夜気は湿り気を帯び、吐く息は闇に溶けて消えた。
駅の灯りが、煤けた鉄のホームを黄金色に染める。汽笛が低く唸り、夜汽車の黒い車体が光を吸い込むように沈んでいる。
鎹鴉から無限列車への助力を依頼された炭治郎たちに嘱託員として千夜も同行することにした。
灰の濃いロングコートの裾を翻し、ゆっくりと歩を進めた。複数のベルトと金属のバックルがわずかに鳴り、膝下まで届く重みが足取りを支配する。
高く立てられた襟の影が頬を覆い、つば広の三角帽はランプの光を遮って瞳の奥を暗くする。
その姿は、夜汽車の景色には似合っていながらも、この国の空気からは微妙に外れていた。
炭治郎や善逸、伊之助ですら、横目で見やると一瞬だけ言葉を失う。
車内へ足を踏み入れると、途端に鉄と油と木の香りが鼻をかすめた。
走り出した列車は規則的な揺れと、車輪の響きが床を通して伝わってくる。
外の闇を切り裂きながら進むこの密閉された空間は、どこか別の世界の腹の中のようだ。
どこかちりちりとした違和感を感じつつも、皆で先に乗車している炎柱――煉獄杏寿郎を探すことにする。
先頭車両のドアを開けようとしたところ、巨大な声で「うまい!」という音が響く。
そこには幾つもの弁当を空にしつつ、まだ牛鍋駅弁を味わっている青年の姿があった。
煉獄は箸を勢いよく動かし、噛みしめるたびに満面の笑みを浮かべ、「うまい!」を繰り返す。その姿は、戦場を知る剣士であることを一瞬忘れさせるほど無邪気だった。
――この列車の行く先が地獄か闇の中であろうとも、彼の笑顔は揺らがないのだろう。
そう思いながら、千夜は炭治郎たちと共に、その炎の傍らへ歩み寄った。
煉獄杏寿郎は、炭治郎たちを見つけると弁当を置き、まるで旧知の友を迎えるかのように笑顔で立ち上がった。
「君たちが今回の同行者か! 千夜殿も一緒だな!」
その声は快活で、疑念の影ひとつなかった。鬼であってもお館様が認めた者なら、それでいい――そんな、兄貴分らしい潔さが滲んでいた。千夜の姿にも、視線を向けたきり何も問わず、ただ力強く頷く。
炭治郎が座席につくと、さっそくヒノカミ神楽のことを切り出す。
「煉獄さん……炎の呼吸から、新しいきっかけを掴めないかと思って」
真剣な炭治郎の声に、煉獄は腕を組み、うむうむと頷きながら耳を傾ける。その表情に相手の過去や立場を問わず、必要とあれば知識も経験も惜しみなく分け与える男の度量が見えた。
その時、千夜がふと何かを思い出したようにコートの内側へ手を伸ばした。
革と布が擦れる音、金具の微かな触れ合い。やがて取り出されたのは、いくつかの小ぶりな紙袋だった。
「長旅だからね、腹が減る前にこれでも」
炭治郎、伊之助、善逸の前に、そっと一つずつ置かれる。
三人は袋の口に鼻を近づけた瞬間、目を見開いた。
「この匂いは……!」
善逸が一番に叫び、伊之助は袋を勢いよく開く。中には、以前千夜にごちそうになった、あのてりやきソースバーガーとこんがり揚がったフライドポテトが詰まっていた。
甘じょっぱい香りが一気に車内へ広がり、炭治郎も思わず頬を緩める。
「うわぁーっ! また食べれるんだ!」
「うまそうだぁ!」
三人は待ちきれず、がぶりとかぶりついた。袋の中から立ちのぼる湯気と、てりやきソースの濃厚な香り。頬張れば肉の旨味とソースの甘みが広がり、揚げたてのポテトが軽快な音を立てる。
千夜は、煉獄の前にも同じ包みを差し出した。
「煉獄さんもどうぞ。まだ温かいですよ」
包み紙を開いた煉獄は、興味深そうにひと口大きくかじる。
咀嚼し、嚥下した瞬間――
「これもまた、うまい!!!」
夜汽車の揺れにも負けない快活な声が響き、皆でバーガーとポテトを味わいつつ、千夜は小さく笑った。
その笑みは、旅の始まりに灯る炎のように、温かく揺れていた。
笑い声と温かな食事の香りに満ちた車内。
窓の外では、夜の闇が押し寄せては流れ去り、車輪の響きが一定のリズムを刻んでいた。
そんな中、車両の後方から、ひそやかな足音が近づいてくる。
制服を着た車掌――しかし、その顔色は煤のように沈み、瞳には焦点がなかった。
唇だけが機械のように動き「切符を拝見」と低く告げる。
炭治郎が切符を差し出し、カチリと小さな音が響く。
善逸、伊之助、煉獄と順に切符が切られ、紙の切れ端が揺れる。
千夜も懐から切符を取り出し、無言で差し出した。
――瞬間、背筋を撫でるような違和感。
鋏が紙を噛むわずかな動きに、微かに染み込む“別の気配”がある。
だが、その感覚はすぐに霧のように薄れ、列車の揺れに紛れた。
千夜は眉を寄せかけて、結局そのまま流してしまう。
やがて、意識が静かに沈んでいく。
視界は暗く、音は遠く、世界の輪郭が溶け始めた。
魘夢の血鬼術――夢と現実の境界を侵す術。
眠らされた炭治郎や煉獄の夢の中へ、協力者たちが潜り込む。
精神の核を破壊し、二度と目覚めさせないために。
そして千夜にも、腕に縄が括られ、同じように導入しようとしたその瞬間――
縄が結ばれるより早く、千夜の指が相手の手首を掴み取った。
目は深く暗い夜のまま開かれて、協力者が驚愕の表情を浮かべる。
「……残念だったね」
眠りに落ちる前、すでに精神の奥に防壁を築き、完全に意識を手放すことなく相手を泳がせていた。
その策が、今まさに牙を剥く。
狭い通路の中、静かに軋む革の音だけが響いた。
協力者たちの両手首を背後で縛り、足も絡めるように結わえる。狭い車内の床に押し伏せられたその身体は、もがくたびに布の擦れる音を立てた。
魘夢の血鬼術を力ずくで破れば、夢に囚われた者たちは二度と目覚めなくなる――そんな予感があるため、千夜は無駄な力を使わなかった。
代わりに、コートの内側から背負子薬箱を引き寄せ、金具の留め具を外すと、中には小瓶や薬包が整然と並び淡く乾いた香りが立ち上った。
千夜は慣れた手つきで薬草を乳鉢ですり潰し、混ぜ合わせた粉と精油を香炉に落とす。しばらくすると、覚醒を促す清冽な香が、夜汽車の油と鉄の匂いに混じって広がった。
「……っ、ふざけるな……!」
顔を伏せた協力者が、息を荒げて言葉を吐く。
「あんたらを始末したら……幸せな夢の世界へ……戻れるのに……!」
滲む声の奥には、切実な渇望があった。死の病で余命は短く生きるのが辛い、もう会えないはずの家族と夢の中で再会できる――その甘美さを千夜は理解できた。
だが、瞳に静かな影を宿し、低く呟く。
「そのために他人を踏みにじってまで、幸せな夢の中にいることを望むのは……許すことは出来ない」
首を軽く掴み血の流れを止め、協力者の瞼が重く閉じられていく。やがてその身体は力を失い、静かな呼吸だけが残った。
千夜が深く息をついたとき、背後から声がした。
「千夜さん……!」
振り返れば、炭治郎が意識を取り戻し、すでに立ち上がっている。
「俺は鬼本体を叩きに行く! 千夜さんは、まだ目覚めない善逸や伊之助たちを護ってください!」
その瞳は眠りの余韻を微塵も残さず、炎のようにまっすぐだった。
千夜は短く頷き、再びコートの襟を立てた。未だ目覚めぬ守るべき仲間の寝息が、確かにそこにあった。
遠く、闇を裂く剣戟の音が断続的に響く。
その最中、彼に渡しておいた念話板から炭治郎の焦った声が飛び込んできた。
『千夜さん! 鬼がこの列車自体と同化して、乗客を人質にとり始めます! 俺は鬼本体を探し出しますから、他の人たちを護ってください! お願いします!!』
声が途切れた刹那、足元が軋み、床板の隙間や天井から赤黒い肉が盛り上がった。
客車の壁が脈打ち、座席ごと膨張してはうねり、眠り続ける乗客を呑み込もうとし、鉄と木の匂いにぬめる血肉の臭気が混じる。
「むぅ、まさか鬼の計略にかかってしまうとは――よもやよもやだ! 穴があったら入りたい!」
大声と共に立ち上がる煉獄。
「うがーッ! 暴れたりねぇぞ!!」
伊之助も獣のような動きで構えた。
「煉獄さん、伊之助は炭治郎の援護に回ってください!」
千夜の声は短く鋭い。
「しかし、君ひとりでこの車両全てを護り切れはしないぞ!?」
「……いえ、こうなったのなら――この列車を止めます」
その言葉と同時に、意識を集中させ、大きく息を吸い込み、千夜は床を踏み抜くほどの震脚を放った。
車外の闇が低く唸り、次の瞬間、轟音と共に無数の石柱が地面からせり上がった。一本一本が大人数人を並べてなお余る幅を持ち、車輪を押し上げるように列車の下から天井まで貫く。
肉塊と化した無限列車が悲鳴を上げるように軋み、動きが止まる。
レールや枕木、乗客を避けつつも、列車を縫い付ける石柱は、まるで山そのものの魂が現世に降り立ったかのようだった。
先頭の汽車に向けて要石の如く突き進む石柱の隙間から流れ込む夜風に、千夜のコートの裾が大きく翻った。
地鳴りが収まり、夜の闇が静けさを取り戻す。
「なんとも、凄まじいなこれは!」
「……こ、これくらいじゃヌシの座は認めねぇからな!」
大地からせり上がった石柱に感嘆の眼差しを向けた杏寿郎は、力強く頷くと伊之助と共に客車を飛び出し、炭治郎の援護へ向かった。
残った千夜は、起きてきた禰豆子と背中を合わせ、動けぬ乗客たちを囲むように立つ。
だが、無数の石柱に列車の動きを奪われたせいか、肉腫の再生は鈍く、波のように押し寄せていた攻撃もやがて細くなっていく。
焦る必要はなかった。禰豆子の爪が閃き、千夜の拳が一閃ごとにその触手を断つ。
時は流れ、突如として、遠くから魘夢の悲鳴が響き渡った。
次の瞬間、肉塊と化していた客車は嘘のように静まり、鉄と木の匂いが戻ってくる。壁も床も元の形を取り戻し、石柱も戻して風通しの良くなった車内に乗客の寝息だけが残った。
むふーと一呼吸入れた禰豆子の頭を撫でてやると、兄の手とは違う感触に不思議そうにしていたが悪くはなさそうだ。
ほどなくして、炭治郎が戻ってくる。呼吸は乱れ、服のあちこちが裂け、そこから血が滲んでいた。
杏寿郎は落ち着いた声で全集中の呼吸の応用法を教え、傷口を内側から締めて出血を抑えさせる。
千夜も背負子薬箱を開き、消毒薬と止血用の薬草を手際よく調合して塗布した。炭治郎は短く礼を述べ、その場に深く息を吐く。
――これで、任務は終わる。
そう誰もが思った。
……終わるはずだった。