【完結】信頼度MAXオペレータ短編詰め 作:むとう
闇の中を滑るように進む。仮面に隠れていない顔の半分を乾いた空気が撫でる。いつの間にか隣には友人である黒猫──ミス・クリスティーンが寄り添うように歩いていた。くん、と鼻を動かす。少しばかり鉄さびの匂いがした。
己の歌声に酔いしれて倒れ伏す標的たち。今回の任務は静かにとも、誰にも気づかれずとも指示がなかったから、久方ぶりに喉を震わせた。
ファントムの声は鉱石病によってその質を変えた。かつてはただ美しく人々を心酔させただけの声が、今や明確な脅威をもって人々の耳に届く。耳介に触れて鼓膜を揺らすだけではない。聞いた者に精神的損傷を与える。それは不可逆的なもので、いかなる治療も意味をなさない。ファントムの歌声は凶器に変わっていた。
あの日、あの時を思い出す。
鉱石病が劇団を襲い、崩壊させた時のことを。あれほどおぞましく──そして美しい瞬間はなかった。
ホール中に広がり、反響し続ける歌声。血の味を感じながら震わせた喉。観衆たちは慄きながらその息を止めていった。
歌声。その身ひとつを楽器として奏でられるもの。
歌声。美しく、伸びやかで、心を震わせるもの。
歌声。ただ心を震わせるだけではなく、その息をも止めるもの。
ああ、私の歌声は刃になった。感情の強弱によって威力を変える刃に。目に見えて、その力が分かる。
足取りが踊るようになる。高揚が心臓を奏でる。口が開き、喉が震えようとする。
歌いたい。何者にも縛られず、ただ心のままに。観衆たちが喜び感動に涙をたたえるのではなく、歌という刃に心を割かれ地に倒れ伏そうとも。
ここを舞台にしたとして、いま歌いだしたらどうなるだろう。人々が寝静まった夜。しかし歌声で目覚めるだろう。どうしたのかと顔を出して、そしてその歌声で終焉を迎える。人々は折り重なるように斃れていき、ただその場にファントムだけが残る。
私は、私は……。
「……クリスティーン?」
部屋の主の呼び声にふっと意識が現実に戻る。
気づけば目的の場所にたどり着いていた。
部屋の所々にものが置かれている。可愛らしいぬいぐるみに、独特な風貌の置物。紙で折られた簡素な猫の細工もある。混沌としながらも、どこか統一感がある。主の息遣いを感じさせる部屋だった。
向き合うようにして対のソファが置かれている。部屋の主はそのひとつに腰掛けていた。月明かりが彼の人の横顔を照らしている。
彼の人はミス・クリスティーンの頭を撫でると、なにかを探すようにして顔をあげる。目を眇めて、そうしてファントムを見つけると、目尻をそっと和らげた。目が合う。
「おかえり、ファントム」
まるで頭のネジが巻かれるようにして、ファントムは正気に戻った。ここが現実だと理解して、地に足がつく。
「──……ああ、戻った」
意図せず声がかすれた。それが己の真実の音でないことに安堵する。このひとに──ドクターに終焉を贈りたいとは思わない。
ここは舞台の上ではない。ゆえに歌声は必要ない。あるのはふたりと一匹の息遣いと、夜の静けさだけ。
「起きて待っていたのか?」
「まあな。それに本の続きも気になっていたし」
「……そうか」
机に置かれている本をちらりと見る。栞はその最後のページに挟まれているようだった。いったいいつ読み終えたのか。それは彼の人にしか分からない。
己の鼓動がどこか喜ぶように跳ねた。そのことに深い安堵を覚える。己はまだ、そう感じるだけの心を持っている。
──ファントムは己が狂気に囚われていることを自覚している。何者かが囁くのだ。舞台を降りるな。歌声を響かせろ、と。
同時に理解もしている。もしも囁きの通りにすれば、ファントムの前に残るのは屍だけだろう、と。
彼の人はそんなファントムのことを理解して、ファントムの狂気をうまく飼い慣らしていた。抑圧されすぎて狂気に負けないようにファントムを使い、しかし使いすぎて狂気に飲まれないようにと気をつける。そうして最後の一歩を踏み越えないようにうまく手綱を引く。
ファントムはうやうやしくそのひとに頭を下げた。
「君の命は果たした。煩わせるものはなにもなく、ただ定められたとおりに終焉を迎えた」
特に問題なく任務を終えたことを報告して、さらに二言三言言葉を交わすと、ファントムは彼の人にベッドに入るように促した。そうして部屋の主がベッドに横になったのを見届けて、ファントムは闇に身を溶け込ませる。
彼の人は月に似ている、と思う。闇の中にただ寄り添うように光り輝く残酷な、しかし時にやさしい銀の光に。
月は人を狂気に誘うが、しかし月自体が狂っているというわけではない。振り仰ぐ人々が勝手に狂っていくだけだ。
そういう意味でも、彼の人のあり方に似ている。彼の人は現実の月とは違って考える頭──それも一等特別な──を持っているから、狂わせる人間はよくよく選別しているけれど。
目を閉じると視界もまた真っ黒に塗りつぶされる。しかし瞼裏には彼の人の形がある。ふと、ミス・クリスティーンがするりとこちらに身を寄せるのを感じた。手を伸ばして彼女の背を撫でる。手のひらの先に、骨と皮、そしてあたたかないきているものの感触がある。それにちいさく頬を緩ませながら、ファントムは願う。
私の月が明日も私を照らしますように、と。