千夜が吹き飛ばされ、戦場に残された伊之助は、ひとり父鬼の猛攻に晒されていた。
呼吸は荒れ、膝が笑う。己が折れた刀の残り刃を握りしめ、最後の力を振り絞って父鬼の頸へと突き立てたが――限界だった。
伊之助の視界はぐらりと傾ぎ、全身の力が抜けていく。鬼の腕が己の体を包み込むように握りつぶさんと迫る。終わりがすぐそこにあった。
意識が闇に沈みかけた、その時だった。月を背に、赫き光を纏いながら、一つの影が空を裂いた。
――“荒魂血闘術 加具土命・星砕き”。
技名を告げることすら不要なほど、それは圧倒的だった。
振り下ろされた拳が、地を抉らんばかりの勢いで鬼の脳天へと叩き込まれる。
焔を思わせる赫光が空を裂き、伊之助の体を捕らえていた腕だけを残しその先を骨ごと、灰一つ残さず消し飛ばした。
山が鳴った。地が軋み、風が裂ける。凄まじい衝撃に大地はうねり、木々は軒並みなぎ倒される。神が怒りを振るったかのような一撃だった。
伊之助の体は、解放された腕の中から転がり落ちる。意識はまだ薄れているのに確かに彼は見た。赫き輝きをその身に宿し、静かに父鬼がいた跡を見下ろす者がそこに、立っていた。
(……なんか、さっきと違ぇ)
ぼんやりとした頭でそう思ったときには、すでに遅かった。
目覚めた伊之助の体は、ぐるぐる巻きの包帯にすっかり拘束され、四肢にはしっかりと添え木まで当てられていた。顔以外、まるでミノムシか、繭のようだ。動こうとしてもピクリともせず、ぴったりと固定されている。
「……って、おい! 何しやがる!」
半ば悲鳴のような声をあげた伊之助の視界に、ひょっこりと覗き込んでくる千夜。何の悪びれもなく、包帯にくるまれた伊之助に向かって親指をぐっと立てた。
「おらぁぁぁ! グッ! じゃねえんだよ! 解きやがれ!」
怒声とともに身体をのたうたせようとするが、いかんせんミノムシ。動きは封じられ、怒りだけが空回りする。その間にすっかり満足したように伊之助に背を向け、悠々と炭治郎の元へと駆けていった。
「おいこらあああ! 置いてくなァァ!」
山に響く怒鳴り声とは裏腹に、夜風がさらりと通り抜けた。
千夜は風を裂くように駆けていた。吹き飛ばされた炭治郎の気配を追い、裂け目のように開けた視界の先に、その姿を見つける。
――満身創痍。炭治郎は、もはや這うことしかできなかった。呼吸の使いすぎで体は限界を越え、意識すら定かでない。それでも彼は血に染まった妹の傍へと手を伸ばしていた。
だが、その背後。
すでに頸を落とされたはずの鬼がなおも生きながらえていた。おぞましい執念と殺気をまとい、這う炭治郎の背へと迫っていく。血で紡がれた鋼糸が、籠のように空間を閉ざし、炭治郎を呑まんと展開される。
「零余子! 二人の保護を!」
叫びとともに、千夜の体がさらに加速する。血の檻が完全に閉じる、その刹那、炭治郎の身体がするりとその鋼糸をすり抜けた。血法が間に合ったのだ。
「なんだ、お前」
狙いを逸らされた鬼の目が、今度は千夜へと向けられる。怒りと殺気が、嵐のように降りかかる。だが、それを前にして千夜は静かに拳を握った。
「廻野上 千夜。推して参る」
静かな声が、戦場に響いた。鬼が冷酷な殺意を隠すことなく、どす黒く赤い糸の塊を射出する。
その凶悪な糸の奔流を前に、千夜は一歩も退かない。足に力を込め、腰を回し、拳に回転を乗せる。全身を一つの矢のように、技へと変える。
――“加具土命・七獄五劫”。
解き放たれた拳が描く、橙色の閃光。それはただの打撃ではない。燃えるような力が奔流のごとく、鬼の攻撃を押し流し、呑み尽くす。
爆ぜるように閃光が炸裂し、鬼の姿は一瞬でかき消えた。声も、骨も、血も何ひとつ残らない。
風が止まった。あまりにも静かで、あっけないな終幕だった。
「……あ、ありがとうございます」
禰豆子に覆い被さるようにしていた炭治郎が、息を整えながら千夜に頭を下げた。その言葉に対し千夜は静かにうなずくだけだった。
「酷い怪我だな。……伊之助も、後で治療しないと」
そう言葉を落とした直後だった。
空気が一変した。
奥から、音もなく、だが尋常ではない速さで何かが駆け抜けてくる。気配を殺した刺客。その狙いは禰豆子の頸だった。
鋭く放たれた突きが、一瞬にして彼女を貫かんと迫る。だがその刹那、攻撃は虚を斬ったように宙を滑った。存在を希釈され、保護されている二人にはそもそも触れることすらできない。
「……あら。何かしらの血鬼術ですかね?」
やや意外そうに、しかし楽しげに微笑んだのは、華奢な身体に黒い装束を纏った女だった。千夜はその姿を覚えている。
「あなたは……」
女は千夜に向けて、ふわりと首を傾げてみせる。
「おやおや。以前、確か毒で死んだはずでは?」
まるで散歩の途中で再会した旧知のような、のんびりとした声色だった。
だが次の瞬間、その場の空気がまた変わる。
もう一人、別の剣士が現れ剣閃を横に薙いだ。続いて女が再び突きを繰り出す。狙いは虚と、千夜の隙。
だがその両方を、千夜は一歩も動かず迎えた。
片手は横薙ぎの太刀を、もう一方は女の刺突を寸分たがわぬ位置で掴んで止めている。肉を裂かんと迫った刃の勢いを、完全に封じた。
「あ、あの……まずは話し合えませんか?」
静かに、しかしどこか困ったように笑みを浮かべながら千夜が言葉を発した。殺気をはらんだ空気の中で、それはひどく場違いにも思えたが、彼の声にはわずかに人の温度が宿っていた。
その背後、朧げに揺らめくようにして竈門兄妹のそばに零余子が姿を現す。まだ敵意は見せていないが、その体から漂う気配は明らかに“鬼”のそれだった。
元鬼。そして、もう一人は元十二鬼月。
そんな存在が寄り添う状況に、胡蝶しのぶも富岡義勇も心の底で緊張を隠せなかった。静かに刀を構えてはいるが、その切先はかすかに揺れている。
(刀が……動かせない)
富岡の額に、薄く汗がにじむ。まさか自分がこんな形で身動きを封じられるとは思いもしなかった。掴まれたままの刀は、押すことも引くこともできない。力でねじ伏せようにも、まるで地に根を張られたかのように体が動かない。
しのぶもまた、日輪刀に毒を込めた刺突を繰り出していたが手応えは皆無だった。掴んでいる手のひらからは血も流れず、明確に効いていない。彼女の作る毒が効かない鬼など、そう多くはないはずなのに。
(このまま膠着か……)
緊張が頂点に達しようとした、その時だった。
上空から風を裂くような声が響く。
「カァァアア! 伝令! 伝令!」
鋭い声を張り上げながら、鎹鴉が一羽、弧を描いて飛来した。
「竈門炭治郎、竈門禰豆子両名ヲ拘束、本部ヘ連レ帰ルベシ!」
命令は、短く、鋭く、否応なく――。
その言葉に、場の空気が一段と張り詰める。隊律に従えば逆らえない指令。だが、指名された二人は、いま護られている。鬼に、敵だった者に。
誰もが、次にどう動くべきかを見失ったまま、時間だけが一拍、止まった。
「行きましょうか、本部へ」
そう言った千夜の声音には、敵意も、嘘も感じられなかった。彼と零余子は、あくまで話し合いを望んでいるらしい。戦意の気配はもうそこにはなく、場の空気は不思議な静けさに包まれていた。
激戦の果て、炭治郎はとうとう気を失っていた。血にまみれ、呼吸も浅い。その代わりに千夜が手際よく背負子を整え、禰豆子の小さな身体を丁寧に収める。その仕草には、一切の乱れがない。
しのぶと義勇は、言い知れぬ違和感に、そこでふと気づいた。
(……日の出が近いのに)
ふたりとも、まったく焦る様子がない。
零余子は、淡く光を帯びながら竈門兄妹のそばを守るように佇み、千夜は背を伸ばしたまま背負子を締め直している。ただそれだけの光景なのに、どこか異質な静寂が漂っていた。
――蜘蛛山の稜線から、朝陽が差し込む。
金色の陽光が木々の葉を透かし、戦場の土と血を照らす。あたりは温かく染まり、鳥のさえずりが再び聞こえはじめる。
だが、そこに立つ二人は、陽に焼かれるどころか微動だにしない。
千夜も、零余子も何の異変もない。
その姿は、まるでごく普通の人間のように、朝を迎えていた。
しのぶは唇をきゅっと引き結びながら視線を逸らさず、義勇もまた刀の柄を握る手に力を込めたまま、何も言わなかった。
これは、尋常ではない。
鬼が陽光をものともしない。それは、鬼殺隊の歴史において未曾有の“例外”だった。
この一件は、想像以上に大きな意味を持つ。
……それを、二人の柱は静かに理解し始めていた。