母鬼を倒しても、終わった気配はない。
むしろ、空気が再び濃くなる。刺激臭が、先ほど以上に鼻を突いた。炭治郎は顔をしかめ、思わず鼻を押さえる。
(また、匂いが……)
鬼の気配はまだある。道なき道を進んでいくと川沿いに出た。
その流れの先。闇の中に、もう一体の鬼の姿が見えた。
小柄で、肩をすぼめるような姿勢。だが、目に宿る光には怯えではなく、明確な敵意がある。
「逃がすかぁ!!」
伊之助が咆哮とともに動いた。飛び石を跳び渡り、鋭い反射で森の奥へ逃げようとする鬼を追う。
そのとき――
「お父さん!!」
叫び声が、夜空を裂いた。
瞬間、上空の闇が動いた。大岩が水に落ちるような気配とともに、巨影が川辺に降り立つ。
その姿を見た炭治郎は、息を呑んだ。それは、人の姿ではなかった。
先ほどの巨躯の鬼よりもさらに太く、筋肉が盛り上がりすぎて腕の動きに違和感が出るほどに肥大した四肢。皮膚はざらつき、毛深く、顔は完全に蜘蛛のそれだった。
目は六つ。口元には
「伊之助!!」
炭治郎が叫ぶよりも早く、蜘蛛鬼の腕が振り下ろされた。それはまるで鉄柱のような重みと太さで、空気を裂きながら伊之助を襲う。
「ぬおおおっ!」
伊之助が剣を交差させて受け止めるが、体ごと地面にめり込むように押し潰された。
「助太刀する!」
炭治郎が駆け、刀を逆手に構え、水の呼吸――
「弐ノ型・水車!!」
身体を軸に回転させるように跳躍し、円を描くように刀を振り抜いた。狙いは、巨鬼の上腕部。それを奪えば、伊之助への圧力も断てる――そう判断しての一撃だった。
だが――
鈍く、重い音が木霊する。刃が通らない。水のように滑らかに流れた炭治郎の技は、巨鬼の皮膚の表面で止められた。まるで、岩に刃を当てたかのような抵抗感。
水の呼吸の型をもってしても、鬼の腕は切れなかった。
「……なんで……!」
炭治郎が、唇を噛んだ。刃を止められたときの感触が、まだ手に残っている。硬い。厚い。まるで刃を受け止める“意志”すら宿しているような肉の密度だった。
その隙を逃さず、父鬼が巨体をわずかに引き――鋭く突きを繰り出す。
「――っ!」
咄嗟に動いたのは伊之助だった。
「舐めんじゃねえぞッ!!」
双刀を十字に構え、斬りかかるように間に割って入る。刃は命中した。だが――
岩を真っ二つにしようとした剣が、逆に撥ね返されたような音を立てた。
(硬ぇ……ッ!)
膂力には自信がある。それでも腕の芯まで震えるような衝撃。斬ったのではない、ぶつけたのだ。岩に。
次の瞬間。鬼の剛腕が、一閃した。
風を裂き、大気を唸らせながら振るわれた拳――それは、ただの殴打ではなかった。質量と速さと憎悪が合わさった“圧力”そのもの。
「がはっ!」
「うっ……!」
二人の身体が宙を舞う。水面を跳ねるように吹き飛ばされ、ゴロゴロと転がりながら岸辺へと叩きつけられた。
胸を打ち、背を擦りむき、肺の空気がすべて抜けていくような感覚。視界がぐらつき、耳鳴りが鼓膜を震わせる。
それでも、炭治郎は立ち上がった。伊之助も、腕をぶるぶると震わせながら、刀を差さえにしつつ唸る。
「ッくそが……!」
「まだ……終われない……!」
だが敵は待ってはくれなかった。父鬼は悠然と踏み出す。
巨体のわりに重々しさはない。足取りは、むしろ獣や蜘蛛のそれに近い。確実に、彼らを殺すための距離を詰めてくる。
「――行かせはしない」
低く、鋭い声が空気を裂いた。
飛びかかるように鬼の懐に滑り込み、振り下ろされる突きをその腕の内側へと“いなし”――同時に、反動を殺さぬまま拳を捻じ込むようにカウンターを打ち込んだ。
打撃は深く入った。鈍い音とともに鬼の鳩尾が沈み、巨体がぐらりとたたらを踏む。
「……!」
父鬼の目にわずかな警戒の色が宿る。だが、倒れない。すぐに体幹を戻し、バランスを取り直すと今度は全身をひねって殴り返してくる。
まるで打撃の“反復”すら身についているかのような、攻防一体の動きだった。
千夜は、後ろ足で地を蹴って一歩退く。肩口をかすめる風圧だけで、大波のような飛沫があがる。
剛力と耐久、今までの鬼とはまるで別格だ。
だが――この場は、退けぬ。
森の中に、鈍く、重たい音が連続する。
拳と拳、肉と骨がぶつかり合う、恐ろしく速く重い打撃の応酬。千夜の身のこなしは疾風に対する柳のようで、鬼の攻撃をすんでのところでいなし、反撃を打ち込む。
しかし――鬼もまた、手練だった。
一撃ごとの重みが、まるで山そのもの。鋭さではなく、質量と速度で殺す“破壊の拳”。
千夜は一歩も引かない。だが、その場に留まり続けるためには、神経の糸を張り詰め、寸分の狂いも許さぬ集中が必要だった。
「――っ!」
鬼の拳が、わずかに鼻先をかすめる。空気が爆ぜ、木々が揺れる。
そのときだった。
「千夜さん、下がってください!」
炭治郎が声を上げ、背後の木を斬り倒していた。
巨木が、軋む音とともに傾き、ゆっくりと、だが確実に――鬼めがけて倒れ込んでくる。
地を揺るがすような音とともに、父鬼の上に巨木が覆いかぶさった。
「……効いたか?」
炭治郎が息を詰める。しかし、次の瞬間、その“希望”は容易く打ち砕かれた。
木の下から、鋭い破砕音が走った。
巨木が、持ち上がる。片手で――まるで、ただの枝のように。
「な……!」
信じられぬ光景だった。父鬼はその巨木を握り直すと、勢いよく――横薙ぎに振るった。
「っぐ……!」
炭治郎は間一髪、日輪刀を構え、それを受け止めようとした。しかし、質量も勢いも常軌を逸していた。
刃がきしみ、腕が痺れ、全身が浮く。そのまま、炭治郎の体は吹き飛ばされた。
木の葉を巻き上げながら、この場からとてつもなく遠くへ。
「炭治郎!!」
伊之助の叫びも届かぬほど、次の事態は早かった。今度は二人に向かって、柱のような巨木が――投げつけられた。空を切る重低音。
(まずい――)
伊之助の近くに立っていた千夜は、とっさに動いた。
身を翻し、伊之助を庇うように立ちふさがる。次の瞬間、巨木が直撃した。
「ぐっ……!」
木が木を穿つ音が響く。そして、木々の奥へと千夜の身体ごと吹き飛ばされた。
枝を折り、幹を裂き、いくつもの木々を押し潰しながら遠くへ――その姿は森の闇に呑まれ、見えなくなった。
「く、黒のっぽーーー!!」
伊之助の叫びが、空にこだまする。
怒声ではなかった。 それは、確かに――仲間を思う声だった。
……まどろみの闇の中。意識は深い水底に沈むように、千夜の思考を鈍らせていた。
あの巨木の衝撃は、肉を砕き、骨をきしませた。だが、痛みはもう遠い。まるで全身が薄い膜に覆われたかのような感覚。重さも冷たさも、何もかもが宙に溶けていく。
す、と――世界の片隅に、ひとつの残滓の気配が降り立った。
「なんともまぁ……無様なものだ」
耳元に、乾いた声が響く。あきれ果てたような声音。だが、怒気も憐憫も、哀しみすらも含まれない。まるで欠伸混じりに石を蹴るような、侮蔑さえ希薄な冷淡。
「このような状態など、瞬きもせずに戻せように。憐れみすら湧かぬ。――恥さらしめ」
言葉は鋭くもなくただ淡々と落ちていく。だがその一つひとつが、心臓の奥に針のように突き刺さった。
千夜の意識の内側――もはや現でも夢でもない場所に、その“声の主”はいた。
顔を仄暗い帳の奥に隠した影。深紅の輝く気配を身にしその姿をまともに見たことはない。だが、血の奥底で、魂の一部が知っていた。
――“長”だ。
彼に力を与えた存在。人の理を超えたところに立ち、全てを些末な事と言い切れる、異形の“頂”。
「人を超え――人を失い――それでも生にしがみついたのであろう?」
まるで神託のように響く声。冷たく、それでいて運命の輪の淵から手を差し伸べるような声音だった。
「ならば、その力を持ち世界を――蒙昧どもを――平伏せさしめよ」
そこに熱はなかった。だが、“命令”のように重く、抗えぬ何かが千夜の内側を締め付ける。
次の瞬間――ことり、と音が鳴る。
遊戯盤の上に置かれた駒が進む。“階位”の刻まれた小さな鮮血色の駒が、一つ、盤上を前へと移動する。
その瞬間、千夜の身に流れる“血”がわずかに蠢いた。肉が自己修復を始め、呼吸が音もなく整い、まるで全身の細胞が号令を受けて動き出す。
――再び、戦場へ。