異邦の眷属   作:テクニクティクス

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第15話

 

屋根を割り、瓦礫を散らしながら、戦いはさらに深淵へと沈んでいく。

血鎌が唸りを上げるたびに空気が腐蝕するように澱み、わずかに掠めただけで皮膚が焼けただれる。

上弦の陸――妓夫太郎。その毒は呼吸すらも蝕む凶悪さを孕んでいた。

 

千夜は前に出る。炎も風も使えない。火を放てば血を爆ぜさせ、風を生み出せば猛毒を撒き散らす。だからこそ、拳を振るう。

 

「――奇魂血闘術・級長戸辺命(しなとべのみこと)――寒月の拳(かんげつのこぶし)ッ!」

 

正拳が宙を裂いた。

吹き荒れる氷の渦が妓夫太郎の流れ出す血を瞬時に凍り付かせ、刃と化す前に粉砕する。氷塵が散り、夜の闇を白く染め上げる。

だが、紙一重。妓夫太郎は身体をくねらせ、蛇のような動きで直撃を外した。

 

「むかつくなぁ……」

 

呻くような声が響く。

 

「何でもこなせる才能があるとか……腹が立ってしょうがねぇなぁぁ……!」

 

唇の端から垂れた毒混じりの血が、地を焦がす。

だが千夜は言葉を返さない。ただ息を整え、次の一撃に備えて拳を固める。

 

(接近戦なら……まだ、押せる)

 

だが拳が届かぬ範囲――そこは千夜の空白だ。

 

「くっ……!」

 

炭治郎が血鎌を受け流すが、頬を浅く裂かれ鮮血が飛ぶ。

天元も二刀を交差させ応戦するが、無数の血刃が襲いかかり、隙間を縫うように細かな切創を刻んでいく。

 

千夜が防ぎきれぬ間隙を、確実に毒が穿つ。

人であるがゆえの限界が、じわじわと浮かび上がっていく。

 

瓦礫に血が滲み、息が荒くなる音が響く。

前衛を千夜が支えてもなお、戦況は膠着のまま――。

千夜の氷撃も決定打に至らず、天元や炭治郎は削られていく。

 

(……千日手、か)

 

拳を握る千夜の額から、一筋の汗が滴り落ちた。

 

 

 

夜空を切り裂く血鎌が、戦場を荒れ狂う嵐のように舞った。

回避の隙間を縫うように、紅に染まった軌跡が炭治郎の胸を深く抉る。鮮血が噴き出し、炭治郎が息を詰まらせながら膝を折る。

その直後、轟音。天元の雄叫びが夜を震わせたが――次の瞬間には、彼の右腕が鮮やかに空を舞い、瓦礫に叩きつけられていた。

 

「炭治郎っ! 天元さん!」

 

遠方では、堕姫の帯が善逸たちを翻弄していた。連携は決して乱れてはいない。むしろ一人一人が限界を超えてなお刃を振るっていた。

――それでも、確実に天秤は鬼の側に傾いていく。

 

「みっともねぇなあ」

 

妓夫太郎が、舌を這わせるような声音であざける。

 

「お前一人だけ戦えてるだけでよォ、全然守れてねぇじゃねえか。なぁ? 今どんな気持ちだ? 

 どうする? 弱い弱い、みっともねぇ奴がよォ……俺の頸を斬ってみろよ。さぁさぁさぁ!!」

 

嘲笑が瓦礫に反響する。

千夜は拳を握ったまま、しかし振り上げずに下ろし――俯いた。

 

(……ああ、そうだ。俺は――護りきれなかった)

 

炭治郎の血が地に滴る。天元の腕が砕けた音が脳裏を焼き付ける。

その惨状が胸を抉り、千夜の心の奥で、かすかに眠っていたものが蠢いた。

 

枷を外せば、ただの人ではなくなる。

鬼に近しい化生へと堕ちる。

自分がその一線を越えたとき、何を失うのか――答えはない。だが今、この場で手をこまねいていれば、確実に仲間を失う。

 

拳がわずかに震える。

 

その瞬間、空気そのものが軋んだ。

千夜の背から噴き上がる焔は、もはや人の身が纏う熱ではなかった。鬼の血肉をも焼き尽くす、荒ぶる神火。

 

「――顕現・加具土命」

 

その一声と共に迸った炎に、妓夫太郎の全身が一気に火だるまへと変わる。

 

「ぎィ、あああああッ!?」

 

絶叫が夜を震わせた。

己の血が、骨が、肉が――まるで溶岩となって燃え盛る。

これまで感じたことのない、耐えようのない激痛。鬼として生きてきた長い年月の中で一度も味わったことのない「死の予感」が、背筋を凍りつかせる。

 

上弦の鬼――その矜持を賭けて、必死に炭化しかけた身体を再生させる。

爛れた肉が泡立つように盛り上がり、欠け落ちた骨格が強引に組み上げられていく。

 

「オレが……負けるかよォ……!」

 

血鎌を生み直し、吠えるように千夜へと叩きつける。

 

だが。

それを千夜は、避けもしなかった。

突き立つ刃をそのまま受け――その刺し口から、再び劫火が噴き出す。

轟音と共に妓夫太郎の全身を焼き上げ、再び黒い炭塊へと変えた。

 

「な、んだ……なんだ、なんだコイツ……!?」

 

頭が焼け落ちる寸前、妓夫太郎の思考は恐怖に染まった。

 

――これまでの戦いは、頸を落とすためのものだった。技を駆使し、連携を取り、策を巡らせていた。

だが今は違う。

目の前の怪物は、ただ虫を弄ぶように、執拗に、ひたすら身体を破壊してくる。

 

「ふざけんじゃねぇぇぇ!」

 

血鬼術を乱射しようが、毒を浴びせようが、何の手応えも返ってこない。

焔に呑まれ、ただ消し炭にされるだけ。

 

初めて――妓夫太郎は悟った。

自分が狩る側ではなく、狩られる側に立たされていることを。

その圧倒的な現実が、心臓を凍らせるように締めつけていく。

 

 

 

――どれほどの時間が過ぎたのか。

炎の奔流に呑まれ続けるうち、妓夫太郎の意識は遠のき、己が鬼になる前に味わった“弄ばれるだけの時間”を思い出していた。

無力に、終わりのない責め苦に苛まれるだけの存在。

堕姫の頸が斬り落とされ、虚ろな瞳のまま傍らに転がっていた。

そして、すべてを焼き尽くす荒ぶる火の神が、なおもその劫火を振りかざそうとした瞬間――

 

「だめだ! 千夜さん!」

 

裂帛の叫びが闇を震わせた。

毒で喉を焼かれ、呼吸すらままならぬ炭治郎が、それでも必死に千夜の背へと掴みかかっていた。

爪が剥がれ血が滲んでも離さない。

 

「……そっち側に行ってしまってはダメだ。千夜さんは、そんな人じゃないはずです!」

 

燃え盛る背に縋りつく彼の眼差しは、涙に濡れながらも揺るぎなく澄んでいた。

千夜の拳を止めるのは、力ではなく、ただその真っ直ぐな想いだった。

 

「む――!」

 

禰豆子もまた、幼い体で必死にその裾を引き留める。

鬼でありながら、それでも守りたいと願うその心が、確かに千夜へと伝わる。

 

気づけば、零余子も傍にいた。

震える指先で、コートの裾を掴み締め、まるで祈るように声を絞り出す。

 

「……どうか、このまま戻ってきてください」

 

――荒々しい熱は、次第に鎮まっていった。

天を焦がしていた焔はゆるやかに消え、焼け爛れた空気に夜の静寂が戻り始める。

 

千夜は確かに、戻ってきた。

仲間の声と手が、彼を奈落への道の深淵から引き戻したのだ。

 

燃え尽きた遊郭に、夜風が流れ込む。

烈火の轟きは収まり、残されたのは焦げた瓦と、硝煙の匂い。

 

千夜が拳を下ろした時には、妓夫太郎と堕姫の頸は、既に別々に転がっていた。

血に濡れ、絶望にまみれながらも、それでも互いを求めるかのように。

 

「……お兄ちゃん……どこ……」

 

弱々しく堕姫が呟く声に、妓夫太郎は焼けただれた喉を震わせて応える。

 

「ここにいるよ……俺を置いていくな……一緒だろ……」

 

再生はもはや叶わず、刻一刻と崩れ落ちていく。

その姿は鬼であろうと、人であろうと変わらない――ただ、互いを求め合う兄妹の最期だった。

 

炎の荒魂を抑え込んだ千夜も、その光景を無言のまま見つめていた。

かつての零余子のように、鬼であるが故の罪を背負い、けれど誰かに縋らずにはいられない弱さを晒す姿。

その結末は、決して幸福とは呼べぬ。だが確かに、哀切な「絆」ではあった。

 

やがて二つの鬼の命火は消え、深い静寂が遊郭を包む。

その夜を照らすのは、もはや炎ではなく――

炭治郎たちの荒い呼吸と、零余子が安堵のように漏らした小さな吐息だけであった。

 

 

 

夜明け前の焦土に、千夜の手際よい処置が続いていた。

血清を打ち込まれた炭治郎の苦悶の表情が徐々に和らぎ、天元の断ち切られた腕には、幻視の糸がしなやかに走る。肉を寄せ、骨を繋ぎ、まるで見えざる外科医が縫い合わせていくかのようだった。

 

「リハビリは必要でしょうが、おそらく元通りに繋がると思います」

 

淡々と告げる千夜の声音に、天元は一瞬だけ返す言葉を失った。

自らの毒耐性を過信し、嫁たちの解毒薬でも効果を得られなかった猛毒――それを、目の前の男はあっさりと浄化してしまった。しかも、戦いで荒神と化したあの姿を見せた直後に、である。

 

「あ、ああ……悪いな。しかし、医者の真似事も出来るのかお前」

 

自嘲気味に問いかけると、千夜はわずかに微笑んで答える。

 

「しのぶさんの教えがいいからですよ」

 

その声音には、誇示も派手さもない。ただ静かな事実の提示。

だが――それこそが、宇髄天元の胸に重く響いた。

 

(……ああ、認めざるをえねぇか)

 

己は「派手」を求め続けてきた。華やかに、鮮やかに、己を演出することを旨としてきた。

だが、この男は違う。圧倒的な力を持ちながら、誇らず、ただ護るために振るい、そして誰よりも冷静に仲間を救う。

その姿は、地味だ。だが――何よりも強く、頼もしい。

 

気づけば、傍らにいる嫁たちの眼差しもまた、千夜に向けられていた。

雛鶴は「助かった」と小さく安堵の吐息をこぼし、須磨は涙ぐみながら「すごい……」と呟き、まきをは天元の肩に寄り添いながらも、千夜の処置を目を逸らさず見つめている。

その目はただの感謝ではない。戦いを生き抜く者として、そして命を託せる存在として、確かな信頼を刻む眼差しだった。

 

天元は、かすかな笑みをこぼす。

戦場の余韻にあってなお、千夜の静けさが際立つほどに。

 

 

 

力に呑まれ、戻れぬところまで逸れてしまいかけた。

その手を掴み、引き戻してくれたのは――零余子だった。

 

彼女を「駒」と呼ぶのは確かに真実。主として与えた役割であり、戦うための位置づけ。

だが、その言葉の奥に宿る意味を、千夜は誰よりも知っている。

自らが信じ、託し、共に歩む存在。戦場にあって背を預ける者。

駒であると同時に――誰よりも大切な傍らの灯火。

 

「……ありがとう、零余子」

 

小さく告げ、そっと手を伸ばす。

主の掌が、柔らかに零余子の髪へ触れ、優しく撫でる。

 

その一瞬に、零余子の胸を満たしたのは安堵と誇らしさ、そして胸の奥からせり上がるどうしようもない嬉しさだった。

けれど同時に、頬を染めてしまうほどの気恥ずかしさも伴う。

だからこそ彼女は、泣きそうな笑みを無理に抑え、けれどどうしても抑えきれぬ笑みを浮かべた。

 

――この人の傍に居られることが、何よりの救い。

零余子の心に、その確信だけが静かに灯っていた。

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