【完結】信頼度MAXオペレータ短編詰め 作:むとう
ドクターは夜も更けいつもよりも照明が落ちた廊下を歩く。昼には騒がしく音が溢れていたが、今はしんと静まり返っている。窓の外にぽつぽつとある灯りは先程までの己と同じく重なった書類に死んだ目になりながら机と向き合う必要がある者か、あるいは夜勤の職員だろう。
固くこわばった肩に手を当てて体温でどうにか巌の如きそれを解そうとするが、一向に改善する様子がない。これではまた「肩に岩でも入れてる?」と困惑混じりにオペレーターに心配させてしまう。やはりシャワーだけではなく、風呂に入って体をほぐしてから寝るべきだろうか? そんなことを思いながら目的の場所までたどり着く。思いがけずついている灯りに目を瞬かせた。
そこは休憩室に併設されている給湯室だ。簡易キッチンがあり、食堂の余りの食材が「ご自由にどうぞ」と冷蔵庫に放り込まれているので、料理ができるオペレーターが度々ちょっとした食事を作っている。ドクターの執務室にも簡易キッチンはあるのだが、連日の忙しさで冷蔵庫の中身を補充するのを忘れたためにこちらに足を伸ばしたのだ。固形物を食べる気力はないが、なにかしら腹に入れたい。
もう夜も遅い。緊急の夜間作戦もないからここは使われていないはずだが。
「……スズラン?」
一体誰が、と入った先で、ドクターは思わず声を上げた。
そこには九本の尾をしんなりとさせながら佇むスズランがいた。
彼女はまだ〝少女〟と称される子供だ。時計はとっくに頂点を越えている。子供は寝ているはずの時間だった。
「こんばんは、ドクター」
見つかってしまった、というように眉を下げながらスズランは小さく会釈した。あいも変わらず礼儀正しいその姿にドクターは苦笑する。
「どうかしたのか?」
「……すこし、眠れなくて」
困ったように笑うスズランに嘘をついている様子はない。彼女は意味もなく夜に徘徊する子供ではない。眠れないというのは本当なのだろう。
ドクターは数拍黙り込んだ後、スズランの頭をくしゃりと撫でると鍋を取り出した。中にミルクを入れて火を入れる。
ホットミルクを作る間に聞き出したところによると、スズランは今日の昼──正確には昨日であるが──医療班の視察の手伝いで鉱石病の患者の話を聞いたのだという。その話が辛く、やるせなく、ベッドの中に入ってもぐるぐると頭の中で回って一向に眠りが訪れないのだとか。
ドクターは落ち込んだような彼女の声に相槌を打ちながら、その様子を観察した。
スズランは眼を見張るほどしっかりとした子供だった。純粋に知識を吸収しながらも、己に根ざす正義を持ち、己がどんな立場にあるのかを自覚し、勤勉で真面目。子供らしいわがままはほとんど言ったことがない。それが当然と思ってしまうほどに賢く、愛情深く、時に眩しい。そしてそれは今までスズランが受けてきた扱いの裏返しなのだろう。
素直で、可愛らしくて、〝良い子〟。守られてきたからこそ、守ろうと自然に思える子供。それがスズランだった。
彼女は自分以外の感染者の現状というものを知らない。鉱石病だからと言って迫害されたことも、手のひらを返されたこともないのだ。彼女が預けられたこのロドスも鉱石病患者だからと区別をされても差別はされなかったから、実際に身に迫ってその実情に触れたことがなかった。しかしそれでは将来、彼女がどのような道を歩むのかはわからないが──良いことではないだろう。そう判断されての医療班の視察同行だろう。
そして語られた内容にショックを受けた。
その傷は遅かれ早かれ負うものだった。かわいそうに、と意味もなく慰めるつもりはない。彼女自身が向き合わなければならない問題だった。
けれどそれとは別に思うことはある。
スズランは手のひらで抱くようにしているマグカップをゆっくりと傾けて、こくこくと喉を上下させる。ドクターひとりならばブランデーでも垂らしたのだが、彼女がいるので少し多めにハチミツを入れた。どうやら口に合ったようだった。手渡した時にほんの少し色を付けた頬が、彼女が子供であることを雄弁に示していた。
「どうすれば、あのひとたちの傷が和らぐんでしょう」
まっすぐと見上げてくる少女の瞳に、ドクターは悲しいような、眩しいような、誇らしいような気持ちになった。大人でさえ足がすくむ現実の前で、まっすぐと前を見て立つ子供。怖いと泣いて怯えてもおかしくないのに、この子は……。
「君はいつも人の心配ばかりだな」
「ええっ、そんなことはないと思います……」
いいや、そんなことはある。
現実の悲惨さに直面したら、普通ならば混乱して取り乱す。そうしてずっと後になって「自分」がどうすればいいのかと考えるものだ。こんなに早くに「どうにかしてあげたい」と思うのはいっそ異常である。
けれどこれがこの子供なのだ。
ドクターの脳裏にひとりの少女の姿が浮かぶ。彼女はスズランよりも年上だが、まだ子供と言っていい年齢だ。それにもかかわらずロドスのトップとして嘆きに満ちた大地を救おうとしている。
人よりも優れた共感能力、博愛性。神からのギフト、と呼ばれるものだろうか。神など信じていないけれど。
だが本当に神がいたならば、彼は、あるいは彼女はスズランに生まれながらにギフトを与えたのだろう。愛情と慈しみの心がこれでもかと入れられた箱を。そのおかげで──あるいはそのせいで、彼女は己の小さな手でどうすれば多くの人を守れるのだろうと苦悩する。
もしも神がいるとして。神様とやらは余計なことを、と思うことがある。ドクターがどう思おうが、彼女はそれを恨んではいないのだろうが。そして彼女がそうでなければ、今、ドクターはここにいないだろうが。
彼女がもっと利己的で、あるいは愚かであれば、痛みも知らずもっとずっと簡単に生きられただろうに。胸中にため息を飲み込んで、口を開く。
今のスズランにできることと、これからどのようにしていけばどのようなことができるようになるかを教えてやる。スズランはそのひとつひとつにうんうんと真剣な顔で頷いて、最後にほう、と大きな息を吐き出した。進むべき方向は見えているのに歩くべき場所が分からなかったのが、ようやく道が見えたというように。
希望の詰まったキラキラとした目を向けて「ありがとうございます!」と声を上げるスズランに、ドクターはその身に渦巻く憤りのようななにかを悟らせないように微笑んで、いい子だ、と頭を撫でた。くすぐったそうに笑うスズランに言う。
「なにかわがままはないかな」
まだ君は子供なのだから。その権利がある。君がそう思っていなくとも。
「ええっ、なんでですか?」と目を丸くして見上げてくるスズランに「いいから、いいから」と先を促した。スズランはしばし考え込んだあと、おずおずとドクターを見た。
「……そ、それじゃあ、また眠れない夜にはこうしておしゃべりしてくれますか? ──わっ」
あまりのいじらしさにスズランの頭をくしゃくしゃと撫でてしまった。
そんなに良い子でいなくてもいいんだよ、と言ったところでなんのことか分からないというように首を傾げるだろう子供に目を柔らかく細めて笑った。
「次は、はちみつ入りホットミルクと、とっておきのチョコレートで、一緒におしゃべりしよう」