千夜と童磨の戦いは、既に人間同士の剣戟などという生易しいものではなかった。
無限城の一室が、二人の戦場となっている。
いや。
戦場と呼ぶことすら、もはや相応しくない。
床は砕け、柱は折れ、壁は幾度となく抉られている。
凍り付いた水面。
砕け散った氷。
そして、それらを溶かし尽くすほどの熱。
白い冷気と紅蓮の炎が入り乱れ、視界のほとんどを埋め尽くしていた。
童磨が鉄扇を振るう。
「血鬼術――」
その一振りだけで、周囲の温度が急激に落ちた。
空気中の水分が瞬く間に凝結する。無数の氷が花開いた。
蓮葉氷――
鉄扇を振るうと同時に冷気を発生させ、蓮形状の氷を無数に生み出す。
それも一つや二つではない。巨大な氷の蓮が幾重にも咲き誇り、その一枚一枚が鋭利な刃物と化して千夜へ殺到する。
それだけではない。
血鬼術――枯園垂り
童磨が二枚の鉄扇を連続して振るう。湾曲した氷柱を生み出しながら放たれる高速斬撃。
一つ一つが人体を容易く切断する威力を持っている。躱せば、その背後から次の氷刃が迫る。
逃げ道そのものを潰すように、無数の攻撃が押し寄せてくる。
さらに童磨が扇を大きく広げた。
「凍てつく風って、気持ちいいよねぇ」
白い霧が広がった。一見すれば、ただの美しい雪景色。
しかし、それは触れたものを凍結させる死の霧だった。
血鬼術――凍て曇
極低温まで冷却された氷の粒子が空間を満たし、肺へ入り込もうとする。
皮膚に触れれば凍傷。眼球へ入り込めば、そのまま視界を奪う。呼吸をすればするほど、己の身体を内側から破壊していく。
全集中の呼吸を常とする鬼殺隊にとって、これ以上ないほど悪辣な術だった。
呼吸することが、そのまま死へ近づく行為になる。
さらに。
血鬼術――蔓蓮華
氷の蓮から伸びた無数の蔓が、蛇のように蠢いた。
しなる。伸びる。絡みつく。まるで生きた鞭の群れ。一度でも身体へ巻き付けば、逃れることは容易ではない。
それら全ての根幹にあるのは、童磨自身の血。
極低温にまで冷やされた、凍てつく血。それを媒介として作り出される血鬼術は、実に多彩だった。
そして、何よりも凶悪だった。
鬼殺隊を殺すために、これ以上ないほど特化されている。
吸い込めば肺胞を壊死させる。
呼吸を封じる。
視界を奪う。
身体を拘束する。
そして、動けなくなったところを喰らう。
一人を殺すためではない。呼吸を使う剣士そのものを、戦闘能力ごと削り取るための術。
童磨という鬼が、いかに多くの鬼殺隊士を殺してきたのか。その術式だけでも十分に理解できた。
だが。
――相手が悪かった。
「――ふっ!」
千夜の拳が突き出される。ただ、それだけだった。
荒魂血闘術・加具土命――飛火槍
無数に咲き誇っていた氷の蓮が、一瞬で砕け散った。
いや。
砕けたのではない。
気化した。
拳の周囲から立ち上った炎によって、氷そのものが存在を許されなかった。
「えぇ……?」
童磨の笑顔が僅かに引き攣る。
次いで、湾曲した氷柱が襲い掛かる。
左右。
正面。
上方。
あらゆる角度から飛来する高速の斬撃。千夜は避けなかった。一歩踏み込む。
――熔鉄の連槌
拳を振るう。
一発。
二発。
三発。
四発。
五発。
飛来する氷柱を、拳で迎え撃つ。砕く。溶かす。弾き飛ばす。
その全てを、連打だけで叩き落としていく。
そして。
「荒魂血闘術・加具土命」
千夜の周囲で、赤い火花が散った。
――焦熱の羅城
発火した血液が炎となって噴き上がる。炎の柱が立ち上がった。冷気の嵐と真正面から衝突する。
白い蒸気が爆発的に膨れ上がり、視界を覆い尽くす。
しかし炎は止まらない。氷を溶かし、霧を焼き、凍てついた血すらも蒸発させる。
「うわぁ……」
童磨は思わず感嘆の声を漏らした。氷の蔓が一斉に千夜へ殺到する。
蛇のようにうねり、四方から身体を絡め取ろうとする。
だが、千夜の身体から立ち上る闘気に触れた瞬間。
じゅっと音を立てて蒸発した。
一本。
二本。
三本。
数える間もなく、全てが消えていく。
「……」
童磨が黙る。ほんの僅かな時間だった。
童磨の術はほとんど何一つとして、自分に有効打を与えられていない。
(んー……まさかここまで相性が悪いとはね)
氷と炎。単純な属性の相性だけではない。童磨の血鬼術は「呼吸を封じる」ことを前提としている。
だが千夜にとって、炎を生み出すのは呼吸ではない。
己の血そのものを燃料にする。血を燃やし、熱を生み出し、炎を操る。
氷を生み出すための童磨の血鬼術と、炎を生み出す千夜の荒魂血闘術。
噛み合わせが悪すぎる。
「困ったなぁ」
童磨が笑う。
「こんなに効かない相手、久しぶりだよ」
だが、その笑顔に焦りはない。そこが千夜の警戒心をさらに強くした。童磨は何発か攻撃を受けている。
腕が吹き飛んだこともある。脇腹を抉られたこともある。肩が焼け落ちたことすらあった。
それでも。
童磨は痛がらない。苦しがらない。ただ再生する。
「……」
千夜は拳を構えたまま、童磨を観察する。
押されている。
それでも、童磨は決定的な一撃を受けていない。どれだけ不利でも、決して無防備にはならない。
この鬼は、戦闘において恐ろしいほど冷静だった。
ならば。
童磨が次に狙うものは――。
千夜の視線が、僅かに横へ動いた。
そこには、満身創痍のしのぶ。そして、その傍らで彼女を守るカナヲがいる。
童磨の視線も、一瞬だけそちらへ向いた。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
「――そこだ!」
千夜が踏み込む。童磨の姿が消える。いや、消えたように見えただけだった。
次の瞬間、二人の間に炎が爆ぜる。
「おっと」
童磨が後方へ飛び退いた。千夜の拳が空を裂く。
「そう簡単には行かせてくれないかぁ」
笑っている。
しかし。
その目は笑っていない。
しのぶとカナヲを利用して千夜の意識を逸らす。その意図を察知され、逆に自分が隙を晒しかけた。
童磨は舌打ちすらしない。
ただ笑っている。
――恐ろしいほどに、隙がない。
その時だった。
「――カァァァッ!」
無限城のどこかから、鎹鴉の声が響いた。
「伝令! 伝令!」
千夜の動きが僅かに止まる。
「竈門炭治郎、冨岡義勇、煉獄杏寿郎!」
その名に、千夜の目が僅かに動いた。
「上弦の参・猗窩座を討ち取ることに成功!」
童磨の動きが止まった。
「しかし三名とも激戦による疲労が激しく、現在しばらく戦闘行動は困難!」
静寂。
ほんの一瞬。
童磨は目を丸くした。
「あれ? 猗窩座殿、もしかして死んじゃった?」
次の瞬間。
ぽろり。
童磨の目から涙が零れた。
「ああ……」
両手で顔を覆う。
「悲しい」
声まで震えている。
「一番の友人だったのに……」
大袈裟なほど肩を震わせる。まるで、最愛の友を失った人間そのものだった。
しかし。千夜は黙って見ていた。
泣き崩れる童磨を。
何も言わず。
冷めた瞳で。
やがて。
「……なぁ」
童磨が顔を上げる。
「何かな?」
「お前の言葉に、言動」
千夜の拳が、ゆっくりと下がる。
「何一つ、本当のことを思っていないだろう?」
童磨の笑顔が止まった。
「……え?」
「鬼ですら、怒れば顔が赤くなる」
千夜は静かに続ける。
「恐怖すれば血の気が引く。驚けば心拍が変わる。危機を感じれば身体が強張る」
戦いの最中なら、なおさらだ。好機を見れば身体は前へ出る。危機を感じれば僅かに退く。
感情は、どれほど隠そうとしても身体のどこかに現れる。
「たとえ平静を装っても、ほんの僅かな差異は出る」
千夜は童磨の顔を見る。
「なのに」
一歩。踏み出す。
「一番の友達が死んだと言うのに、お前は何も変わらない」
童磨は黙っている。
「顔色も変わらない」
もう一歩。
「呼吸も変わらない」
さらに一歩。
「身体も強張らない」
千夜の瞳が、童磨の奥を射抜く。
「本当は――お前、何も感じてはいないんだろ」
「……」
初めて。
童磨の笑顔が、完全に止まった。
千夜は知っていた。人間が当たり前のように抱くもの。
嬉しい。
楽しい。
悲しい。
怖い。
憎い。
腹が立つ。
愛おしい。
失いたくない。
そういう感情が、童磨にはない。
理解できないのだ。
だから。
真似をする。
人間が笑うから笑う。
悲しむから悲しそうな顔をする。
怒るから怒ったような声を出す。
嬉しいと言うから、嬉しいと言う。
童磨は聡い。
だからこそ。
空っぽの自分を悟られないために、完璧な仮面を被っている。
「お前の中身は――」
千夜が言う。
「伽藍洞だ」
童磨の笑顔が消える。
「何もない」
「……」
「何一つとして、入っていない」
無限城の空気が、僅かに張り詰めた。
「お前は、生まれてくるべきではなかった」
童磨の瞳が、僅かに揺れる。それでも千夜は止めなかった。
「他人の感情を理解できないから、分かったふりをする」
「……」
「悲しくもないのに悲しいと言う」
「……」
「嬉しくもないのに笑う」
そして。
「それで人を救っているつもりになっている」
童磨の手から、鉄扇が僅かに下がった。
「君みたいな意地の悪い奴、初めてだよ」
ようやく声が出た。
「何でそんな酷いこと言うのかな?」
いつもの声。いつもの口調。
だが。
違う。
何かが違う。
千夜は目を細める。童磨の顔を見た。そこには――笑顔がなかった。
怒りもない。
悲しみもない。
憎悪すらない。
ただ。
何もない。
能面。
人の顔を模しただけの、空虚な表情。
それまで童磨が被っていた「人間らしさ」という仮面が、初めて剥がれ落ちた。
「……」
童磨自身も、それを自覚していないようだった。
笑おうともしない。
泣こうともしない。
怒ろうともしない。
ただ、千夜を見る。
伽藍洞のような瞳で。
まるで。
そこには最初から――何も存在していなかったかのように。