追い詰めた――そう、誰もが思った。
長きに渡って鬼殺隊を苦しめ続けてきた鬼の始祖、鬼舞辻無惨。
幾度となく逃れ、幾度となく人の命を奪い、幾百年もの間、闇の底から人を嘲笑い続けてきた怪物を、ついに追い詰めたのだと。
だが。
それこそが、無惨の狙いだった。
空間が歪んだ。
次の瞬間、そこにいたはずの柱も、隊士も、隠も――無惨さえも、世界そのものに呑み込まれるようにして消え失せた。
落ちた。否。落ちているのかすら、分からない。
上下の感覚も、左右の感覚も、もはや意味を成さなかった。
視界の果てまで続くのは、部屋、廊下、階段、襖、床、天井。
だが、それらは建物としての常識を完全に捨て去っていた。
壁だったものが床になり、床だったものが遥か頭上にある。
そのさらに向こう側に、別の部屋がある。
そこにもまた部屋があり、その横にも、その下にも、その上にも――。
まるで巨大な悪夢そのものを建築物にしたかのように、無数の空間が上下左右、無軌道に組み上げられている。
無限城。無惨が築き上げた、鬼の巣窟。
そのどこかで、何かが動いた。
――ぞくり。
誰かがこちらを見ている。
一つではない。
二つでもない。
暗がりの向こう。
襖の隙間。
天井の影。
遠くに開いた部屋の奥。
そこかしこから、飢えた獣のような視線が突き刺さってくる。
鬼だ。しかも、一体や二体ではない。ざわり、と空気が揺れた。
鬼殺隊がこの城へ呑み込まれたことを、すでに理解している。
そして、その意味も。
喰うためだ。
殺すためだ。
何より――時間を稼ぐためだ。
そこに潜む鬼たちは、少なくとも通常の雑鬼ではなかった。
一体一体が、下弦の鬼に匹敵するほどの力を与えられている。
それはすなわち、無惨が己の血を惜しげもなく分け与えたということ。
鬼殺隊の全てを一度に殺すのではない。
削る。
疲弊させる。
傷つける。
仲間を分断し、呼吸を乱し、体力を奪い、精神を磨り潰す。
そして――その果てに、残った者を喰らう。
無惨は、そういう戦いを選んだ。柱であろうと例外ではない。
むしろ、柱こそ消耗させる価値がある。
そして。この城のどこかには、まだ姿を見せていない鬼がいる。
鬼殺隊が最も警戒していた存在。
上弦。
その気配が、まだ消えていない。誰もが、それを感じ取っていた。
誰もが、それを口にしなかった。
口にすれば、恐怖という形を得てしまうからだ。それでも、隊士たちは動いた。
幸運にも近くへ落ちた者たちは互いに声を掛け合い、傷の確認をし、そして無惨のいる場所を探して走り出す。
別の場所では、たった一人で取り残された隊士がいた。
ある者は鬼の群れに囲まれ。ある者は、血の匂いを辿って仲間を探し。
ある者は、遠くから聞こえた悲鳴へ向かって駆ける。
そして柱たちもまた、それぞれの場所で刀を抜いた。誰も、ここで立ち止まるつもりはなかった。
無惨の思惑通りに、ただ消耗させられるつもりもない。
――敵が増えたのなら、斬ればいい。
――道が分からないのなら、進めばいい。
――仲間と離れたのなら、己一人でも戦えばいい。
そして何より。この城の主を、鬼の首領を。鬼舞辻無惨を。
討つ。
胸の奥底には、燃え盛る炎があった。
怒り。
憎しみ。
奪われた命への悲しみ。
ここまで積み重ねてきた、あまりにも長い戦いの日々。
それら全てを、今は叫びにはしない。
静かに。
静かに、胸の内へ収める。怒りに呑まれるのではない。怒りを、刃へ変えるために。
その時だった。どこか遠くで、何かが弾けた。
続いて、木材が砕け散る音。
そして――鬼の咆哮。
一つ。
二つ。
三つ。
やがてそれは、無限城そのものを震わせるほどの激しい戦闘音へと変わっていった。
誰かが戦っている。いや。一人ではない。無限城の至る所で、戦いが始まったのだ。
刀が閃く。
血飛沫が舞う。
鬼の肉体が裂ける。
そして、新たな鬼が闇の奥から姿を現す。
一つの戦場が終わるより早く、次の戦場が生まれていく。
無限に続くような城。無数の鬼。分断された鬼殺隊。
そして、その最奥に潜む鬼の王。
――今宵。
鬼殺隊と鬼舞辻無惨。幾百年にも及んだ因縁の全てを賭けた戦いが、始まった。
これは、ただの決戦ではない。
生き残るための戦いだ。仲間を生かすための戦いだ。
そして――夜明けまで、誰一人として倒れないための戦いだった。
胡蝶しのぶは、無限城の中をひたすらに進んでいた。
どこへ続いているのかも分からない廊下。
上下左右の感覚すら狂わされる異形の城を、それでも迷うことなく進んでいく。
その鼻腔を、ひどく濃い血の臭いが撫でた。鉄錆にも似た、むせ返るほど濃密な臭い。
そして、その臭いに混じって――甘ったるい、何かの香りがする。
しのぶは足を止めた。目の前にあった襖へ視線を向ける。
僅かに開いた隙間から、淡い光が漏れていた。
その向こうを覗き込んだ瞬間。しのぶの目が、僅かに見開かれる。
そこは、まるで水面のような部屋だった。
床一面に薄く水が張られ、その水面からは睡蓮がいくつも咲いている。
美しい。あまりにも場違いなほどに。
だが、その美しい光景の中に――人がいた。
一人。
二人。
三人。
数え切れないほどの女性たちが、血に塗れた身体を横たえている。
その身体から流れ出した血が、水面を赤く染めていた。そして、その中央に。
一人の鬼が座っていた。
まるで宴席で食事を楽しむように、倒れた女性の身体へ手を伸ばしている。
肉を掴み。口へ運び。咀嚼する。
それを、何の躊躇いもなく繰り返していた。
「……」
しのぶの足が止まる。鬼は、そんな彼女の存在に気付くと、ゆっくり顔を上げた。
血に濡れた口元。その顔には――満面の笑み。
まるで、待ち合わせていた友人を見つけたかのような、屈託のない笑顔だった。
「あれぇ? 誰か来たの? わぁ、美味しそうな女の子だ。鳴女ちゃんにありがとうって伝えないと」
その声は、驚くほど穏やかだった。
優しい。
朗らかで。
どこまでも人懐こい。
それが、余計に異様だった。
目の前には、これだけの人間の死体がある。
その肉を今まさに喰らっている。それなのに、この鬼は笑っている。
まるで何も悪いことをしていないかのように。
しのぶの脳裏に、かつて姉が最期に残した言葉が蘇った。
頭から血を被ったような姿。
にこにこと笑う、恐ろしい鬼。
姉を殺した鬼。
その記憶と、目の前の鬼の姿が重なった。
「やぁやぁ、俺の名前は童磨。良い夜だねぇ」
――間違いない。
こいつだ。
そう確信した。
その時だった。
「た、助け……」
微かな声がした。しのぶが振り向く。まだ生きている者がいた。
血に塗れ、身体をほとんど動かすこともできない女性が、震える手を伸ばしている。
その目に浮かんでいるのは、明確な恐怖だった。
「助け……て……」
童磨が、ゆっくりと鉄扇を持ち上げる。
「しーっ、今話してる最中だから」
鉄扇が振り下ろされる。だが。
その刃が首へ届くより早く、しのぶの身体が動いていた。
一瞬で距離を詰め、その女性を抱きかかえる。
「大丈夫ですか?」
安心させるように、優しく声を掛ける。
女性の表情から、僅かに力が抜けた。
助かった。そう思ったのだろう。しかし。
次の瞬間。
「――ごふっ」
大量の血が吐き出された。
しのぶの腕の中で、その身体が大きく痙攣する。
苦悶に歪んだ顔。そして、そのまま力を失った。
「……」
しのぶは言葉を失う。腕の中に残った重みが、その人がもう生きていないことを伝えていた。
「そこにそのまま置いておいて。後で綺麗に全部食べてあげるから」
先ほどと何も変わらない声がした。しのぶが、ゆっくりと童磨を見る。
「何を言っているのですか?」
「ん?」
「この人は嫌がって助けを求めていた」
「だから救ってあげただろ?」
あまりにも自然に返された言葉。そこには皮肉も冗談もなかった。
童磨は、本当にそう思っている。
人間は死を恐れる。苦痛を恐れる。だから自分が食べてあげればいい。
肉体を失ったとしても、自分の中で永遠に生き続けられる。
それこそが救済なのだと。
本気で。
心の底から。
そう信じている。
「……」
しのぶの指先が震えた。怒りだった。だが、ただ怒鳴り散らすような怒りではない。
胸の奥で、静かに。しかし確実に。煮え滾るような怒り。
「正気とは思えませんね」
声だけは静かだった。
「あなた、頭大丈夫ですか?」
童磨が目を丸くする。
「本当に吐き気がする」
「えーっ? いきなりとげとげしいなぁ」
童磨は困ったように笑った。
それすらも、しのぶには耐え難かった。
「……」
「あ、そっか」
何かに気付いたように童磨が手を叩く。
「何か辛いことがあったんだね。俺が聞いてあげよう」
あくまでも穏やかな笑顔。
「言ってごらん?」
――その瞬間。
しのぶの中で、何かが切れた。辛いこと。
そんな生易しい言葉で済ませられるものではない。
姉が殺された。その命を奪った鬼が目の前にいる。それだけではない。
この鬼は、姉の死すらも覚えていないような顔で笑っている。
まるで、昨日食べた菓子の味でも思い出すように。
「辛いも何もあるものか」
しのぶの表情が歪む。初めてだった。普段の柔らかな笑みが、完全に消えた。
「私の姉を殺したのはお前だな?」
声が震えている。怒りで。
「この羽織に見覚えはないか!」
その言葉と共に、しのぶは姉の形見である羽織を突きつける。
童磨は目を細め――そして、ぱっと表情を明るくした。
「あっ!」
まるで懐かしい友人を思い出したかのように。
「あの花の呼吸の女の子かな?」
しのぶの瞳が鋭くなる。
「朝日が昇って食べ損ねた子だね」
その瞬間。童磨の視界から、しのぶの姿が消えた。
「救ってあげられなくて申し訳なかった――」
言葉が終わるより早く。
「蟲の呼吸――」
踏み込み。
水面が弾ける。
「蜂牙ノ舞・真靡き!」
一閃。
いや。
一刺し。
極限まで研ぎ澄まされた瞬息の突きが、童磨の顔面を真正面から穿った。
左眼球。そこから剣先が頭蓋を貫き――後頭部へ抜ける。完全な致命傷。
普通の人間ならば、即死していてもおかしくない。
童磨の身体が僅かに揺れた。
「……」
それでも童磨は倒れなかった。
「速いなあ!」
貫かれたままの顔で、童磨が笑う。
「止められなかったよ。でも――」
指先が傷口を撫でる。ずるり、と肉が蠢いた。
潰れた眼球が戻り、裂けた皮膚が塞がり、貫かれた頭蓋すらも何事もなかったかのように修復されていく。
瞬く間に。傷跡すら残らなかった。
「突き技じゃ鬼は殺せないよ」
童磨は、楽しそうに笑う。
そして手にした鉄扇を、自分の頸へ軽く当てた。
「やっぱり頸を斬らないと」
トントン。鉄扇が己の頸を叩く。その仕草は挑発ですらなかった。
ただ、親切に教えているだけ。それがまた、異様だった。
「それなら――」
しのぶは何も答えない。鞘へ日輪刀を納める。カチリ、と小さな音が響いた。
柄を回す。内部に仕込まれた仕掛けが作動し、刃に新たな毒が纏わされる。
藤の花から精製された、鬼を殺すための毒。
しのぶの瞳には、すでに次の一手が浮かんでいた。目の前の鬼を殺す。
ただ、それだけ。怒りを叫びに変えるのではない。憎しみに呑まれるのでもない。
この鬼を殺すために。
姉を殺したこの鬼を、必ず地獄へ送るために。
胡蝶しのぶは、再び構えた。