珠世たちと別れた後、千夜は特に目的地もなく旅を続けていた。
北へ向かっていたはずが、気がつけば西の山道を下り、今は都市近郊のとある小さな村に辿り着いている。
地元の人間しか通らないような細い街道沿いにぽつんと立つ、古びた茶屋の縁側。そよ風に暖簾がゆれ、鼻をくすぐる香ばしい焙じ茶の香り。
千夜は湯飲みを手に、ふうと静かに息を吐いた。
「……やはり、こういう緩いのはいいな」
都市に近づけば、どうしても路銀が嵩む。人の気配も多く、気疲れもする。
それに比べれば、こうして静かな村で過ごすひとときのなんと贅沢なことか。人の話し声も遠く、茶葉の香りと湯気に包まれるこの空間は、まるで時間までもが緩やかにほどけていくようだった。
「……この茶、少し苦いが、悪くないですね」
茶屋の老女が「山で採れた葉っぱでねえ、気が強いんですよ」と笑っていたのを思い出す。少しばかり渋いその味が、かえって千夜の舌には心地よかった。
ふと、縁側から見える畑道を子どもが駆けていく。手には形の良い枝切れ。きっと、剣士にでも憧れているのだろう。
その姿を、千夜はどこか懐かしげに目で追いながら、また一口、茶をすする。
気ままに山野を歩き、時に獣を狩り、時に手籠に山菜や茸を摘み取る。
風にゆれる笹の葉や湿った土の匂いが鼻先をくすぐるたび「これもまた、生きるということか」とひとりごちるような日々。
そんなある朝、冷たい川水で顔を洗っていたとき、ふと脳裏に浮かんだのは、今まで拾い集めてきた山の恵みだった。
薬味として香りを添える葉、かすかな甘みを持つ根、渋みと苦味の中に力を宿す茸。――これらはただの食材ではない。古来より、薬としても重宝されてきたものばかりだ。
「そういえば、こういうものは薬や漢方の材料になるのだったっけ」
脳裏の“叡智”――かつて受け取った記憶と知識の奔流。それは確かに千夜に多くをもたらしていたが、それでも基礎的な部分を理解したにすぎず、全体像はまだ霧の中にあった。
ならば、こういう時こそ先人の知恵を借りるべきだろう。そう思い立った千夜は、静かに目を閉じ、念話で珠世へと意識を繋いだ。
『珠世さん、今……大丈夫ですか?』
ほんの少し間を置いて、涼やかな声が返ってくる。
『はい、大丈夫ですが……何かありました?』
『いえ、些細なことです。ただ、山で見つけた薬草や茸のことで、少しお伺いしたくて……』
珠世は一瞬、くすりと笑ったようだった。医師でもある彼女にとってその問いはむしろ嬉しいものだったのかもしれない。
知識の断片を語るうちに、自然と会話が弾み、千夜もまた多くのことを学んでいった。
彼女が穏やかに応じてくれるのも、千夜がただの興味本位ではなく、真剣に人の役に立とうとしているのが伝わっていたからだろう。千夜の中にある成長への意志は、珠世にとっても救いだった。
もっとも、あまり長く話し込んでいると、どこからともなくぬっと現れた愈史郎が「お忙しい珠世様の手を、くだらない話で煩わせるな!」などと声を荒らげてくるのだが、それもまた今では微笑ましい日常の一幕だ。
そうして千夜は、ただの放浪の異邦人から、いっぱしの薬師のような顔つきを持つようになっていく。
背中には大きな背負子に収めた薬箱。旅の途中で得た薬草や加工品を売り、獣肉よりも高値で取引されることもしばしば。
山里を歩けばそれなりに懐も温かくなった。最初は風体の変わった人と見られることも多いが、その柔和な雰囲気と人々の役になってくれるため受け入れられるのは遅くなかった。
「ごちそうさまでした。お代、ここに置いておきますね」
千夜は湯飲みを卓に戻し、手拭いで口元を拭うと、背負子を肩に掛けて静かに立ち上がった。素朴な茶屋の軒先に、小銭の乗った木の盆がひとつだけ残る。微かに揺れる暖簾をくぐり、通い慣れた街道へと足を戻そうとした、そのときだった。
――チリ、と首筋に微かな違和感。
刺すような痛みではない。風が逆巻いたかのような、肌を撫でる気配に似た感覚。千夜は瞬時に歩みを緩め、周囲をさりげなく一瞥しながら街道を行く人々の邪魔にならぬよう道の端に身を寄せる。
そして静かに目を伏せ、念話を繋いだ。
『炭治郎? 今どこに居る?』
『あ、千夜さん? 今、任務で那多蜘蛛山のほうに向かってます』
炭治郎の声音はいつも通りだ。だが、その山の名を聞いた瞬間、胸の奥がふっと冷えたような感覚があった。
『そうか……気をつけてな』
会話をすぐに切り上げ、千夜はゆっくりと、しかし確実に足を速めていく。背負子をコートの内側へ仕舞い街道から外れ、獣道もない木立の奥へと身を滑らせるように進む。
『零余子、ついてこれるか?』『はい、これからお傍に』
彼女とどこかで合流することにしつつ、胸騒ぎ――そうとしか言えぬ得体の知れぬ感覚が、千夜の背を押していた。あの山で何かが動き出している。
歯車が、またひとつ、ゆっくりと、しかし確かに廻り始めたかのように。
ざわめく葉音を背に千夜は人の視線の届かぬ山野をひた走る。行く先には、鬼の匂いと、あの少年の運命が待ち構えていた。
那多蜘蛛山。霧が立ちこめる薄闇の中、湿った風が木々を揺らす。
炭治郎と伊之助は、その中で明らかに劣勢にあった。
鬼殺隊の剣士たちは、皆どこか焦点の定まらぬ目をしていた。宙を舞う白い糸――それに操られるように、ある者は仲間を斬り、ある者はすでに命を落としながらもまるで操り人形のように立ち上がり、斬りかかってくる。
炭治郎は歯を食いしばりながら必死に本体の鬼の居場所を探るが、鼻を突くような異様な刺激臭が彼の“匂い”の感覚を狂わせていた。
「くっ……これじゃ匂いが……!」
隣では伊之助が、何とか敵の位置を探ろうとしていたが、常に動き回る操り人形たちに囲まれ攻勢に転じる余裕がない。
「どこにいやがる、本体は……っ!」
息が乱れ、汗が首筋をつたう。このままでは戦う力を削がれるのも時間の問題だった。
――そのときだった。
木々の奥から、一陣の風が走った。風ではない。気配だ。重さと鋭さを伴った、圧のある何かが戦場の空気を一変させる。
張り詰めた蜘蛛の糸が音もなく断たれた。姿を現したのは濃灰のコートを翻す男。冷たい夜気をまとい、まるで影のように現れたその男のその後ろには、赤い着物を纏い、目に赤い光を宿す少女――零余子の姿。
「無事か!? 炭治郎!」
千夜の声が、戦場に届く。思わず炭治郎が目を見開いた。
「せ、千夜さん!」
その一言に、炭治郎の張り詰めた心に風穴が開く。思考が澄み、空気が流れる。
伊之助も、その気配を感じ取ったのか鼻を鳴らして言った。
「おい、何なんだ……このすげぇの!」
風は変わった。これまで押され続けていた盤面が、静かに、だが確かにひっくり返ろうとしていた。
一度切れたはずの糸が、音もなく再び繋がり死者が立ち上がる。
それはもはや命ではない。ただ“繋がれた”という事実のみが身体を突き動かし、重たく鈍い剣が味方を斬るために振り下ろされようとしていた。
千夜は一瞬、焔の型を思い描いた。焼き払えば、糸もろともその身を灰に変えられるだろう。だが――。
(……火では相性が悪いな)
この山は生きている。森も、木々も、土も。劫火を放てば敵を焼くことはできよう。だが、同時にこの場所すべてを破壊することにもなる。
静かに、千夜は構えを解いた。攻めの構えから、しなやかに受け流す形へ。風の呼吸とでも呼ぶべきその姿勢で彼は軽く息を吸い、口の中で神名を転がすように唱えた。
”
その瞬間、風が凪いだように周囲の空気が一変する。
しなるような動きで、千夜の手刀が地を舐めるように振るわれ、切断ではなく“ほどく”ように、糸の結び目だけを断ち切っていく。
斬撃というより風の手で優しく解かれたような、そんな穏やかさすら感じさせた。
「零余子、負傷者の救助と、手駒を減らすのを頼む」
「御意、我が主」
返された声音は、冷たく、しかしどこか慈しみにも似た響きを孕んでいた。
「――
零余子の身が、影とともに薄れてゆく。彼女の姿も、周囲の気配すらも、ふわりと宵闇に溶け込む。
操られていた鬼殺隊の屍たち――彼らに絡んでいた蜘蛛の糸が完全に断たれたわけではない。糸自体はそこにある。だが接続するはずの肉体に触れられない。
再び糸を伸ばす。しかしそれは空を切るだけ。目の前に居るはずの存在がまるで幻のように手をすり抜ける。視覚も感覚も、月の光に照らされた影のように掴めない。
救助すべき者たちの気配が、次々と消えていく。だが、それは消滅ではなく“救出”だった。存在を希釈されて触れることが出来なくなり害されることもない。
気づけば、戦場は音を失っていた。鬼の糸のきしむ音すら、森のざわめきに吸い込まれ、ただ、風だけが静かに流れていく。
糸への回避、対処方法を鬼殺隊の村田に伝え、三人は山奥へと分け入る。
だが、進むごとに空気は重く、気配は濃く、絡みつく糸の数は確実に増していた。
白く光る糸が、足元から頭上へ、斜めから横から、蜘蛛の巣のように入り乱れて絡みついてくる。まるで森全体が敵の手となり足となり、行く手を塞ぐかのようだった。
そのとき、森の奥で一際高い叫びが響いた。
「いやっ……来ないで! やめて……お願い、これ以上はっ……!」
声の主は、鬼殺隊の女性剣士だった。彼女は味方の隊士――すでに命を落とした仲間の骸の髪を持ちその体は糸に引かれ、まるで人形のように不自然な姿勢にされている。
「やめろ……やめてくれっ!」
炭治郎が駆け寄ろうとするが、それより早く剣を握ったまま動き出した。
その動きは、人のものではなかった。関節がありえない角度に曲がり、腕が背中の方から回り込むようにねじれ、あり得ない可動域で剣を振るう。
剣舞。 まるで嘲笑うかのような滑らかさで、死者の剣が空を裂く。
さらには、地に伏していた者までもが無理やり起き上がり、血の滲む唇から声を漏らす。
「……もう、助からねぇ……内臓に、骨が……刺さってる……なぁ、お願いだ……殺してくれ……」
炭治郎の顔が、見る間に歪む。その瞳に宿る苦悩と悲しみは、もはや少年のものではなかった。
「炭治郎と猪頭! ……伏せろ!!」
千夜の叫びが空気を切り裂く。その言葉に反応するのは一瞬だった。炭治郎も伊之助も刹那に身を沈め、地を蹴って回避行動に入る。
次の瞬間。千夜の腕が、肩甲骨を超えるまで大きく振りかぶられた。
その剛腕が限界まで張られた弓のようにしなり、そして――振り抜かれる。
巻き起こったのは風ではなかった。それは、まるで竜の咆哮のような轟音とともに森の中に旋風をもたらす。空気が唸り、枝が引きちぎられ、あらゆる蜘蛛の糸が細切れに断たれてゆく。
その風の中、糸の先にいた子蜘蛛たちも何もできずに塵となって消えた。操られていた剣士たちは風に舞いながらも落下し、地面に当たる前にふわりと風に受け止められて横たわる。
――まだ、本体は、奥にいる。
三人は並んで駆けた。
濃密に漂っていた刺激臭が風の流れに押されるように薄れていく。刹那、炭治郎が顔を上げ、鼻孔を大きく開いた。
「……わかる! 鬼の匂い、また嗅ぎ分けられる!」
風が変わった。それは千夜にもわかった。あの鼻が利く少年の目が、迷いのない鋭さを取り戻したのだ。
「炭治郎、頼んだぞ」
「はい!」
炭治郎が先頭に立ち、迷いのない足取りで茂みを縫って進んでいく。
その背中を追いつつ伊之助が急に叫んだ。
「おい、この黒ノッポ! 猪ヤロウじゃねぇ! 俺様は伊之助って言うんだぞ! 覚えとけぇ!」
千夜が驚きもせずに小さく「覚えた」と返すと、伊之助は妙に満足げに鼻を鳴らし、さらに加速する。
そのときだった。
目の前の木々が割れ、黒々とした巨大な影が姿を現した。常人の倍はあろうかという体躯。異様に膨れた筋肉。異臭とともににじみ出る圧迫感。
「……デカいな」
千夜が呟いた。
だが、それはどこか冷静だった。
確かに異形。だが、頸がない。鬼の本質を断ち切る場所がそもそも見当たらない。千夜の目が鋭くなる。
(コイツは囮か……)
炭治郎も、動揺はあったが即座に本能的に悟っていた。
「こいつ……本命じゃない!」
「炭治郎、本体を頼む! 俺はコイツを止めておく!」
その言葉と同時に千夜は迷いなく背負子に手をかけ、炭治郎を思いきり樹上へと放り上げた。炭治郎の身体は軽やかに枝を蹴り、影の中へと消えてゆく。
その直後。巨体の鬼が怒りの咆哮とともに刃を振り上げた。
その巨腕が、まるで落雷のような速さで突き出される。だが、それに対して千夜は一歩も退かない。
凶刃が千夜の振るった掌打と正面からぶつかり合い、大地が揺れた。
その衝撃に木の葉が舞い上がり、周囲の空気が震えた。拳と掌、力と力の激突が、まるで天地のぶつかり合いのような音を響かせる。
「……重いな」
千夜の足が地に沈む。しかし、視線は逸らさず、ただ真正面から鬼を睨み据えていた。
樹上では、炭治郎が進む。敵の本体へと、確かに――。
巨躯の鬼が、湿った土を踏みしめながらのそりと動いた。
筋肉の塊のようなその身体に常人の常識は通じない。頸のない体を引きずるように歩む姿は、まるで命を持った“骸”そのものだった。
千夜は、じり、と前へと進む。
「伊之助、とりあえず好きに相手してくれ。正面は俺が受け持つ」
「おい! 俺に指図すんじゃねぇ!」
伊之助が牙をむいて吠えるように抗議するが、もう動き出していた。
叫びながらも、言われたとおりに相手に向かっていく姿に、千夜は小さく笑みを零す。
鬼の肉体がぶれるほどの速さで繰り出した突き――速い。あの体格で、と思わせる瞬発力だったが、それを千夜はわずかに顔をしかめただけで受け止めた。
いや、正確には、弾き返した。
伊之助がその隙を逃さず斬りかかり、双刀が肉を裂いた。血が飛び散る。しかし、鬼は苦悶の声ひとつも上げない。脳もなければ痛覚もない。あるのは“命令”のみ――鬼狩りを殺すという“命令”。
千夜は冷静に戦場を見ていた。伊之助に向かいそうな一撃があれば、それを読むように糸を切り、斬撃をいなし、受け流す。操り糸の軌道を見切り、ひとつ、またひとつと潰していく。
奇妙なことに、千夜に向かおうとする糸だけは、近づいた瞬間――まるで怯えるように、灰と化して崩れ落ちた。
(……とんでもねぇな、こいつ)
伊之助の脳裏に、その感想が浮かんだ。
それが賞賛か嫉妬か、自分でもよくわからない。だが、確かに“格”を感じた。目の前のコートの男は、只者ではない――。
「はっ!!」
蛇のようにしなる千夜の腕が唸る。
その一撃で、鬼の四肢が吹き飛んだ。腕が空を裂き、足がねじ切られ、巨体がよろめく。
千夜は地を蹴った。反転した蹴りが巨鬼の胸を直撃する。土が砕け、音が風を裂いた。
巨体が宙へと浮かび上がる――その瞬間。
「やれ!」
短い号令。
最上段、空中から伊之助が跳ぶ。獣のような咆哮をあげながら、両腕を振りかぶり、袈裟斬りの形で真っ直ぐに落ちてくる。
刃が閃き、鬼の左半身を斜めに断ち割った。
黒い肉が、裂ける。焦げるような臭気と共に、断面から炭のような煙が立ち上り、鬼の身体は徐々に崩れ落ちていく。
まるで、意志そのものが黒く燃え尽きるように。
それは、戦意を失うことすら許されぬ操り骸の、静かな最期だった。