【完結】信頼度MAXオペレータ短編詰め 作:むとう
雲の上で生きてきた。見下ろす大地は遠く、そこがどのような場所かすら曖昧だった。下賤な場所よ、と周囲がささやき、そういうものかと頷いた。ならば己には関係ない。時折運ばれてくる蜜の存在でのみ、大地の存在を思い出す。そうして一生を生きていくのだと思っていた。
だが今。私は茨を敷き詰めた大地に立っている。
歩けば足の裏が破けて血がにじむ。しかし進むためには歩かねばならない。
見上げる空は遠い。雲の上には戻れない。
傷だらけの足で大地を踏む。口の隙間から悲鳴が漏れる。それでも一歩一歩、踏みしめて進む。
──私は、この大地で生きていくと決めたから。
■ ■ ■
時折、もう耐えられない、と思う日がある。
そういう時は何も持たずに、誰もいない、けれど日の当たる場所へ移動する。全身に日を浴びながらぼんやりと外を見る。
なにも考えたくないと思いながらも脳は勝手に動いてしまう。さまざまなことを巡らせる。
今日の食事のこと、最近読んだ本のこと、やらなければならない仕事のこと。……チェルノボーグのこと。
過去に戻れたら、と願う。それはできないと知っている。
あるいはもしも、と思う。だが、それはつかの間の夢のようなもので、目覚めてしまえば消えるものだ。
後戻りはできない。己の醜悪さを知ってなお、厚顔でいられるほど無神経ではなかった。
ふと、息をつく度に思い出す。己の罪を。
大きな視点でいえば自分たちは被害者だった。だが視線を低くしてみれば、その被害者たちの中での明確な加害者だった。
知りたくなかった、と思う。己がこれほど醜悪で、罪深い人間だということを。
あるいは、己の罪を眼前に突きつけられたその時に終えられていれば、と思う。この痛みばかりの日々を過ごすことなく、刹那のうちに罪を贖えたら、と。
しかしその思考こそが罰を逃れる罪人のそれで。そして生きて贖うと決めた今でも現実を前に足を止めたくなる。
堂々巡り。出口のない迷路。終わりのない自責。
「ロサ……いや、ナターリア」
「ドクター」
ふっ、と思考の海から引き上げられる。特徴的なフードのひと──ドクターはロサにカップを手渡した。湯気の立つ紅茶が入っている。それはじんわりとロサの手のひらを温めた。喉を通って落ちる紅茶はただ色の付いた水というありさまで、ロサの好むそれとは程遠い。だが今はこの安っぽさがよかった。
コードネームではなく本名を呼んだということは、業務の話ではないのだろう。だが自然とロサは背筋を伸ばす。施された教育がそうさせるのだ。
「顔色が悪いな」
「……そうかしら?」
ロサはわざとらしく頬に手を当てた。〝常に優雅たれ〟──貴族とはかくあるものとして染み付いた振る舞いはそう簡単には変わらない。
言質を取らせるな。軽く見られるな。無様な真似はするな。
貴族とはおきれいな皮を被ったマフィアのようなものだ。常に気を張って、空言をうそぶいて、家格を気にする。
はじめは他愛もない世間話だった。表面を撫でるような毒にも薬にもならない話。それが一歩踏み込んだものになったのはドクターの独特の雰囲気と、そしてその日のロサの気分が地の底の一歩手前にあったからだろう。端的に言って、弱っていたのだ。
「ねえ、ドクター? ドクターも後悔することはあるの?」
一瞬の沈黙。しかしドクターはわずかに片眉を痙攣させるだけで、ロサの突然の問いに疑問を呈さなかった。その察しの良さがつくづくありがたい。
「するさ。もちろんする」
その答えにふう、と息を吐く。それは安堵だろうか、あるいは。
ドクターは続ける。
あのときああすればよかった、ああ指揮していれば、なんて後悔の連続だ。ナターリア、正解なんてものは後になってみなければわからない。選択をした後にやっとその結果を知るんだ。
続いた言葉に憤りを覚えることを思うと、落胆だったかもしれない。
──そんなことはわかっている。けれどこの耐え難い苦しみは、そんな理屈では癒やされない。
ロサは眉を寄せた。普段の彼女らしからぬ、感情の発露。ドクターの前ではただの小娘が顔を出す。
そんなロサを見て、ドクターはまた口を開いた。「これはあくまでも私の見解だから、事実とは違うかもしれないが」そう前置きをして。
「ナターリア、君のそれは普通の後悔ではない」
「……ではなんだというの」
なんの説明をしていないのに、ドクターはぴたりとロサの思考を当てた。しかしそれに疑問はなかった。ロサは何度かこのひとに己が思い悩むものをひらめかせさえたし、もっと直接的に話したこともさえあった。そんなことを考えればこの鋭いひとがロサの思考を読むのも当然のことだろう。
ドクターは一呼吸おいて、続けた。
「君のそれは選択を誤ったことの後悔というより、流されてそちらに進んだことへの後悔のように思える。そしてそれは君が知りたくなった自分を、君の前に現してしまったんじゃないか?」
ぴくり、と指先が震えた。そのとおりだ。毎日鏡を見るたびに、己はなぜこれほど醜いのかと自問している。
「それじゃあ、もう一生、生きている限り
声は悲痛に震えた。涙が浮かぶ。けれど貴族として施された教育が、泣き崩れることを許さない。
一方で当然の報いと思いながら、他方でこれからもずっと地獄が続くのかと絶望している。
「ナターリア、私も決して清廉潔白というわけではない。必要なことであれば相手を騙すし、味方を切り捨てる」
「でもドクターは……!」
ドクターはロサとは違う。崇高な目的があり、納得できるような理由がある。こんな、こんなふうな、己とは違う。
しかしドクターは頭を振った。子供に言い聞かせるような声色で、言う。
「君の目に私が醜く見えていないというならば、それはたまたまただ。たまたまそう大きく外れた選択をせずに来られただけだ」
「……」
「でもきっと
「……どうして?」
「私が確かに選択した道だからだ。流されたのではなく」
なにか、大切なものを伝えられようとしているのだと、そう思った。
「ナターリア、私は戦場を好まない。血しぶきが飛べは手が震えそうになるし、銃弾が顔をかすめれば腰を抜かしそうになる」
「でもドクターは逃げないわ」
「そうだ。逃げればより後悔することがわかっているからだ。私は醜く臆病だが、それゆえに逃げた先で己がどのように後悔するのかわかっている」
「……私はそれができなかった」
「そうかもしれない。しかし君は知った。己というものがどのようなものかを。ならば次はそれを活かせる」
……そんなもの。
次なんていらない。次なんて欲しくはなった。だって〝次〟があるということは、それよりも〝前〟があるのだから。そしてロサはそこで取り戻せないほどの大きな失態を犯したのだ。
だがそのドクターの言葉は、ロサの体に芯を持たせた。それは細く頼りないものであったけれど、たしかに己を支えるものだった。
しかしそう簡単になにもかもは変わらない。悩んでも苦しみ続けるのならば、いっそなにもかもを手放して、大義名分を持つ誰かを支える助けになりたい、という思いもあった。そうすれば、ロサは己の選択に後悔をしなくてもすむ。頭を空っぽにして、ただ言う通りに生きることができればどれほど楽だろう。もう過ちを犯す心配をしなくていい。ただひたすらに贖罪のために生きて、そして死ぬ。ぬるま湯のような穏やかな生活。あの頃に戻れはしないけれど、今よりもずっと楽だ。だけど……。
ロサが言葉をどうにか咀嚼しようともがくさまをじっと見て、ドクターはさらに続けた。
「あくまで私は、というだけだ。ナターリア、君が同じように生きねばならないわけではない。…ただひとつ、私が君に願うのであれば──」
ドクターはただまっすぐにロサを見た。ロサはその視線を半ば呆然と受け入れた。
「君は君の命を生きてほしい」
──頭をなくして命令に従うだけの木偶の坊になるのではなく。
ドクターはそう言った。そう、言われてしまった。
ロサの芽生えかけた依存心を打ち砕くような言葉だ。
ロサは息を止めて、しかしこくりと頷いた。年相応の幼い少女の頷きだった。
ドクターは厳しい。けれどやさしい。ひどい、と責めてしまいたくなるほどに。
考えろ、と言う。支えてやるから、ひとりで立て、と。必要以上に寄りかからせてはくれない。
くるしい。生きることは、くるしい。
けれど、ロサは。
歩くだけで傷をつける大地に足を踏みしめて立つ。いつかこの苦しみを耐えてよかったと思えるような美しい夜明けがやって来ることを願って。