闇だ。何も見えない。瞬きしても、目を擦っても、視界は変わらなかった。
そこが部屋の中なのか、屋外なのかさえわからない。ただ、湿った土の匂いと、わずかに鼻を突くような焦げた鉄のにおいが漂っている。
起き上がろうとした身体は重く、思考も濁っていた。まるで、いくつもの夢を無理やり詰め込まれた後のように頭の中は混線している。
──たしか、自分は本屋にいた。
休日、ふと立ち寄った馴染みの書店。平積みの棚で目当ての文庫を手に取ったその帰り道。
地面が突き上げるように揺れた。地震? と思った瞬間、視界が眩しく白んだ。
細胞のような、格子のような、何かが自分の周囲を寸断していく。現実が裂け、街、いや世界まるごと分解されていくような感覚。
──いや、それだけじゃない。
夜の山の中、木々のざわめきに混じって漂ってきたのは、生臭い血の匂い。狩りと薪集めを終えた帰り道だった。
ふと、獣の唸るような低い音。続けて、何かが木々を薙ぎ倒して近づいてくる気配。
──どれが現実だった? それとも、どれも夢だったのか?
断片的に再生される記憶は、まるで複数の人生を同時に再生しているかのように入り混じっていた。
頭が痛い。けれど、それすらも本物なのか、自信が持てない。
自分は、いったい──どこにいる?
ふらり、ふらりと足が進む。視界はまだ暗く、足元もおぼつかない。
壁か岩かも分からぬものに手をつきながら、ただ、どこかに出口があるのではという微かな希望だけを頼りに闇の中を彷徨っていた。
やがて、遠くにぼんやりと光が見えた。最初は幻かと思った。だが、それは確かに近づくほどに明瞭になり、やがて輪郭を持った光となってこちらを迎えていた。
どうやら、自分は洞の中にいたようだ。岩肌を這うように続く通路の先、ぽっかりと空いた穴の向こうに淡い陽光が差し込んでいる。
光。それだけで、なぜか胸の奥がざわつく。けれど、この息苦しいような闇にもう一度戻るのは嫌だった。何も見えず、何も聞こえない場所に、ただ一人でいるあの感覚がどうしようもなく恐ろしかった。
だから、何の気なしに手を伸ばしたのだ。
あの柔らかな陽の光に、すがるように――
瞬間、鋭くはじけたような痛みが右手に走った。
「──が、あ……っ!!」
声にならない叫びが喉からこぼれた。手が、黒く焼け焦げていた。
焼きごてを押しつけられたような、いや、それ以上の激痛。皮膚が裂け、爛れ、骨まで炭になったように黒ずんでいる。
あまりの痛みに、洞の床を転げ回るしかなかった。思考は吹き飛び、ただ喉の奥から漏れる悲鳴だけが、自分がまだ生きていることを示していた。
それでも――おかしい。焼け爛れたはずの手が、じわじわと戻っていく。肉が盛り、皮膚が再び覆っていくのを、この目で確かに見た。
これは現実なのか? いや、もしそうなら、自分はもう……。
混乱は極まっていた。けれど、ひとつだけはっきりしていることがある。今は、あの光のもとへ行ってはならない。生きるには、また、あの闇へ戻らねばならないのだ。
夜の帳がすっかり降りた頃、ようやく洞の外へと踏み出した。
空には満月。まるで昼のように冴えた光が、山の斜面を滑るように照らし出している。月明かりにここまで明瞭な視界を与えられたことなど、これまで一度もなかった。それほどに、世界は異様なまでに透き通っていた。
風が通るたび、木々がざわりと揺れる。葉の擦れる音がやけに耳に残った。
けれど、それ以上に自分の意識を蝕んでいたのは、凄まじいまでの空腹だった。腹の底が焼けるように痛む。喉が渇き、胃が裏返るような飢え。
木の実でも、草でも――そんな理性じみた選択肢が頭をかすめたのはほんの一瞬だった。
気がつけば足が動いていた。月光に照らされた茂みの先。息を潜めるようにこちらを窺っていた、小さな生き物と目が合った。
兎だ。数十尺は離れていただろう。それなのに。
気づいた時には、その柔らかな身体を両の手に抱え、喉元に噛みついていた。
頸の骨が砕ける鈍い音が耳の奥に残る。あたたかな血が口内に広がっていく。鉄と土を混ぜたような味。それが不思議と嫌ではなかった。むしろ、本能が満たされていくような感覚があった。
己の口元が赤く染まっていくのも顧みず、夢中で喰らい尽くした。
ようやく腹が落ち着いた時、ふと我に返る。
どうして自分は、あれほど離れていた獲物に一瞬で手を伸ばせたのか?なぜ、喉元を正確に噛み砕けたのか?
答えは出ない。ただ、満たされた腹を抱え、またあの洞へと戻る。
これは夢だ。そうであってくれ。そう願いながら、冷えた岩床に身を横たえ、静かに目を閉じた。
どれほどの日が昇り、月が巡ったのか。 指折り数えることは、とうにやめていた。たった数ヶ月のようでもあり、もう数十年を越えているようでもある。時間は、体感を裏切る。
あれからずっと、夜になると洞を抜け出して獲物を狩った。
血の匂いを辿り、音もなく忍び寄り、瞬く間に仕留める。それが兎であれ、狐であれ、時に猪や熊のような大物であっても同じことだった。
大きな個体を狩れたときは、ほんの少し心が揺れた気がする。何のために、誰のためにという意味も持たぬ暮らしの中で、唯一の満足感だった。
けれど、その暮らしにも終わりが来る。
ある深夜。
微細な気配が地の底から這い上がるようにして、肌を撫でた。遠くから、幾人もの人間の存在を感じる。夜の森に不釣り合いな規則的な足音、風を裂く鋭い殺気。
──まずい。
本能が警鐘を鳴らす。気づけば洞の奥から抜け出していた。逃げねばならない。誰かに“見つかっては”ならない。
けれど、山の中を進むうちに、何かがおかしいことに気づく。
まるで、見えぬ何かに導かれているように、足は自然と開けた場所へと向かっていた。
そこにいたのは、一人の女だった。
夜の帳を背にして、まるで風に溶けるように静かに立つその姿。
毛先にいくにつれて淡く紫がかった黒髪。その後頭部には、蝶の翅を模した髪飾りが品良く差してある。
着物のような羽織が、ひらりと舞い、女は一歩、また一歩とこちらへと近づいてくる。
「……たしかに鬼が居ましたね」
その声は柔らかく、けれど底知れぬ冷たさを孕んでいた。
「人が居なくなるということは無いと聞いていたのですが」
──逃げなければ。
脳が、喉元が、すべてがそう叫んだ。
だが、身体は動かない。思考が追いつくよりも先に、世界は変わっていた。
鈍い音。乾いた痛み。息が詰まる。
喉元に、刃が差し込まれていた。
それが“いつ”振るわれたのか、まるで記憶にない。
目の前の女が、月光の中で、淡く微笑んでいた。
――ああ、これで終わる。
刃が喉元を貫いたとき、視界は霞み、意識は闇へと沈んでいった。身体は崩れ、土に染み込むように輪郭を失い、彼女――蝶のような女は、何事もなかったかのようにその場を後にした。
なのに。
終わらなかった。
命は尽きたはずだった。だが意識は残っていた。
焼かれ、崩れ、そしてまた癒える。
陽の光が肌を裂き、骨を炭とし、痛覚を灼く。
夜の帳が降りればわずかに回復し、また次の朝、同じ炎の責めが繰り返される。
その地獄のような永劫の中で、ついに彼の心を支配したのは――
「生きたい」
という、ただひとつの感情だった。
それは理性でも本能でもない。ただ、生きるということへの執着。
そしてその瞬間、記憶の断片が繋がり出す。
かつて――
あの世界で、世界そのものが崩れ去る寸前。賽の目のように細切れにされた現実の中、死を待つしかなかった自分の前にひとりの存在が現れた。
老練な紳士のようでもあり、戦場を駆ける英雄のようでもある男。彼は、炎のように紅く光を背にまとい、ふっと愉快げに口角を上げた。
「ほう……そのような姿になってまで、なお“生きたい”と願うか」
男はゆっくりと屈み、四肢のちぎれた残骸へ手を伸ばす。切断面に手を差し入れながら、まるで古い機械を分解するように淡々と語る。
「ほんの戯れだ。那由他の先にある、か細い可能性……だが、それを掴めたなら――好きに生きてみよ。その権利と、義務を、お前にくれてやる」
その手から流れ込んできたのは、紅く輝く、熱を孕んだ何かだった。それは魂を砕き、古き細胞を焼き、塩基の配列を根底から書き換える。
――歯車が、回る。軋みを上げながら、絡みついた怨念のような力が音を立てて剥がれ落ちていく。血も骨も、己の中の全てがまるで“別の理”によって再構築されていく。
そして、夜が明けた。
朝日が差し込む里山の空き地にて、一人の男が静かに起き上がる。いつか己を焼き尽くしたはずの陽光が、今はただ温かく、肌を撫でていた。
彼は立ち上がり、ぼんやりと頭をかく。吐息のように、ぽつりと呟いた。
「……さて、これからどうしようか」
それは、大正という時代のどこかに、異邦より迷い込んだ“とある眷属”
某作品の設定をオマージュさせていただいてますが、あそこまで超常的な強さは彼には無いです。