《清掃課》
情報局や情報部に内包される部署。事件・任務発生後の現場処理、証拠隠滅、死体処理、メディア用のカバーストーリー作成・情報統制を担当。
午後五時を回った北押上駅は、一日の終わりを急ぐ人々の濁流に飲み込まれていた。
ホームには、黒いスーツの群れ、制服の集団、そして無数のスマートフォンが放つ青白い光が溢れ、淀んだ空気の中で混ざり合っている。疲労と倦怠を乗せた列車が滑り込むたび、人々はまるで意思を失った部品のように吐き出され、吸い込まれていく。改札を抜ける足音、自動販売機のボタンを叩く音、そして誰かの咳払い。全てが雑多に絡み合い、地下空間に響き渡る。
その
無機質なモニターが十数台並ぶ部屋には、彼女以外に人影はない。いや、正確にはもう一人。隣の席で、白石賢治がスマートフォンの画面を忙しなくタップしている。その音が、ユキの集中を微かに乱していた。
「……早く済ませるよ。テロリストどもにも、あの子たちにも、気づかれないようにね」
ユキは独り言のように呟き、コンソールを操作する。指先が軽やかにキーボードを叩くたび、モニターの映像が次々と切り替わっていく。ホーム全体を映すカメラ、改札口、線路内、地上の駅前広場。全てが彼女の掌の上にある。
「どっちにも
白石は画面から一切目を離さず、気のない返事をした。彼の関心は、この作戦よりも目先のゲームイベントにあるらしい。
「リーダーが面倒だと、作戦も面倒になるのよ」
ユキは白石の怠惰を無視し、指先でメッセージを打ち込む。宛先はツバキ。DA中央司令部情報局の女だ。件名には『北押上作戦・最終確認』とだけ記されている。送信ボタンを押すと、画面に小さなチェックマークが表示された。
その直後、駅構内に澄んだチャイムが鳴り響いた。
『お客様にご案内いたします。現在、当駅構内の制御システムに不具合が発生したため、列車の運転を一時見合わせております』
ホームの人々が一斉に顔を上げ、低いどよめきが波のように広がった。舌打ち、ため息、電話をかけ始める男。スマートフォンを取り出して乗換案内を検索する女性。子供を抱えた母親が、不安そうに周囲を見回している。だが、そのどれもが
『安全確認のため、恐れ入りますが、お客様には一時、改札外へのご退避をお願いいたします。ご不便をおかけして誠に申し訳ございません』
ラジアータが紡ぐ冷静な合成音声は完璧だった。緊急性を匂わせず、しかし確実に群衆を出口へと誘導する。アナウンスが繰り返されるたび、人々は次第に階段やエスカレーターへと流れ始める。不満の声は上がるものの、それは誰もが経験したことのある
「あのガラクタ、早く次世代機に変えられない?」
ユキはモニターに映る
「今年中は無理だな」
白石がゲームの合間に答える。
「必要なブツが足りないんだとさ」
モニター越しに見る人々の動きは、まさに計算通りだった。不満そうな顔をしながらも、彼らは素直に出口に向かって流れ始める。制服姿の駅員が、丁寧に誘導の身振りを続けている。その駅員のいくらかは、実はDA情報局から派遣された工作員だ。
ユキは地上のカメラに切り替える。改札外に出た乗客たちが、駅前広場に溜まり始めている。何人かは、スマートフォンで駅の様子を撮影していた。SNSに投稿するつもりだろう。ユキは小さく舌打ちをした。
「規制班、配置につけ」
白石が面倒そうにマイクへ指示を出すと、待機していた警備員の制服を着た工作員たちが素早く動き出した。駅の入り口に黄色いテープが張られ、「点検作業中・立入禁止」の看板が立てられる。表向きは、ありふれた鉄道の設備点検作業だ。工作員たちは、本物の警備員と見分けがつかないほど自然に振る舞っている。一人が無線機に向かって何か話し、もう一人がクリップボードに何かを書き込んでいる。
「監視網の状況は?」
「ラジアータ稼働中。今のところ、目立った投稿はねぇ。数名が動画投稿してるが、問題のある内容じゃねえよ」
白石の指が、ゲーム用スマホとSNS用スマホを器用に往復する。自分のスマートフォンでも確認すると、リアルタイムで更新されるSNSのタイムラインには、『北押上駅で電車止まってる』『なんか点検してるっぽい』『帰れねえ』といった投稿が次々と流れていく。
「『北押上駅で電車止まってる。なんか点検してるっぽい』……これぐらいなら問題ねえ」
白石が一つの投稿を読み上げる。添付された動画には、黄色いテープと立入禁止の看板が映っている。だが、それ以上の情報は何もない。
ユキは頷き、線路内の暗視カメラに切り替えた。無人となった薄暗い線路上で、作業員の格好をした数名が、いかにも点検をしている風に動き回っている。一人が懐中電灯で線路を照らし、もう一人が何かの機器を操作している。その動きは完璧に計算されており、遠目には本物の点検作業にしか見えない。
だが、ユキは知っている。彼らが本当にやっているのは、ホーム内に仕掛けられた爆薬の最終確認だ。
「リコリスの準備は?」
「スタンバイ完了。予定時刻に合わせて、自動運転で侵入する」
白石の声は淡々としていた。彼のゲーム画面では、建物内の敵を次々と倒し、『キルログ』が流れていく。
その時だった。白石の動きが止まる。ゲームの画面から、彼の視線がSNS監視画面へと移った。
「……ユキ。気になる投稿があるぜ」
ユキは彼のスマホを覗き込んだ。画面には、こう書かれていた。
『北押上の規制、いつものメンテと違う気がする。警備員の配置が異常に多い気がする? 何かあるのかな。#鉄道 #北押上駅 #怪しい』
投稿者のプロフィールを一瞥する。フォロワー数千人、アイコンは電車の正面。プロフィール欄には『鉄道愛好家/車両写真/運行情報収集』と書かれている。過去の投稿を見ると、線路配置図や運行ダイヤの分析、駅員の動線に関する考察などが並んでいる。厄介な人種だ。
「……面倒ね」
ユキの眉間に、小さな皺が寄る。こういう人間は、些細な違和感を見逃さない。そして、その違和感を、同じような趣味を持つコミュニティに広める。
「作戦局に報告するか?」
白石が訊ねる。
「まだ憶測の段階よ。泳がせなさい。ただし、そのアカウントを最優先でマークして。投稿内容が拡散され始めたら、即座にラジアータで情報統制をかける」
「了解」
白石が素早く操作を行う。鉄道マニアのアカウントに、赤い監視マークが付けられた。これで、彼の投稿は全てリアルタイムで監視され、必要に応じて削除、あるいは「偶然のシステムエラー」として投稿が失敗したことにされる。
午後五時三十分。駅構内から人の気配は完全に消えた。あれほど溢れていた喧騒が嘘のように静まり返り、蛍光灯の白い光だけが、虚しくホームを照らしている。自動販売機の冷却ファンが低い音を立て、天井の空調が微かに唸っている。それ以外に、何の音もない。
「避難完了。線路内クリア」
白石が確認する。モニターには、無人の駅構内が映し出されている。ホームのベンチには、誰かが置き忘れた雑誌が一冊、風に煽られてページをめくっている。
「マジマ侵入まで、あと十分」
ユキは時計を一瞥する。秒針が、静かに時を刻んでいる。
「リコリス作戦開始」
彼女の指が、最後のキーを叩く。モニターの片隅で、地下鉄のトンネルの暗闇から、一つの光点がこちらへ向かってくるのが映し出された。彼女たちを乗せた、自動運転の棺桶だ。列車は、何も知らない少女たちを、計算された戦場へと運んでいく。
午後五時四十分。地下深くの別ルートから、計画通りに真島を含むテロリストたちが侵入した。赤外線カメラが、彼らの熱源を捉える。六名。全員が重火器で武装している。
それとほぼ同時に、リコリスたちを乗せた列車が、ホームへと滑り込む。ドアが開き、テロリスト共に斉射する。彼女たちの動きは、訓練された兵士のそれだ。
そして、次の瞬間。地下に、銃声が響き渡った。
「北押上、予定通り襲撃。マジマの生存確認」
ケンジの声は淡々としていた。彼のスマートフォンが、ブロッコリーのような被り物を着けたフクロウと共に『WINNER WINNER CHICKEN DINNER』の文字を表示する。
「公式発表どうなってる?」
ユキが訊ねる。賢治は、SNS監視画面を見せた。
全鉄道事業者の公式アカウントから一斉に情報が発信された。タイムスタンプは午後五時四十分。完璧なタイミングだ。
『午後五時四十分頃、北押上駅構内にて、回送列車の脱線事故が発生しました。現在、安全確認のため、運転を見合わせております。お客様にはご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません』
SNSのタイムラインが、一気に加速する。
『ヤバい音聞こえた!』『地震かと思った、脱線かよ』『さっきまであそこにいた……怖』『運転再開いつ?』『振替輸送どうなるんだ』
投稿は次々と増えていく。だが、そのどれもが「脱線事故」という公式発表を前提としたものばかりだ。
「いずれも『脱線事故の衝撃』としての認識だな」
完璧だった。先ほどの鉄道マニアも、取るに足らない投稿を更新している。
愚かなことだ。情報統制とは、嘘をつくことではない。人々が自ら、都合の良い解釈をするように誘導することだ。
作業員たちは既に、事故処理のために瓦礫を撤去し始めているだろう。彼らは、手際よく弾痕を埋め、証拠を回収する。
ここで戦闘があったことなど、誰にも分からなくなる。
「作戦成功。情報統制も完璧」
白石が伸びをする。
「お疲れさま。でも、これからが本当の後始末よ」
ユキは立ち上がり、コンソールの電源を落とし始める。モニターが一つ、また一つと暗転していく。
「明日の朝刊には『回送列車脱線、けが人なし』の記事が載る。一週間もすれば、誰もこの事故なんて覚えてねえだろ」
白石が伸びをする。彼は、自分のスマートフォンをポケットにしまい、監視室の照明を落とした。
「それじゃあ、撤収……」
「まだまだ。確認作業が残ってる」
ケンジの声が、暗闇の中で響く。ユキは、ため息をついて立ち止まった。
「そうだった。あの子たちは、私の可愛い
その表情に、憐憫や罪悪感といった非合理的な感情は、一切浮かんでいなかった。