勢いで消し飛ばされていく。吹き荒ぶ爆風は異常な力で空気と擦れ合い、辺り一帯をオレンジ色に赤熱させる。

 それは衝撃波というより、熱波の壁だった。同心円状に広がっていく圧倒的熱量の壁が、ただただ周囲の景色を塵も残さず外へ外へと押し出していくのと同義であった。

 

 数十秒。

 

 爆風が収まるまで、それほどの時間を要した。

 空気の流れが穏やかになった頃には、景色が一変していた。

 端から端まで、約三キロ。それほどの長距離に渡り、荒廃した都市の真ん中が半月状に抉られていた。その表面。削られた大地からは薄い蒸気が立ち昇り、今なお冷め切らない摩擦熱が周囲の空気まで熱していく。

 

 被害はそこだけに留まらない。着弾点から発生した余波は、クレーターからさらに一キロメートル先までの空間を丸ごと飲み込んでいた。無人の建築物の群れがもっと広い範囲で消滅している。

 後に残ったのは、更地。荒野。剥き出しの地盤。

 視界の遥か向こうまで、無機質なクレーターが広がっているだけだった。

 

 

 

 だからこそ。

 爆心地に立つ『それ』の姿は、何にも邪魔される事なく鮮明に曝け出される。

 

 

 

 落ちてきたものの正体。

『それ』は、構成要素だけを見ればかなり人間に近かった。

 二本の足で地面に立ち、その上に胴・腕・頭の順に並ぶ全体像。女性のようなシルエットで、その全身がザラザラした質感に覆われている。顔の目や口には穴が開いておらず、表面の凹凸だけで表現されていた。背中から生える、全長五メートルの巨大な六枚の翼も、肉体と地続きの材質で出来ている。

 

 見る者によっては、岩を彫って作られた『天使像』を彷彿としただろう。

 だが、間違っても神聖さなど感じるはずもないその異形。

 

 二本の足は、カマドウマの脚をさらに露骨にしたように長く複雑に折れ曲がる。胴体から生える腕も明らかにおかしい。二本ではない。生える場所も肩ではない。数十本もの腕が、DNAのような二重螺旋を描きながら全身をグルリと囲むように伸びている。体の最上部には五本の首が生え、それぞれの先端に喜・怒・哀・楽・無の顔が乗っていた。

 極めつけに、背中から生えた翼の表面。

 そこにびっしりと、無数の眼球がザクロの断面の如く不気味に敷き詰められ、生物的な動きでギョロギョロと蠢いていた。

 

 そんな『何か』が。

 体長五メートルを超える、タイコンデロガ級の『魔物』が。

 ゴリリ、ゴリリリリリッ、と碾き臼のような音を上げながら、体を動かし、五つの顔をそれぞれ異なる方角に向けて、凹凸だけで表現された口を大きく広げ。そして。

 

 叫ぶ。

 

 次の瞬間、空気が震えた。

 ()()()()()()()()

 魔物が絶叫した途端、空間そのものがビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリ!! と掘削機よりも高速で震動し、風景全体の輪郭を激しくブレさせる。人間の声帯とは次元が違う、世界を芯から揺さ振るような高圧的な空気振動だった。

 

 震える世界の中で、その魔物は全身を大きく振り回す。

 攻撃ではない。探していた。まだどこかにいる己の『敵』を。

 

 ───分かるのだ。痛いほどに。

 ───生きていると。さっきの一撃で仕留め切れなかったと。

 己を構成している霧の一粒一粒が、今なおどこからか向けられる僅かな『敵意』に反応し、絶叫している。それが数億数兆数京と集まり、共振し、増幅され、自分の体を自分で引き裂くような、激痛を伴う防衛本能として炸裂し続けていた。

 

 叫ぶ。探す。翼を振り回す。どこだ。痛い。どこにいる。探す。叫ぶ。痛い。叫ぶ。全身を振り回す。痛い。どこにいる。痛い。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。

 

 耐え切れないとばかりに、無数の手が頭と体を掻き毟る。六枚の翼が乱雑に振るわれる。生じた爆風が大気を突き破り、ゴッ!! という烈風が半径数百メートルの空間を叩き割る。

 気付けば目的を見失っていた。

 何と戦おうとしていたのか。誰を殺そうとしていたのか。そもそも最初からそこまで明確な意思など持っていたのか。全てが激痛の波に押し流されて、魔物は標的も目的もなく暴れ回る。

 

 だからこそ、気付けなかった。

 魔物の感覚器官なら、あるいは察知できたかもしれない『その一瞬』に。

 見逃した。感じ取れなかった。

 爆心地から遠く遠く離れた一点、クレーターの(さい)(がい)(かく)の、さらに遥か彼方で。

 

 

 チカッ、と。

 何かが白く瞬いた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 その女性は、魔物の姿を視認できていなかった。

 

 それほど遠くに立っていた。

 クレーターの外周よりもさらに遠く、爆心地からおよそ一〇キロメートルも離れた地点に。

 

 魔物が狙いを誤り、見当違いの場所に墜落したわけではない。むしろ狙いは的確だった。人工衛星よりも正確な照準でもって、彼女の頭上目掛けて真っすぐ落ちてきていた。

 だが一歩遅かった。

 着弾する直前、彼女は後ろに向かって、トンッ、と軽く地面を蹴っていたのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 一直線上、真っすぐに。

 さながら光の速度を体現したかのように。

 

「離れ過ぎたかしら」

 

 何気ない言葉だった。

 衝撃波など微塵も届かない距離。無人の建築物がまだ何棟も立ち並んでいるような場所で、彼女は遠くのクレーターをぼんやり眺めながら。

 

「ま、大丈夫よね。方角さえ分かれば」

 

 己の腕を、緩やかに動かす。

 特別な構えなんて取らなかった。彼女は軽く握った右手を目の前にかざし、小指から順番に(ほど)いていく。花弁を広げる花の如く、褐色の手がゆっくり開かれていく。

 

 掌の上に、『光の粒子』が浮かんでいた。

 

 小さい。とにかく小さい。直径は一センチメートルもない。少し大きめの雪片、あるいは今が夜なら蛍の光にでも見えたか。本当にその程度の、小さく頼りない『光の凝縮体』だった。

 そんな光に向かって、彼女はたった一息。

 まるで掌に乗った花びらを舞い上げてみるみたいに、ふぅ、と優しく息を吹きかけた。

 直後だった。

 

 

 

 マーヤー・デーヴィーの掌から、莫大な閃光が迸った。

 と思った次の瞬間には、目の前の世界が一五キロメートル先まで真っ二つに裂けた。

 

 

 

 時間が止まる。

 衝撃波も粉塵も無かった。それらが発生するよりも早く完結した一連の現象は、もはや世界そのものの処理能力すら置き去りにしていた。

 一時的に全てが静止した景色の中で、『結果』だけが深々と刻まれている。

 

 マーヤーの掌から、白い残像が伸びていた。

 息を吹きかけた方角に、クレーターのある領域すら貫いて。遥か彼方まで一直線に。

 その軌跡をなぞるように大地が割れていた。地割れというより、巨大な何かが地面を引き裂きながら向こうまで駆け抜けたような有様だった。

 その破壊痕の正体は、先程の『光の粒子』。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だと、果たして誰が気付けたか。

 

 ちょっとでも角度を間違えば、惑星自体を貫きかねない極限速度の『光の矢』。

 そのスピードに、世界の方がようやく追い付いてきた。

 遅れていた物理現象が。体感的には止まっていた時間が。

 動く。

 

 ゴッ!!!!!! という衝撃波が、今さら炸裂した。

 さらに一拍遅れて、大地の裂け目から吹き上がる土煙が音速で向こうまで駆け抜けた。

 

 余波なんて意味を成さなかった。

 発生した頃にはとっくに全てが終わっていたからだ。

 直線上にある何もかもが消滅していた。建築物はもちろん、地面も深く抉り返され、クレーターすら突き抜け、()()()()()()()()()()()()()()()()()、さらに数キロ分も空間を貫いた。空から見下ろせば、ゴーストタウンに巨大な一本線が引かれているようにでも見えたか。

 

 世界を風景単位で削り取る猛威。それをたった一撃で実現させる異常性。

 始まりの魔法使いの一族、始祖十家。

 その本領。

 

「……さてと」

 

 異様に軽い声だった。

 引き裂かれた大地から今なお粉塵が舞い上がる中、マーヤー・デーヴィーはすでに別の方角に視線を向けていた。……今しがた消し飛ばした魔物は、明らかにタイコンデロガ級の魔物だった。本来なら一体倒すだけで苦労を強いられる。それほどの驚異だった。

 だからこそ。

 たかがタイコンデロガ一体程度に、いちいち拘泥している暇は無かった。

 

「次」

 

 簡単な言葉の直後だった。

 安心なんて無かった。

 霧が暴れ狂うこの世界では、一秒後の命だって保証されない。

 

 

 

 一瞬だった。

 廃街で棒立ちになるマーヤーの真横から、『何か』が音速の六倍で突っ込んできた。

 

 

 

 数分前に、天から地へ突き刺さった一撃。

 あれと同質の攻撃が、今度は地表を舐めるように襲い掛かる。

 何より今度は直撃。大地にキロ単位のクレーターを穿った破壊力が、人間一人の体に迷う事なく叩き込まれた。

 

 爆音も、衝撃波も、何の指標にもならない。

 

 激突の瞬間、ズン……ッッッ!!!!!! という激震が五キロ先までの大地を揺さ振る。それは空間そのものの大爆発だ。そこから放たれた惑星規模の運動エネルギーは地平線まで一気に駆け抜け、見渡す限りの地上を地盤ごとちゃぶ台返しのように引っ繰り返した。

 純粋な地殻変動が席巻する。

 周囲の建造物が木端微塵になって吹き飛んだ。あちこちに深さ数百メートルの亀裂が走り、地面全体が皺寄せした絨毯のように歪む。山と谷が形成される。現在進行形で地形が塗り替わる。

 そんな破壊が渦巻く、地獄の一丁目一番地で。

 

「あなたが『次』?」

 

 あるはずのない声が響く。

 激突地点。何もかもが消し飛んでいなければおかしいはずの場所から。

 理由は単純だった。

 

 

 

 立っていた。

 マーヤー・デーヴィーが無傷で。その場から一歩も動かずに。

 

 

 

 抉れ飛んだ地表の一点。彼女の立つその一点だけが吹き飛ばされずに、元の地盤を保っていた。まるで破壊を拒絶したような異質な空間の中で、マーヤーはただ真正面に視線を向ける。

 そして、かち合う。

 突っ込んできた『何者か』の、無数の視線と。

 

 全長五メートル。複雑に折れ曲がる脚。二重螺旋を描く無数の腕。凹凸だけで表現された五つの顔面。そんな魔物の一〇の瞳と、巨大な翼に敷き詰められた数え切れないほどの眼球が、恐ろしいほどの至近距離でマーヤーを捉え続ける。

 だが、届かない。

 天使像の魔物は、マーヤーに衝突する数センチ手前で『何か』に阻まれて静止していた。

 

 一〇〇層にも重なった透明な壁。

『結界の魔法』と呼ばれる、現代最高峰の防御魔法だった。

 

 発動者の体を球状に包む防護壁。激突した衝撃はおろか、爆風すら届かない絶対的な安全地帯の中で、マーヤーは不意に目を眇めた。

 結界に亀裂が走っていた。

 一〇〇にも連なる壁の外側が、四〇層ほど砕けていた。

 

『sajeaknhvea』

 

 その時、マーヤーの耳にノイズが届く。

 数センチメートルの近距離で、魔物の凹凸だけの口がモゾモゾと蠢いていた。

 

『つcsdmeramsalkkjaeつksd』

『euebezahbajつncksermnbah』

『bzghafyralmzayつkehつazmiつinnn』

『mldzbつplamcvbxzcぎdafjklqw』

『つhbsacつfdskjぎeuiostつzbahuつelm』

 

 のっぺりとした五つの顔面が、連鎖的に動き出す。

 口が開く。音が鳴る。ノイズの合間にかろうじて言葉のようなものが混ざる。何を言おうとしているのか。あるいは誰の声を真似しようとしているのか。ノイズは着実に調整され、意味のある音を形成し、周波数すら合わせるように、それはサンプル通りの声と抑揚と言葉で。

 五つの口が、一斉に。

 

『『『『『次』』』』』

 

 マーヤー・デーヴィーと全く同じ声音で、言う。

 直後だった。

 魔物の背中にある六枚の翼が、ギュルリ!! と大きく渦を巻く。翼の形状が変化する。出来たのは六本の円柱だった。いいや違う。それは長大な『噴出口』だ。

 ……『次』は、すぐに来た。

 

 ズドッ!!!!!! と。

 空気を震わせる爆音と共に、六本の噴出口から凄まじい速度で霧の奔流が噴き出した。

 

 マーヤーに向けて、ではなく、マーヤーとは反対方向に。

 結界に阻まれた自分の体を、そのまま押し進めるように。

 つまりはジェット噴射。魔物は力技で結界をぶち抜く選択をした。そもそも彼女に突っ込んできた時も……もっと言えば最初に空から落下してきた個体も、同じ方法で推進力を得ていたのか。

 そして、その選択は正しかった。

 ピシリッ、と。

 結界に、さらに大きな亀裂が走る。

 

『『『『『次』』』』』

 

 有効と判断されたのか、今度は全身に生えた腕が渦を巻いた。

 バイクのマフラーほどの大きさの噴出口が、一気に数十本も追加される。

 即座に点火した。

 ゴォォォォォォォォォォォォォォォバアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!! という音の洪水を撒き散らしながら、霧の噴射速度がさらに上がる。あまりの空気摩擦に空間が熱され、周囲が赤く白く染まっていく。

 

 噴き出す霧は、魔物自身の肉体を構成してる霧なのだろう。魔物の体が目に見えて縮小していくのが分かる。体の外側からベゴリ! ベゴリ!! とペットボトルのように凹んでいく。

 だが、肉体が尽きるよりも、結界を突き破る方が早い。

 ビシィ!! と決定的な音が鳴り、残り六〇層の結界にまとめて巨大な亀裂が走っていた。

 にも拘わらず。

 

「強いわね。私達の世界(あっち)とは比べ物にならない」

 

 マーヤーの声に、依然として焦燥は無かった。

 

「けど、私達だって強いんだから」

 

 今にも割れそうな結界の内側で、彼女は右手の人差し指を立てる。

 その先端に、微かな白い光が灯る。

 

「スペインで魔物を倒して、霧が減ってから……少ない魔力でも戦えるように、命令式を改良し続けてきたんだもの」

 

 結界の崩壊が、致命的な一線を超えた。

 マーヤーを覆う結界全体に、亀裂を通り越して巨大な裂け目が駆け巡る。

 割れる。砕ける。絶対的な聖域が。

 その直前に。

 

「霧が濃い裏世界(こちら)なら、なおさらよ」

 

 立てた人差し指を、下から上へ軽く振った。

 それだけだった。

 

 

 

 割れた。

 

 

 

 具体的に何が、ではなく、全部が。

 マーヤーが振った指先をなぞるような軌道で、視界に映る風景全体が。

 結界が外から壊されるよりも早く、内側から縦方向に引き裂かれた。直後、木端微塵に砕け散った結界をぶち抜いて、魔物は全速力でマーヤーに激突……しなかった。魔物はマーヤーの体を避けるように真っ二つに分かたれ、そのままあらぬ方向へ突っ込んでいった。

 

 その一閃で命を絶たれたのだろう。

 真っ二つになった魔物は速度の大半を失いながら、彼女の遥か後方に斜めに着弾する。地面が数百メートル先まで吹き飛び、大爆発のような粉塵が舞い上がる。その中に、土や砂とは明らかに違う『粒子』が混ざっていた。魔物の体が霧散したのだ。

 だが、より特筆すべきはマーヤーの頭上にあった。

 

 裂けていた。

 空を覆う一面の『黒』が、視界に映らないほど遠くまで一直線に。

 

 彼女が振った指の軌道を追って、真っすぐ縦方向。刃渡り数百キロメートルの剣でも振り回したかのように、天空に漂っていた濃密な『霧の雲』が綺麗に割れていた。先程の一閃は、大空にまで届いていたのだ。信じられない事に、裂け目の向こうに爽やかな青空が垣間見える。

 が、それも長くは続かない。

 霧の雲の体積が、目に見えて膨張した。

 引き裂かれた部分を補うかの如く、青空はすぐに黒い霧で塗り潰されていく。

 

「やっぱり魔物の本体に接触できなきゃ意味がないのね」

 

 今さらではあった。

 自分達の知る魔物よりも死に近いというのなら、力技による霧の殲滅も可能ではないかと妄想していたが、そう上手くはいかないらしい。むしろ死の痛みに苦しむ霧は、自分達の知る霧よりも強く激しく暴れ狂い、一個体が持つ力もさらに絶大に膨れ上がっている。

 最終的には、『彼ら』に任せるしかない。

 あちらの世界の霧……リゼットに託された、『霧の欠片』を持つ彼らに。

 

「…………」

 

 黒い空の続くどこかの大地で、今なお戦っているであろう子達の無事を祈る。そして無事でいてくれるために、大人の自分は何をしなければいけないのかを明確に思い浮かべる。

 やるべき事はたった一つ。

 可能な限り、彼らの負担を減らす。

 彼らに向かっていく霧の魔物を、とにかく全力で駆逐する。

 それだけ分かれば十分だった。

 

「よし」

 

 マーヤー・デーヴィーは両手で自分の頬を叩き、今一度気合いを入れ直す。手を握ったり開いたりしながら、体内の魔力の巡りを感じ取る。己のコンディションは先の二発で確かめた。

 絶好調だ。

 

「次」

 

 先程からずっと、何かが近付いている気配だけは感じていた。

 一切の迷いもなく、背後を振り向く。

 そして見た。

 

 廃墟の群れを随分と吹き飛ばし、見通しがよくなったゴーストタウン。その遥か向こう。

 主観的には世界の果てが、何かおかしい。

 黒い。視界の右から左まで、一面を覆い尽くすほどのドス黒い何かが、猛スピードでコチラに迫ってきていた。まるでゴーストタウン全体を呑み込む砂嵐のように見えるが、実態は違う。マーヤーの立つ位置からでも分かるほど、砂嵐の表面が露骨に怪しく蠢いていた。

 

 霧の魔物。

 

 大地を駆けて来るだけではない。縦にも連なり、横にも無限に広がりながら。数百数千数万も寄せ集まった魔物の群れが、街はおろか万物を飲み干す巨大な津波と化して襲来した。

 遠くで地鳴りのような轟音が鳴り響く。魔物の波が、進行方向にある廃墟の群れを触れたそばから灰燼に帰しながら、一直線に向かって来ているのだ。

 

 それでもなお、臆する理由は無かった。

 インドの始祖十家、マーヤー・デーヴィーはむしろ、その大津波に向かって一歩を踏み出した。

 

 突如、彼女の周囲に『光の球体』が浮かび上がる。相変わらず小さいが、数が多い。一〇や二〇ではない。一〇〇や二〇〇もの球体が一気に。

 それらは迫り来る津波と対峙するように、マーヤーを中心として壁のように並ぶ。

 

「悪いけど、皆の所には行かせないわよ」

 

 声はようやく、低く鋭く、万全の威圧感をもって吐き出される。

 前哨戦は終わった。

 ここからが、ようやく『本番』だ。

 

「来なさい」

 

 彼女は真っすぐ貫くように、宣戦布告の言葉を告げる。

 直後だった。

 

 

 

 朱鷺坂チトセの裏世界(こきょう)を救うため、転校生の呼びかけに応じた魔法使いの一人。

 マーヤー・デーヴィーと霧の魔物、一人と数万の、あまりに不釣り合いな全面戦争が始まった。

 

 

 

 

 

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