さて、これからどうしたものか――そんな思いが胸をよぎるたび、千夜の足は自然とあの山裾の家へと向かっていた。
この場所に、誰が住んでいたのか。記憶は不鮮明で、輪郭を結ばない。
それでも、戸の開け方や囲炉裏の位置、壁に掛かった道具の使い道までが、まるでずっと以前から知っていたように手になじむ。
懐かしさとも違う、もっと静かな確信のような感覚が、千夜の中には確かにあった。
現代――あの喧噪と便利さの溢れた世界と比べれば、この山の冬は桁違いに厳しい。
吹き下ろす風は皮膚を裂くように冷たく、夜はしんと音もなく命を凍らせる。
だが、新たに与えられたこの身は、それをものともせず生き抜く力を宿していた。むしろ、生まれ変わった肉体にはこの地の過酷さこそが自然だったのかもしれない。
千夜は必要以上に獲らないよう努めた。山の恵みを奪い過ぎれば、巡り巡って自らの首を絞めることになる。
狸や狐は罠で仕留め、猪は山を駆けて追った。穴を持たず、気性の荒い熊との対峙も数度あったが、冷静に急所を射抜き命を断った。
狩った獲物は丁寧に血を抜き、皮を剥ぎ、肉と内臓を干して保存する。その一部を山を下りて村へ運び、分け与える。目立つことなく、されど確かに――千夜はこの冬、村の人々の食卓を静かに支え続けた。
やがて、春が来た。白く覆っていた雪が音もなく溶け、土の匂いが空気に混じる。川の水はぬるみ、木々が芽吹く気配を宿す。
千夜は身支度を整え、戸口で一度だけ振り返る。馴染んだ庵を見やり、小さく呟いた。
「……行ってきます」
誰に向けた言葉でもない。それでも、確かにそこに応えてくれるものがあるような気がした。
扉を閉め、千夜は山道へと歩を進めた。
大正の世とはいえ、時代はすでに文明開化の名残を残しつつ、さらに先を進んでいた。蒸気機関が音を立て、瓦斯灯が街を照らし、人々の暮らしは徐々に新しきものへと塗り替えられていく。
――ならば、東京へ行ってみようか。
ふと、そんな思いが千夜の心に灯った。かつての記憶も、過去の繋がりも、今となってはおぼろげだが、それでも「そこに何かがある」ような予感が確かにあった。
春の息吹を感じる山を下り、千夜は小さな村ごとに立ち寄っては道を尋ね、街道をゆるやかに歩き続けた。急ぐ必要はない。
焦って得るものはないことを、彼はもう知っていた。道すがら、見知った山菜の芽を摘み、流れの速い川で魚を釣り、時に親切な旅籠に泊まりながら、自然の恵みに身を委ねる。
旅の合間にも、彼は自らの肉体を怠らず鍛え続けた。我流ながらも、鍛錬の要は心得ていた。再び狙われる日が来ないとは限らない。かつての姿とは異なれど、何かがその存在を見逃すとは限らないのだ。
意識を深く沈めると、胸の奥――それよりもさらに深い場所から、ゆったりとした叡智が浮かび上がってくる。
思考では辿りつけない直観のような、星々の光のように広がる知の網。それは誰かから与えられたものなのか、それとも自身が変化の果てに得たものなのか。答えは分からない。けれど、そこに確かな導きがあった。
そして何より、千夜はこの日々に深く感謝していた。もはや誰かの鮮血に飢えることも、肉をむさぼる必要もない。
ただ、焼いた魚の香ばしさに舌鼓を打ち、山から下りたばかりの新鮮な野菜を味わい、村の造り酒屋から分けてもらった地酒を、しみじみと楽しむことができる。それは、かつての彼にはなかった穏やかな幸福だった。
千夜は肩の力を抜き、深く息を吸い込んだ。目の前には、まだ知らぬ土地と人々との出会いが広がっている。そのすべてに、手を合わせたくなるような感謝が湧いてくる。
こうして彼は、時に笑い、時に黙り、自然と人々の温かさに触れながら――ゆるゆると、東京を目指して旅を続けていた。
東京が近づくにつれて、千夜の胸にじわじわとした疑念が広がっていった。おかしい――あまりにも鬼と遭遇する頻度が高すぎる。
治安の悪い土地を避け、慎重に道を選び、夜の路地裏など極力踏み込まぬようにしていた。それにもかかわらず、ほんの少し道を逸れただけで、鬼の気配と出くわすことが珍しくない。
山間で暮らしていた頃は、鬼の存在など噂話のようなもので、実際に姿を見たことなど数えるほどしかなかった。それがどういう因果か、まるで自分が鬼を引き寄せる香りでも纏っているかのように――。
そんなことを考えながら、千夜は人気のない裏通りを歩いていた。夜闇は分厚く、街灯の灯りも届かない。しんとした空気に、わずかに獣のような匂いが混じっている。
「お兄さん、こんなところで何してるの?」
不意に背後から声がかかった。
千夜は足を止め、静かに振り返る。
そこに立っていたのは――人ではなかった。
女の姿をしてはいたが、ひと目でわかる。鬼だ。
肩ほどの長さに切りそろえられた銀の髪が夜気を払うように揺れ、艶やかな血のように赤い着物がその細身の身体を包んでいた。
首には、この時代にはまだ目新しい高級品――黒いファーらしきものを巻き、その左目には「下肆」の文字が刻まれている。
その目を見た瞬間、千夜の背筋にひやりとしたものが走った。
対する千夜の装いもまた、目を引くものだった。
身長は一七〇を越え、長身に濃いグレーのロングコートを羽織っている。重厚な生地が風を孕みベルトと金属のバックルが引き締まった輪郭をつくる。
裾は膝下まで届き、足音を吸い込むように揺れていた。頭にはつばの広い三角帽――
どこか異国を思わせるその帽子は、大正の和装がまだ多く見られる街中にあって、まるで時代の隙間から抜け出してきたような異質な気配を纏わせていた。
沈黙がふたりのあいだに落ちる。闇の中、相対するその姿は、まるで舞台の幕が上がる直前のような張り詰めた空気に包まれていた。
「いや、田舎から出てきたものでね。物珍しさでいろいろ見ているうちに、こんな遅くなってしまって」
千夜はそう言って微かに笑った。穏やかな声音、柔らかい口調。だがその瞳は、一点の濁りもなく夜の闇を見通していた。
「ふふ……哀れね」
女鬼が口角を吊り上げ、紅の唇から冷たい言葉を垂らす。
「大人しく村で慎ましく暮らしていれば、死ぬことなんてなかったのに」
言葉の余韻が消えるより早く、彼女は影のように飛びかかった。狩る者としての本能が、獲物の体温を確かに捉えていた――はずだった。
だが次の瞬間、景色が反転していた。
空が、地が、ぐるりと回る。激しい衝撃が背中を貫き、地面に叩きつけられる音が耳の奥で響いた。
女鬼は目を見開いた。胸から下が、なかった。血肉は霧のように散り、腹から下は黒く焼け焦げた肉の名残がわずかに地を濡らしている。
何が起こったのか――理解するより先に、本能が危機を告げていた。
再生しない。
日輪刀に斬られた時でさえ、時間が経てば肉は戻っていた。けれど今は違う。
焼け焦げた断面から、じわじわと上へ、肉を溶かす熱が這い登ってくる。
まるで内側から煮えたぎる炎に蝕まれているかのようだった。
恐怖に突き動かされるように、彼女は土を掻き、腕を引きずって這う。
無様でも、見苦しくても、生き延びるためにはそれしかなかった。
だが足音が迫る。静かに、確実に、彼女の死が歩み寄ってくる。
その音には怒りも、哀れみもなかった。ただそこに終わりを告げる静寂だけがあった。
初めてだった。
幾度となく人を喰らい、命を踏みにじってきた。
それでも、こんなにもあっけなく、自らが死ぬとは――。
涙が滲んだ。
声にならない声で、かすかに震える唇が言葉を紡ぐ。
「いや……いやだ……死にたくない……」
その呟きとともに、意識は闇へと沈んでいった。
――そして。
まぶたを開けた。
目に映ったのは、見知らぬ天井だった。
ほの暗いが整った室内。空気は静かで、どこかで鳥のさえずりが聞こえる。命を落としたはずのその身体は、ここに――まだ在った。
「あ、目が覚めた?」
静かな声が部屋の空気を揺らした。
反射的に視線を向ければ、そこにいたのは――かつて対峙した男。あの時、確かに自分を殺したはずの存在。
けれど、今やその姿に殺意も怒気も宿っていない。ただ、どこか旅人のような、淡い光を帯びた眼差しを向けているだけだった。
男――千夜は、彼女の傍にゆっくりと腰を下ろすと、穏やかに口を開いた。
「とりあえず、いろいろ情報交換しようか? まだ分からないことだらけなもんで」
彼女は上体を起こし、まだ少し朧げな意識の中で頷いた。痛みも、空腹も、渇きもなかった。ただ、心が空っぽのまま海の底に沈んでいるような、静けさだけが残っている。
千夜の問いに、一つひとつ思い出すように答えていく。
自分は何者だったのか。どうして鬼になったのか。どれほど多くのものを喰らい、どれほど多くの命を奪ってきたか――。
話すうちに、どこか遠い世界の出来事を語っているような感覚があった。
不思議だった。
あれほどまでに、自らの欲望に忠実だったはずだ。飢えを、渇きを、欲を、ひたすらに求めていた。鬼としての執着、力への渇望。
それが今では、すっかり潰えていた。まるで、嵐の果てに訪れた大海原のように、心が凪いでいる。
「――そうか、君の名は
千夜はぽつりと呟いた。その声音には、どこか納得したような、静かな肯定が混じっていた。
そして、千夜が語り始める。あの夜、鬼であった彼女を前にして、ただ斬り捨てることもできたはずだった。
けれど、自分もまた――生にしがみつくようにして、命の糸を掴んできた。
死にかけたあの夜、彼は“転化”という行為を施され、生き延びた。
だからこそ、彼女を前にして、殺しきることができなかった。
選んだのは、あの日自分に行われたことをそのまま彼女に施すこと。
ぶっつけ本番の“転化”。理屈も保証もなかった。ただ、直感と、ひとつの可能性にすがっただけ。
「つまり、君もある意味……眷属。いや、駒になっている」
言葉を聞いても、零余子は怒らなかった。奪われたとも、操られているとも思えなかった。
むしろ、ようやく自分が何者でもない場所に辿り着いたような、不思議な安堵だけが胸の奥に滲んでいた。
「俺としては、そりゃあ使える手があればありがたいけど……」
言いながら、千夜は少しだけ視線を外し、頭をかいた。照れくささを隠すような仕草だった。
「無理強いしてまでは従える気はない。ある程度、裁量はそちらに任せるよ。でも、手助けしてくれるとありがたい」
それは命令ではなかった。言葉の端々ににじむのは、打算や支配ではなく共にあることへの素朴な希望だった。
「……人を食うな、とは言えない。けど、無駄に襲って食うとかはやめてくれ。頼む」
その言葉には、かつて命を奪われた者としての、どこか痛みを伴った真実が滲んでいた。
零余子は黙って聞いていた。あの激情に満ちていた頃なら、鼻で笑い飛ばしていたかもしれない。それでも今はただその言葉を受け止めていた。
「あと……」
言い淀んでから千夜は軽く息をつき、ぽつりと口にした。
「たまに、話し相手になってくれ」
思わぬ一言に、零余子はきょとんと目を見開いた。次の瞬間、ふっと肩の力が抜けるように笑みがこぼれる。
「ほんと、面白い人ですね」
くすくすと笑いながら、彼女は布団を抜け出す。薄布の裾を払ってしゃがみこみ、静かに三つ指を突いた。仕草はまるで古風な花嫁のようで、けれどそこに漂う空気は、かつての鬼とはまるで違っていた。
「元・十二鬼月――下弦の肆、零余子」
その声は澄んでいて、どこか誓いにも似た響きを帯びていた。
「これからは、あなたを主と認めます。今後とも、よろしくお願いします」
千夜は軽く目を見開いたが、すぐにいつもの朴訥とも見える顔に戻る。そして小さく笑みを浮かべた。
それは、血に飢えた者とそれを狩る者という関係ではなかった。
過去に囚われながら、それでも前に進もうとするふたりの、小さな始まりだった。