千夜が珠世の隠れ家へと姿を現したのは、ひとつの札を手にしてのことだった。以前渡した念話札で合流を知らせたはずだが、彼はまるで迷いなく歩いてきたかのように、まっすぐ玄関に立っていた。
「……なぜ、ここが分かる」
ドアを開けた愈史郎が、思わず苦々しげに目を細める。
「念話札があるからですよ。それに、匂いでおおよその場所も分かりました」
あっさりとした答えに、愈史郎は苛立ちを隠せない。
「普通は分からないように隠してあるんだ! 人の隠れ家を何だと思ってる!」
「……すみません」
謝罪の言葉は素直なのに、悪びれる気配がまるでなく、愈史郎はますます舌打ちした。
そこへ、奥から珠世が現れる。
「まあまあ、愈史郎。そう怒らないの。千夜さん、さあこちらへ」
促され、千夜は治験用の席に腰を下ろした。腕を差し出すと、珠世は慣れた手つきで血を採取し、顕微鏡や器具へと移していく。
しばし観察を続けていた珠世が、やがて静かに呟いた。
「……やはり、常識では計れませんね。これほど特異な血液と身体能力を見たのは初めてです」
「特異……ですか」
「ええ。意志の掛け方ひとつで、発火・石化・疾風……さまざまな現象を引き起こしている。そして、それだけでも驚異的なのに――複雑な毒ですら、一定時間が経てば分解し、無効化してしまう」
珠世の声音には、研究者としての興奮と、同時に人としての畏れが滲んでいた。
「……だからこその再生能力、というわけですか」千夜が小さく呟く。
「その可能性は高いでしょう。あなたの身体は、いわば異常な循環と適応を繰り返して更に変異を続けている。鬼の力にも似て、しかし決して同じではない」
珠世が真剣に語る一方で、愈史郎は腕を組んで睨みつける。
「フン……だからといって調子に乗るなよ。特別だからなんだっていうんだ。俺から見ればただの厄介者だ」
「えぇ……そこまで言われると、さすがに傷つきますよ」
「ふんっ!」
小さな火花が散るようなやり取りに、珠世は思わず微笑む。
「愈史郎、口は悪くても、あなたを気にしているのよ」
「ちょ、ちょっと!? そ、そんなことは……!」
慌てる愈史郎を横目に、千夜は苦笑を浮かべた。
――こうして自分の血や身体が検体として扱われることにも、もはや抵抗はなかった。ただ、もしその力が少しでも役に立つのなら。鬼を倒すために、そして人を救うために。
そういえば、同じように血液を提供しているしのぶも「もっと鬼に効果的な毒の調合がやりやすくなった」と言っていたことを思い出した。
あのときは、研究机に並べられた試験管を前に、しのぶが珍しく楽しげに笑っていたのを思い出す。
「あなたの血液、面白いですね。普通ならあまり活性化しない鬼の成分が、すぐ反応を示すんです。でもあっという間に効果を無くす。おかげで試薬の調整や新たな毒の作成がぐっと楽になりました」
その言葉に、千夜は「役に立つなら何よりです」とだけ答えたが、心の中では(そんなに変わった血なのかな……)と首を傾げてもいた。
珠世の隠れ家で治験を終え、帰ろうと腰を上げた時だった。
「……あの、千夜さん」
珍しく珠世が言い淀むように声をかけてきた。
「はい? 何か忘れ物でも?」
「いえ……その……もしよければ、もう少しだけ……血液を分けていただけませんか」
普段は落ち着き払っている珠世が、なぜかほんのりと頬を染めている。その様子に、千夜は思わず首を傾げた。
「? 検体はさっき十分に採ったはずでは」
「…………」
言いよどむ珠世に代わって、堪えきれなくなった愈史郎が叫んだ。
「……お前の血、美味いんだよ!!」
唐突すぎる暴露に、千夜は目を瞬かせる。
「……はい?」
「実験の途中でな! 珠世様の指にお前の血が一滴乗って、それを口にされたんだ! そしたら……」
愈史郎が言葉を探すように唇を震わせた。
珠世が小さく咳払いし、代わって静かに説明する。
「……まるで丁寧に磨かれた大吟醸のような、透き通った風味が広がって……その……大変美味しかったのです。おちょこ一杯だけ、と愈史郎と分け合っていただいたのですが……」
「分け合っただと!? いや俺がほとんど飲んだんだ!!」
「愈史郎」
珠世の一言で黙らされ、愈史郎はむすっと顔を背ける。
「それに普通の人から貰った血液よりもお腹が空かない期間も長くとれるので……」
「……なるほど」
千夜は苦笑いを漏らし、肩をすくめた。
「まあ、害がなくて腹持ちもいいなら、実験用とは別に差し上げますよ」
そう言って取り出したのは、ワインボトル。
「瓶に詰めて渡しますね」
そうして目の前に置かれた、なみなみと赤く満ち、甘く香る瓶を見た珠世と愈史郎。
珠世は思わず目を丸くし、愈史郎は「な、なんて量を……!」と声を裏返した。
千夜はケロッとした表情で告げる。
「飲み過ぎには気をつけてくださいね。……特に愈史郎さん」
「だ、誰がそんなにがぶ飲みするか!!」
だが瓶を抱える手が、ほんのわずか震えていたのを千夜は見逃さなかった。
蝶屋敷に戻った千夜は、門のあたりでやけに賑やかな声を耳にした。聞き慣れない荒々しい響き――どうやら音柱・宇髄天元が炭治郎と口論をしているらしい。
声のする方へ顔を出すと、そこでは天元に抱え込まれたなほが必死に叫んでいた。
「千夜さん!助けてください!!」
横では、きよとすみも泣きそうな顔で「人さらいです!!」と声を張り上げる。
一方の天元は、涼しい顔で言い放った。
「任務に女の隊士が必要なんだよ。胡蝶の継子じゃないなら、許可もいらんだろうが!」
その物言いに炭治郎も必死に食い下がるが、まるで相手にならない。
千夜は軽くため息をついたかと思うと、次の瞬間には姿を消していた。
ほんの瞬きの間に、炭治郎たちの傍らへ移動し、なほを背負い、アオイをお姫様抱っこした状態で現れる。
しかも天元の腕には、先ほどまでのなほやアオイそっくりの“藁人形”が残されていた。
「だからと言って、無理やり連れていっても協力してくれるわけないでしょう……」
千夜の苦言に、アオイは顔を真っ赤にしつつ「だ、抱っこはやめてください!」と小声で抗議する。だが本人はさらりと聞き流している。
(――コイツ)
天元は目を細めた。自分は元忍びにして柱。
敵の気配を察すること、わずかな違和感を見逃さないこと、それは常人よりはるかに鍛え上げた感覚のはずだ。
だが、そんな自分ですら気づかぬ間に二人を救い出され、しかも精巧な身代わりまで持たされるとは――。
短時間でここまでやれる人間が、この世にどれほど存在する?
思い返せば、炎柱・煉獄杏寿郎が「千夜殿との手合わせは己を高めてくれる」と公言していたと聞く。
無鉄砲に見えて眼光鋭いあの男が、軽々しく人を持ち上げるはずがない。
蝶屋敷の胡蝶しのぶですら、ほんの僅かだが心を許している様子があった。彼女は人に壁を作る女だ、容易に誰かを信用したりはしない。
だが、自分は違う。天元はまだ、この男のことを知らない。
何者なのか――何を背負い、どこへ向かうつもりなのか。
柱にすら匹敵する実力を隠し持ちながら、鬼殺隊の中に自然に溶け込むこの千夜という男に、得体の知れぬ不気味さを覚えずにはいられなかった。
(身代わり術なんて、そうそう使えるものじゃねぇ……だが、こいつなら――いや、それ以上かもしれん)
訝しむように彼を見据える視線の奥で、忍びとしての警戒と、柱としての本能がせめぎ合っていた。
結局、アオイたちを現場に出さない代わりに、潜入任務へと加わることになったのは炭治郎たち――そして千夜であった。
「派手にやるぞ! 俺を神だと思え!」
天元は大仰に腕を広げ、高らかに宣言する。柱としての威風と、元忍びとしての気配りを兼ね備えたその声は、まるで宴の始まりを告げる太鼓のように響いた。
だが、その隣に立つ千夜は、どこか諦めを帯びた眼差しで眉をひそめる。自分が巻き込まれる形となったことへの苦笑か、あるいはこれから向かう場所への予感ゆえか。
夜の帳が降りきった街に足を踏み入れた瞬間、千夜は思わず立ち止まった。
朱色の提灯が連なる通りに、花のように着飾った女たちの笑い声が響く。通りすがる客たちの吐息に混じる酒と香の匂い。
それは確かに人の欲を糧とした歓楽の場だった。
だが、千夜の脳裏に浮かぶのは、現代にあった繁華街の記憶――ネオンで目が痛むほど眩しい歌舞伎町や、徹底的に金と欲を煽り立てるベガスの街並み。
あれは享楽の極みであり、悪く言えば狂乱に近いものだった。昼夜の区別を失くし、全てを喧騒に呑み込む光と音の奔流。
それに比べると、この遊郭は……静かだった。
決して穏やかという意味ではない。仄暗い夜気の中で咲く、闇の華のような艶やかさ。
金の匂いと人の業を隠しもしないのに、そこにはどこか落ち着いた雅があった。華やぎと退廃が絶妙に同居し、夜風に漂う香がひどく人の心を掻き立てる。
――これは、現代の歓楽街とは全く違う。
人が織り上げた闇の美学。狂乱に飲まれることなく、しかし確かに人の弱さと欲望に寄り添った場所。
千夜はそう感じながら、灯籠の並ぶ石畳を一歩、また一歩と進む。
その背筋を撫でるのは、ただの夜風ではない。鬼の気配と、人間の生き様が絡み合う、不気味な熱気だった。
喧噪と妖艶な灯りの中に忍び寄る、仄暗い影。
そこに待つのは、新たな血戦か、それとも――。
こうして、彼らは新たな舞台へと足を踏み入れるのだった。