【完結】信頼度MAXオペレータ短編詰め   作:むとう

26 / 102
海の色/ディピカ

 カツカツと靴底が当たる音が廊下に響く。昼間ならばそこかしこで職員たちの声が聞こえるのだが、夜の闇に沈むこの時間はひどく静かだ。ドクターは顔から疲れを滲ませながら、己の部屋へと足を進めた。

 ふと、廊下の先で光が漏れているのに気づいた。こんな夜更けに起きているのか。誰の部屋だろう。

 部屋の正面に立って、プレートを見る。

 ──ディピカ。

 補助オペレーター。そして絵描き──クリエイターだ。

 空いている扉から中を覗き込む。ドクターが想像した通り、ディピカは入り口から背を向けて、キャンパスに向き合っていた。

「ディピカ? 入っていいか? ……ディピカ?」

 名前を何度か呼ぶと、腕を組んで考え込んでいた彼女は振り返った。ドクターを見て、ぱちりと目を瞬かせる。

「ドクター?」

 どうぞ、という彼女の言葉に従って部屋に足を踏み入れた。油絵独特の香りが鼻をかすめる。椅子に座るディピカの肩越しから絵を覗き込んだ。

 黒と白の濃淡だけで表現された抽象画。言葉に現すことができないが、圧倒するようななにかがそこにはあった。

「これはなんだ?」

「海だよ」

 しかし海とは青いもののはずだ。だがこれには黒と白だけ。色がない。そう言うと、彼女は「海の中だから」とおかしそうに笑った。

「海ってね、下へ下へと潜っていくにつれて、色がなくなっていくの。はじめに赤が、次に橙、黄色、緑、紫、青ってね」

 ディピカは筆を取って、絵に描き込んでいく。彼女の話は、ドクターの知識にもあった。

 太陽の光は、物に当たると分離する性質を持つ。光は波長の短い青から、波長の長い赤まであり、波長の長いものは海水に吸収されやすいが、波長の短いものは吸収されにくい。海が青いのは、最後まで海の水に吸収されない波長の短い青が、海底の砂に反射し、その色が海面まで上がり人間の目に入るためだ。

 そして同じ理屈で、海の深度を増すにつれ──海の底に近づくにつれて届く色が減っていく。

 最後は暗黒の世界、深海色(Deepcolor)だとディピカは笑った。

「地上は鮮やかだけど、海の中では深さが増すほどに、色が減っていくんだ。だから海の中では白に見えていたのに、引き上げてみたら真っ赤だった、なんてこともあり得る」

 ディピカは筆を巧みに操りながら、滑らかに口を動かす。絵は完成度を増して行った。元の色が何色だったかも分からない群像たちがキャンパスの上に形作られていく。深い、深い海の底で、色を失い、そして寒さに凍えて──……。見つめているうちに、頭蓋の内側からカリカリと爪で引っかかれるような不安感を覚える。

「……それと同じで、アンタが地上でどんな色を持っていたとしても、海の底の底では色がない」

 彼女は振り返った。ドクターを見上げる。

 ──海の底は幽暗の世界なんだよ。

 彼女の白い頬は上気して、淡く色づいていた。

 熱に浮かれたように話すディピカに違和感を覚える。まるで別人がディピカという仮面を被って表出してきたような。彼女の目が妖しく光った。彼女の瞳は茶色のはずなのに、今は深い青に見える。その目の奥に鈍く輝く闇色の光に息を呑んだ。

「…………っ、ディピ、カ?」

「なに……、って、あ」

 ぽたり、と筆から絵の具が服に落ちて、彼女は先程までの誘引されるような空気は嘘だったかのように、あっさりとドクターから自分の膝に目を落とした。

 そしてティッシュで服を拭った後、嫌そうに眉間に皺を寄せてやってしまったとドクターを見た。その彼女は、いつものディピカで。瞳の色も普段と変わらなかった。見間違いだろうか。

 ドクターは気付かぬ内に詰めていた息を吐いた。小さく頭を振って、ぎこちない笑みを浮かべる。

「もう遅い。キリが良いところまでやったら、早く寝たほうがいい」

 時計の針は頂点をとっくに過ぎていた。彼女のような没入型のクリエイターにこの忠告は意味があるのかは分からないが、ディピカの目の下にも小さな隈ができている。

 彼女はパレットに絵の具を足しながら、「キリが良いところまでいったらね」と熱のない声で答えた。この様子では日が昇るまで絵を描いているかもしれない。彼女の明日の──もう今日だが──スケジュールはどうだったか、と頭の中をさらった。たしか、午後からの勤務だったはずだ。ならば、朝食後にでも顔を出してベッドへ行かせてやれば、仕事中に睡眠不足でミスするということもないだろう。

 ドクターは小さくため息を吐くと、「おやすみ」と言って部屋を出る。

「……うん、おやすみ、ドクター」

 ちらり、と最後に振り返ると、キャンパスに向き合う彼女の後ろ姿が見えた。その背中からは、先程ドクターを困惑させた空気は感じなかった。

 疲れているのだろうか。……疲れているのだろう。なにせこんな遅い時間だ。

 ドクターは目をこすりながら、寝床を目指して廊下を歩く。その背を、濃紺の──深海色(ふかみいろ)の目で見つめられていたことになど、気づきはしなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。