双影のヤタガラス   作:ファンの一人

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《喫茶リコリコ》
 東京都墨田区の下町に存在する喫茶店。
 DA内での扱いは、リコリス関東本部リコリコ支部である。中央司令部内では、消滅させようとする動きがあった。


第2話Scene1:合理と非合理の隙間

 今日も喫茶リコリコは、閑古鳥が鳴いている。店内に響くのは、時折聞こえるカップとソーサーの触れ合う音と、遠くから聞こえる街の雑音だけ。午後の陽射しが窓から差し込み、テーブルの上にまだらな光と影を作っている。本当にこの店は大丈夫なのだろうかと、ふと考えてしまう。レジに入る売上を見る度に、経営の心配をしてしまうのは何だろうか。もっとも、このあと依頼が入っているため営業は中断する予定だ。リコリスの支部としては「空いている」くらいでちょうどいいのかもしれない。表の顔は喫茶店、裏の顔は秘密機関――そんな二重生活には、適度な静けさが必要なのだろう。

 

 それでも、久しぶりに顔を出した客がいた。吉松さんだ。実に一か月ぶりの来店で、相変わらずの穏やかな佇まいで店内をゆっくりと見回している。彼は落ち着いた様子でコーヒーを頼み、店長と何かやり取りをしていた。二人の会話は聞こえないが、時折店長が深く頷く姿が見え、吉松さんも満足そうに微笑んでいた。何やら重要な話をしているようだが、お客様の前では詮索するわけにもいかない。

 

 本日のホール当番だった私は、タイミングを見計らって更衣室へ下がる。喫茶店モードからリコリスモードへ切り替える時間だ。この瞬間の気持ちの切り替えは、もはや日常の一部となっている。

 

 和服のユニフォームにも、すっかり慣れた。最初は帯の結び方に手間取り、着付けだけで10分以上かかっていたが、今ではリコリスの制服と同じタイムで着脱できる。鏡に映る自分を見て、そっと頬に手を当てる。あのときフキさんに殴られて以来、ずっと貼っていたガーゼを、今朝ようやく剥がした。もう跡はすっかり消え、表情も以前と変わらない。指で軽く触れても、もう痛みはない。けれど、心の奥にはあの日の痛みが薄く残っている気がする。物理的な傷は治っても、精神的な傷跡はそう簡単には消えないものだ。あの時の自分の無力さを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。

 

「ありがとうございました〜」

 

 制服に着替えてホールへ戻ると、千束さんがちょうど店の扉をくぐったところだった。吉松さんから受け取ったらしい……でんでん太鼓?を両手で握り、まるで子供のように嬉しそうに振りながら挨拶している。

 

 軽く会釈をする。吉松さんは、こちらに目を向けて会釈を返す。あの穏やかな表情からは、特別な意味を読み取ることはできない。

 


 

「駐車場に車が用意してあるので、その車でミズキさんと合流……どうしたんですか」

 

 私が駐車場までの移動中、今回の任務について説明しようとした時、千束さんが急に足を止めて振り返った。その表情には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

 

「依頼者って凄腕のハッカーなんでしょ」

 

 歩道の真ん中で千束さんが、わざとらしく指を曲げてキーボードを叩く真似をし、存在しないメガネを人差し指で押し上げる仕草をする。その大げさな演技に、通行人が振り返って奇妙な目を向けている。

 

「メガネかけた男の人かな?デュフフ」

 

 声まで作って、まるで何らかのキャラクターを演じているようだ。その姿があまりにも滑稽で、私は思わず溜息をついてしまった。

 

「映画の見すぎです。目立つ行動は控えてください」

 

 私は真剣に返しながらも、周囲に視線を配って気は引き締めていた。今回の任務はただの護衛ではない。対象は"ウォールナット"――情報の世界で名を馳せた人物だ。そんな人物を狙う敵がいるなら、相当な手練れである可能性が高い。街中での油断は命取りになりかねない。

 

「店長から指示はありませんでしたが、琥珀さんは?」

 

 メンバー構成の確認は任務の基本だ。私がそう尋ねると、千束さんの表情がにやりと変わった。

 

「おや〜。たきなさんは男の子が気になるのかな?」

 

 千束さんの声音には、からかいの色が濃く滲んでいた。いつものように人の反応を楽しむような、少し意地悪な笑みを浮かべている。眉を八の字にして、わざと困ったような表情まで作っている。しかし、私は眉一つ動かさなかった。そういう冗談を言うのは千束さんの常だし、いちいち反応していてはきりがない。

 

「違います」

 

 言葉に余計な熱を込めず、ただ事実を告げるように返す。私の関心は千束さんの揶揄ではなく、依頼の内容とこれからの行動にあった。メンバーの把握は任務の基本であり、個人的な感情は関係ない。

 

「なんだぁ。つまんないの」

 

 千束さんが頬を膨らませて不満そうな顔をする。

 

「でも先生から何も言われてないって事は任務に含まれてないってことだよ。琥珀は別の仕事があるんじゃない?」

 

 千束さんの笑みが、どこか含みを帯びたように見えた。冗談を言いながらも、その奥では何かを測っているような視線。琥珀さんの話題になるとき、千束さんはいつも少しだけ声色を変える気がする。まるで何か知っていることがあるような、そんな雰囲気だ。

 

 琥珀さんがリコリコで働いているのをあまり見たことがない。店長曰く「ここはリコリス側の支部だから」とのことだが、それにしても姿を見ることは少ない。彼が来るときは専ら、裏で資料作成や地下倉庫の管理作業をしている姿を見かける程度だ。――先日も沙保里さん関連でクリーナーから請求書が送られてきたときには、事務室で頭を抱えながら「桁が一つ多いぞ」と唸っていたのが聞こえた。4月に喫茶店員として働いていたのは片手で数えられるほどであり、常連客からは「レアキャラ」?として扱われている。

 

 それに、依頼や任務で一緒になる事もほとんどなく、銃を撃っている所を見たことがなかった。訓練の際も、いつも通信担当や後方支援に回っている。……リリベルは発砲が許可されていないのだろうか?

 

「あれ、何か近づいてくる」

 

 そんな事を考えていると、千束さんが不意に振り返った。視線の先には、猛スピードで走ってくる車両があった。黄色い軽自動車が、エンジンを唸らせながらこちらに向かってくる。運転が荒く、道の真ん中を蛇行しながらこちらに迫る勢いだ。ブレーキをかける気配もなく、このままでは突っ込んでくる可能性もある。

 

「危ない!」

 

 私はすぐにバックに手を伸ばし、中のハンドガンを取り出そうとした瞬間、車は急激にハンドルを切った。タイヤが悲鳴のような軋み音を立てながら、わずかにズレて私たちの真横にぴたりと停車する。急ブレーキの匂いとエンジンの熱気が肌に伝わってくる。

 

 ウィーン、と電動の音とともに運転席の窓が下がる。中から顔を覗かせたのは……いや、顔ではない。茶色い毛玉のような、熊?の着ぐるみの頭部がガバリとこちらを向き、どこかコミカルな外見とは裏腹に、スピーカー越しのような電子音声を響かせた。

 

『ウォール』

 

 事前に決められていた暗号だ。少し機械的に歪んだ声だが、はっきりと聞き取れる。予想していたとはいえ、実際に着ぐるみから電子音声が響くと、現実味がなくて戸惑ってしまう。

 

「ナット」

 

 私は即座に返答する。緊張で喉が少し渇いていた。

 

 暗号が噛み合ったのを確認し、後部座席のドアノブに手をかける。車内からは意外にも演歌のような音楽が漏れ聞こえてくる。

 

「えっ、何その暗号。ダッサ」

 

 千束さんは呆れたように笑いながらも、私が先に乗り込むのを見て、慌てて後を追う。

 

『早く乗れ。追っ手が来る』

 

 スピーカーの声は低く急かすような調子だった。千束さんは「はいはい、分かってますよー」と渋々といった表情で私の隣に腰を下ろした。

 

 車内を見回すと、運転席に奇妙な着ぐるみを着た護衛対象、助手席には鮮やかな黄色の大容量スーツケースが鎮座している。後部座席には私たちが座り、なんとも不思議で非現実的な光景である。まるでコメディ映画の一場面のようだ。

 

「何で護衛対象が、颯爽と自分から現れてるんですか。普通は逆でしょう」

 

 千束の口調には、隠しきれない不満がにじんでいた。冗談めかした声色であっても、瞳の奥にはわずかな苛立ちが混じる。いつもの軽やかな調子とは違って、声に棘がある。護衛対象というより、むしろこちらを翻弄して楽しんでいるようなウォールナットの態度が、彼女の神経を逆撫でしているのだろう。

 

「私たちが迎えに行くものだと思ってました」

 

「イレギュラーが起きて済まない。だが、予想外の事態にも対処できるんだろ。リコリス」

 

 着ぐるみの奥から響いた声は、低く平板な電子音声。だがその抑揚のなさが、かえって挑発めいて聞こえる。見えない表情の裏で、こちらの反応を試しているように思えた。

 

「あれ。ウォールナットさん、私たちのこと知ってるんですか?」

 

 千束が身を乗り出すようにして問いかける。軽口を叩きながらも、視線は一瞬鋭さを帯びていた。相手がどこまで把握しているかは、任務において重要な情報だ。予想以上に詳しく調べられているかもしれない。

 

『命を預けるんだ。調べるに決まっているだろう。錦木千束と井ノ上たきな』

 

 即答。迷いのない声は、すでに詳細まで調査済みであることを裏付けていた。

 千束はわざと大げさに肩をすくめ、口角を上げる。

 

「あはは、バレちゃってるし。私たち有名人だね、たきな」

 

 軽い調子だが、その仕草はほんのわずかに硬さを帯びている。笑顔の裏に緊張を隠す彼女の癖を、私はもう何度も見てきた。

 

『ボクにかかれば、裏の世界を調べ上げるのは簡単だ。JKの殺し屋なんて非合理的だからな』

 

 吐き捨てるような声音。合理を口にするその響きは、どこか人間味を削ぎ落とした冷たさがあった。まるで人間を数値でしか見ていないような、そんな印象を受ける。

 

「熊のハッカーよりは合理的ですけど」

 私が冷たく言い返すと、すぐ横で千束が声を弾ませる。

「たきな。犬だよ、犬」

 千束が指差しながら訂正する。

 

『リスだ』

 

 ウォールナットが不機嫌そうに訂正する。

 

 妙な三者三様のやりとり。軽口の応酬が、車内の張り詰めた空気を一瞬だけ緩ませる。しかしその直後、場を覆ったのは気まずい静寂だった。車内にはスピーカーから流れる音楽だけが残り、エンジン音と混じってやけに耳に付く。

 

「……お隣のスーツケースは?」

 

 沈黙を断ち切るため、私は前の助手席に置かれたケースへと顎をしゃくった。かなり大きく、持ち上げるのも大変そうに見える。

 

『これはボクのすべてだ。国外逃亡するには身軽な方がいいからな』

 

 平然とした答え。しかし、その「すべて」という言葉の重みに、私は思わずまぶたを瞬かせる。人間関係でも思い出でもなく、ただ一つの物に自分の人生を集約している――そんな声音だった。

 

「身軽って、リスの着ぐるみで言うことじゃ無いでしょ」

 

 千束が口を尖らせ、子どものように文句を言う。その表情には純粋な疑問と呆れが混じっている。

 

「どう見ても目立ってますよ」

 

『ハッカーは素顔を隠した方が長生きできるんだよ。JKのどこに合理的な要素がある?』

 

「日本で一番警戒されない姿なんですよ」

 

 千束がさらりと返す。自嘲でも誇りでもなく、ただ事実として口にする。実際、制服を着た女子高生ほど街に溶け込める姿はない。

 

『JKの制服が都会の迷彩服だと言いたいのか?』

 

 ウォールナットの声が皮肉めいて響く。しかし、その奥には少しだけ興味深そうな響きも混じっていた。

 

 そんなやりとりの最中、私は窓の外を注意深く見ていて異変に気づいた。進行方向が微妙にずれている。窓の外を流れる景色は、高速道路の入り口から外れていき、私たちの乗るべきルートがどんどん遠のいていた。建物の並びが事前に確認していた地図と違っている。

 

「ルートが違いませんか?」

 

『……すまない。車を乗っ取られた』

 

 短い報告。だがその冷静すぎる声音は、逆に事態の深刻さを告げているように感じられた。

 

 ウォールナットはハンドルから完全に手を離し、慌ただしくタブレットに指を走らせる。画面には複雑なプログラムコードが縦に流れ、時折赤い警告音が鳴る。ナビ画面に映し出されたロボットのアイコンが、一瞬だけリスのマークに切り替わる。しかし勝負はあっという間に決した。リスは押し戻され、再び私達を嘲笑うかのようにロボットのアイコンが画面を支配する。

 

「どこに向かってるのこの車!」

 

 千束が声を上げる。焦りよりも苛立ちを込めた叫びだった。窓の外の景色はどんどん見慣れない場所になっていく。

 

『海だ。おそらく東京湾。ロボ太め、腕を上げたな』

 

 ウォールナットがぽつりとつぶやく。その声音には、わずかな感心がにじんでいた。

 

「関心してる場合じゃないでしょう!海に突っ込む気!」

 

 千束さんの声が尖る。こんな状況で技術的な興味を示すなんて、やはり只者ではない。

 

「もう一度やってください。制御を取り戻した瞬間に飛び降りましょう」

 

 私が指示を飛ばす。胸の奥が熱くなり、鼓動が一段高鳴った。アドレナリンが血管を駆け巡る感覚が全身に広がる。

 

『わかった。3秒だけ制御を奪える。その間に飛び降りろ。スーツケースを頼む、くれぐれも丁重にな』

 

 着ぐるみの声が告げる。ふざけた言い回しの奥に、本物の緊迫感が滲んでいた。

 

「3、2、1……跳べ!」

 

 ウォールナットの合図と同時に、私はスーツケース――あのときの機関銃より遥かに重い――を抱え、車のドアを蹴って外に飛び降りた。アスファルトに着地する瞬間、膝で衝撃を受け流す。重量のあるケースが腕に食い込む。

 


 

 千束さんとウォールナットもうまく飛び降りられたらしく、それぞれ受け身を取って立ち上がる。千束さんは猫のような身軽さで軽やかに着地し、膝を柔らかく曲げて衝撃を吸収する。一方、ウォールナットは厚手の着ぐるみに手足を取られ、ややもたつきながらもなんとか体勢を整えていた。着ぐるみの頭部がずれて視界が悪そうで、小刻みに首を振って位置を直している。

 

「今スーパーの跡地に到着しました。3人とも目立った傷はありません」

 

 私がインカムに向かって状況を報告する。

 

『わかった。気をつけて行動してくれ』

 

 店長の低く落ち着いた声が返ってくる。いつもの冷静な調子だが、その奥に隠しきれない心配そうな響きが含まれていた。私たちを案じる気持ちが、短い言葉の端々ににじみ出ている。

 

 この廃墟と化したスーパーの内部は、かつての面影を微かに留めるだけだった。錆びついたレジカウンター、ひしゃげて倒れかかった陳列棚――商品は一つも残っておらず、蛍光灯の多くは割れ、残ったものも薄汚れて光を失っている。床には砂埃と小さな瓦礫が散乱し、足音が鈍く響く。打ち捨てられた建物の重苦しい静けさは、一瞬でアサルトライフルの乾いた発砲音にかき消された。

 

「いたぞ!」

 

 怒鳴り声と共に、スーパーの入口を蹴破るようにして武装集団がなだれ込んできる。アサルトライフルを抱えた5名の男たち。全員が黒い戦闘服に身を包み、サングラスで顔を隠している。動きに迷いはなく、隊列を組んで侵入する様子は完全に訓練された部隊のものだ。突入と同時に扇状に展開し、通路に弾幕を張ってこちらを一気に押し潰すつもりだろう。

 

 バラバラバラ――

 

 耳をつんざく連射音が店内に響く中、私は慌ててスーツケースに身を隠す。金属の表面に弾丸が当たり、火花が散った。

 

『待て!盾に使うな!丁重に扱えと言ったはずだ!』

 

 ウォールナットが遮蔽物の奥から怒鳴る声が聞こえる。だがその声と同時に、本人は焦りからか身を大きく動かし、倒れた棚の陰から体を晒してしまっている。護衛対象として最悪の行動だ。着ぐるみの丸い頭部が射線上に見え隠れしている。

 

「たきな、それ大事な物らしいよ!」

 

 千束さんが、困ったように肩をすくめて私に向かって叫ぶ。着ぐるみを必死に押さえ込むが、どこか余裕のある表情を浮かべていた。

 

「……無理言わないでくださいよ!」

 

 私は冷たく返しつつ、銃を構える。千束さんと違い致死弾を使うが、急所は外す。制約を意識しながら、崩れた棚の隙間から正確に狙いを定める。相手の装備は本格的で、全員が防弾ベストを着用している。手慣れた動きで陣形を維持し、互いをカバーしながら前進してくる。

 

 正面の敵がアサルトライフルを連射してくる。乾いた発砲音が店内に反響し、残骸の棚板が粉々に砕け飛んだ。木屑と金属片が宙に舞い、埃っぽい空気がさらに濁る。私は呼吸を整え、銃口をわずかにずらして弾道を計算する。狙いは右肩――引き金を絞る。銃声一発、相手の肩を正確に撃ち抜き、男の持つアサルトライフルが床に音を立てて転がった。

 

「っ、このガキが……!」

 

 負傷した男が苦痛に顔を歪めながら悪態をつく。左手で右肩を押さえ、血が指の間から滲み出している。

 

 その時、二人目がレジカウンターの影から手榴弾のピンを抜いて投げ込んでくる。金属の小さな円筒が空中を描き、私たちの隠れている棚の間に転がり込んだ。

 

「伏せて!」

 

 金属音を立てて床を転がり、数秒後には爆発する――はずだった。信管の音が聞こえ、死を覚悟した瞬間だった。

 

「残念でした!」

 

 千束さんが軽やかに滑り込み、手榴弾を片手で拾い上げる。彼女の動きに躊躇はなく、まるで爆弾処理の専門家のような冷静さで、バックヤードの奥へ正確に放り投げる。手榴弾は放物線を描いて人気のない場所へと消えていった。数秒後、轟音が店内を震わせ、砂塵が激しく吹き荒れる。古い棚が倒れ、コンクリートの破片が雨のように降り注ぎ、一時的に視界を完全に遮った。

 

 私は咳を噛み殺しつつ、煙の奥に閃く銃口の光を捉える。敵の位置を特定しようと目を凝らすが、しかしその人物も千束さんに撃たれて光は見えなくなった。彼女の非殺傷弾が正確に相手の戦闘能力を無力化している。倒れた男は足を押さえて唸り声を上げていた。

 

 即座に移動を開始し、棚から棚へと身を移しながら反撃の射線を作っていると、千束さんの背後から迫ろうとしていた最後の一人が見えた。男は息を殺して匍匐前進し、千束さんの死角から銃口を向けている。

 

「危ない!」

 

 私が声を上げると、千束は軽やかに振り返る。敵の銃口が彼女を追い、マズルフラッシュが一瞬煌めく。私は反射的に銃を上げたが――次の瞬間、千束さんは弾丸の雨をひらりひらりと紙一重で避けていた。まるで踊るような流れるような動きで、相手の発砲を恐れもせず、至近距離で非殺傷弾を放つ。

 

「よっと」

 

 軽い掛け声と共に、最後の敵も沈黙した。男は胸を押さえてよろめき、そのまま床に倒れ込む。

 

 戦闘が終わると、千束さんは私が肩を撃った襲撃者のリーダーにしゃがみ込んで手当をしている。救急キットを取り出し、慣れた手つきで止血処置を施している。血に染まった包帯を巻きながら、敵であったはずの男に優しく声をかけていた。こんなときに何をしているんだ。敵に情けをかけている場合ではない。

 

「敵の増援が来ます。囲まれますよ!」

 

 私が急かすと、千束さんは振り返る。その瞳に迷いの色はなかった。

 

「でも、このまま放っておいたら出血多量で死んじゃうよ」

 

 彼女の声は穏やかだが、確固とした意志を含んでいた。

 

『脱出ルートに敵影は無い。今なら出られるぞ』

 

 ウォールナットがタブレットの画面を見つめながら報告する。着ぐるみの手袋をはめた指でスクリーンをタップし、周辺の状況を確認している。

 

「先に行って。すぐ追いつくから」

 

 彼女の表情に一片の迷いもなかった。いつもの屈託のない笑顔で、私の目をまっすぐに見つめている。

 

「……わかりました。行きましょう」

 

 私は渋々千束さんの言うことを信じることにした。彼女のこれまでの判断は的確だった。それを信頼して進む。ウォールナットの腕を引き、スーパーの裏口まで急ぎ足で移動する。着ぐるみのせいで彼の動きは鈍く、足音も重い。

 

 薄暗い通路を抜け、スーパーの裏口までたどり着く。私は退路確保のために一度、重い金属製の扉に手をかける。錆びついた取っ手が冷たく、軋んだ音を立てた。

 

「安全を確保します。待っていて……」

 

 私の指示は虚しく空へと消え、ウォールナットはタブレットを握りしめと外に出てしまった。

 

「出ないで!」

 

 遠くから千束の必死に制止する声が聞こえる。彼女の声に切迫した響きがあった。しかし、もうすでに手遅れだった。ウォールナットの足音が外のコンクリートを踏む音が聞こえる。

 

 バン。

 

 一発の乾いた破裂音が静寂を破る。同時に、着ぐるみの腹部から鮮血がにじみ出る。赤い液体が毛玉のような茶色い素材にゆっくりと染み込んでいく。ウォールナットの体が小さく震え、よろめいた。

 

 ダダダダダ――。

 

 耳を劈くような連続した銃声が響く。複数の自動小銃による容赦ない集中砲火だ。弾丸の数は、そのままウォールナットの体を穿つ回数となり、血しぶきが空中に舞い散る。着ぐるみの表面に無数の穴が開き、綿が飛び出している。

 

「……!」

 

 言葉にならない声が私の喉から漏れた。目の前でウォールナットの体が大きく揺れ、まるで糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていく。茶色い着ぐるみが地面に倒れ、赤い血だまりが徐々に広がっていく。

 

 動かない。

 

 ぴくりとも動かない。

 

 まるで時間が止まったかのように、私の視界から色が抜け落ちた。世界が古いモノクロ映画のフィルムになったような錯覚に陥る。音も遠くなり、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。




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