【完結】信頼度MAXオペレータ短編詰め 作:むとう
しんと静まり返った廊下を進む。外へと繋がる扉を開けて、するりと隙間を通り抜ける。
甲板は朝もやのせいで視界が悪かった。体温を奪うような冷えた空気に、ヴァーミルはぶるりと体を震わせた。
大きく息を吐いて、吸う。湿気を多く含みながらも新鮮な空気に、わずかに残っていた眠気が押し流されて消える。
特に大した理由があって外に出たわけではない。昔とは違って、今のヴァーミルは壁も天井もある部屋で暮らしている。けれど時たま、その快適な空間から抜け出したくなるというだけだった。
そこでどれほどじっとしていただろうか、ふと気配を感じて、わずかに腰を落として耳をそばだてた。ここはロドスの甲板だ。そう安々と敵が入り込むことはないはずだ。その証拠に敵意や害意は感じない。しかし自然に馴染んだ習慣がヴァーミルをそうさせた。
相手がもうすぐそばという所まで来て、ヴァーミルは警戒を解いた。聞き覚えのある足音だったからだ。
そうしているうちに朝もやの中からひとりの人間の姿が現れる。そいつはヴァーミルまであと数歩ほどになってやっとこちらに気づいた。
「あれ、ヴァーミル?」
不思議そうに首を傾げるのは、このロドスのトップ陣のひとり、ドクターと呼ばれる人間だ。立ち止まってこちらをみるその人に、ヴァーミルは小走りで近づいた。
「おはよう、ヴァーミル。……随分と早いね」
挨拶を返して「早いのは、アンタもだろう」と言うと、ドクターは頬をかいて「ちょっと目が覚めてしまってね」と苦笑した。「君は?」
「オレも、似たようなもんだ」
なんとなくそのまま別れる空気でもなかったので、ヴァーミルたちは座れる場所へ移動した。機材などが入っている箱が積み上げられている場所があったので、そこに腰掛ける。ヴァーミルはドクターの手を引いて、隣に座らせた。この人はヴァーミルほどは気配に聡くない。
ぽつり、ぽつり、と葉に溜まって落ちる雫のように言葉を交わす。途切れ途切れではあったが、気まずくはなかった。
ヴァーミルは会話の途中でおもむろに自分の左腕に手をやった。近い距離だ、身じろぎを感じたのだろう、ドクターがどうした、というような目線を投げてくる。
義手の継ぎ目が傷んだのだ。それなりに良いものらしく滅多に無いのだが、極稀に寒い朝に
そうドクターに説明すると、思わずというように手が伸びてきた。ヴァーミルの手の上で迷うように揺れる。ヴァーミルは言葉なく自分の手を外して腕を差し出すと、ゆっくりとドクターの手が継ぎ目に触れた。
己と比べて大きな手が、じんわりと熱を伝えてくる。自分でやるよりも少しばかり痛みが楽になった。ほう、と息を吐きながら、ヴァーミルはこれほど自分の近くにいて許す存在ができたことに感慨深く思った。
もうずっと、ひとりで生きていくものだと思っていたのに。
ヴァーミルは神の存在を信じていない。人生で相対する数々の試練は、神が試しているのだという考えは相容れなかった。現実は試練でもなんでもなく、ただ誰かと自分の選択の連続だ。大いなる存在の意志などなく、乾いた現実が続いているだけ。ヴァーミルは己の左腕を失くした時から、それを理解した。そして今もなおその考えは覆されていない。
鉱石病になった時も同じだった。腕を失くしたのと同じように、病気になった。ただあの時とは違って、この病気は少しずつ失われていくけれど。
時間が経つにつれて、周りの人間が鉱石病患者──『感染者』に対してどのような視線を向けてくるのかを知ったが、それでもヴァーミルの考えは変わらなかった。ヴァーミルにとって鉱石病とは、自分に降り掛かった数々の天災のうちのひとつでしかない。この病気によって、終わりまでの道が短くなるだけ。いつかの終わりが近づいているだけだ。そして、長く生きればすなわち幸いとは限らない。
ヴァーミルは今が幸せだ。『もう同胞を失うことはない』。その約束をドクターは果たしてくれている。ひとり生きていたヴァーミルを信頼し、共に同胞を護ることができる。
今のヴァーミルは、再び手に入れることができるとは想像すらしていなかった同胞たちと共にいる。ドクターと共に戦場を駆けられる。もう一生ないだろうと思っていた、共にいたいと思える他人を見つけた。願わくば、終わりの時までこの時間が続けば良いと思う。
鉱石病の治療はしている。ヴァーミルは別に自殺願望があるわけではない。病気で死ぬ未来は変えられずとも、長く生きられるというのであれば、それも悪くはないかと思う。病気について恐ろしく思わないわけではない。怯える心はある。けれど己に降り掛かったその事実は確かに理解している。だからあまり楽観視はしていない。現実は現実だ。神など存在しない、神の施しなど起こらない。ただ残酷で乾いた現実があるだけだ。いつまで生きられるかも、ヴァーミルが望む望まないに関わらず決まるだろう。そう思っている。
今、ヴァーミルは幸せだ。ドクターと肩を並べて戦うことが、幸せだった。それさえ分かっていれば、後のことはどうでもよかった。鉱石病のことも。寿命のことも。
そっと己の腕に手を置いて熱を伝えてくる人間の顔を伺い見た。
きっと自分の最期はそれほど悪くないだろう。幸せだったと笑って言えると思う。
けれど、と思う。
けれどもしかしたら、いつかもっと、と望んでしまうかもしれない。まだ歩きたいと、ここで終わりたくないと望んでしまうかもしれない。ひどく乾いて平坦に続く道に、彩りを見つけた。それを眺めて終えられれば良いと思っているけれど、もっと、と手を伸ばしてしまうかもしれない。まだ終わりたくないと、手放したくないと。それはひどく恐ろしく、きっと苦しいことだ。その道の先に幸せがあるとは限らない。けれど……。
ふるふると頭を振った。いずれにせよ、今のヴァーミルには分からないことだ。
どうしたと視線を向けてくるドクターに、なんでもないと返して、ドクターの手の上に自分の手を重ねた。冷気にさらされて冷えた表面が、ヴァーミルの熱で温まっていく。そうしてふたりの温度が溶けあう。
──今はただ、これだけでいい。