『本丸がそもそも特殊な時空座標にある亜空間なわけだし、俺の私有地みたいな扱いでいいらしくてな。そのうち畑を広げようと思ってた更地もあるから、とりあえずそこで練習しよう』
俺が教えるよと軽く言ってくれた審神者に、豊前江はこの分霊の幸運を噛みしめる。
馬を走らせたときとはまた違う風を切る感覚。力強く響く轟音は腹に響き、まるで戦で己を振るうときのように心が躍る。主命でしっかりと言い含められた制限だけはきっちりと守り、思う存分に速さを味わった。
片手をあげて合図を送る審神者に気づき、豊前は鼻先を変えてぐっと手を握りこむ。その傍で片足をつけば、ルールに厳しい主は笑顔のまま言い放った。
「ブレーキが雑。減速はもっと緩やかに」
「うっ」
「返事」
「はい。……この感じが気持ちーんだけどな」
「安全第一だよ、若葉マークが調子に乗るな。事故のもと」
「わかばまーく?」
「初心者ってこと」
口ではそう注意をしながらも、審神者の顔に険はない。豊前らしいけど危ないことはだめだと穏やかに諭す。
無意味なことは絶対に言わない上に、本当に逆鱗に触れたときは恐ろしい説教が待っている豊前は大人しく頷いた。この主、怒るとこわいと言うか、かなり面倒くさいということは身をもって知っている。
じゃあそろそろ帰ろうか、と夕焼けに照らされる横顔を見ながら、それを下りる。出陣で誉れを重ねた褒美に冗談で言ってみた「ばいく」だったが、まさか本当に用意してくれるとは思っていなかった。
『俺が乗ってたもので良ければ乗る? 整備は頼んであるし、本丸に持ち込めないか確認してみるよ』
そう軽く言った次の日には届いた、深い青が煌めく鉄の馬。肉の器を得てからたびたび見かけたどの「ばいく」よりもうつくしく見え、冷たいはずのそれに跨がった瞬間には柔らかな温もりを覚えた。それはきっと、ひとのこに愛された「もの」であるからこその。
大事に乗ってたんだなと思わず言えば、主は破顔して言った。
『そりゃ、これのおかげで悪友失わずに済んだこともあるからな』
無碍には扱えないよとボディを撫でる手はやさしく、もしこの「ばいく」に付喪がいたら歓喜の桜を舞わせていたことだろう。
豊前にとって、彼は非常に良い主だと言えた。誰に対しても、──モノに対しても基本的に敬意をもって接する。敬意を必要としないと判断したときの容赦のなさは極端だが、そうでなければなるべく丁寧に扱う努力はする。そのうえで「大切」だと捉えたものへの懐の深さときたら、それはもう、底なしと言っていい。
それを享受する身として文句などあるはずもないが、時折、思うことはある。
「……豊前? ぼうっとして、どうした?」
「なあ、主。ひとりで走ってるときにだけ見える景色って、あるだろ」
ほかの何もいない、自分のみがただそこに在るとき。
何を、誰を、すべてを置き去りにして、己のみと向き合ったときに見えるもの。
そうしたときに、ようやく気付くもの。
「──あんたが見るのは、どんな景色だ?」
そのとき、その手が掴んでいるのは。その心に残っているのは。
他を重んじすぎる審神者に、「自分」は残っているだろうか。
自身と変わらない高さにある、ひどく整った瞳をじっと見つめる。その瞳が少し見開き、考えるように斜め上に視線が飛んだと思ったら、今度は瞼の下にふっと隠れる。
そのままひとつ頷いた審神者は、いつものように破顔した。
「知らん」
「……ん?」
「お前も意外と感傷的なこと言うんだな。景色なんて知らねえよ、道があるだけだろ」
道があるなら走るのみ。道がないなら切り開くまで。
するりと「ばいく」の隣を奪われ、主は軽やかに足を掛ける。ほら後ろ乗れ、とさらりと言う主に、そういえばこういう具体性のない問答はあまり好まない人間だったと思い出して苦笑する。
走るのみ、と。この主なら、そうかもしれない。迷っても、悩んでも、それでも走ると決めたなら止まることを許さない人間だから。
それを考えれば、むしろひとりで走らせるなど危なっかしくて恐ろしい。
「んー……主、やっぱひとりで走んのなしな。絶対だめ」
「さっきから何を言ってんのお前は」
「俺も連れてけって話」
「何もわからん。まあ勝手についてくれば」
「うし、言質取った」
「おい」
バイクにまたがり、見た目よりもしっかりとした腰に腕を回す。離してたまるか、とらしくもないことを思う。
──知っている。彼の走る道の果てにあるものを。血を吐く想いで決めた覚悟を。それでいいのか、なんて問えないほどに考え抜いた結論であることを。
だから、そう、……だから、だ。
疾さが売りの豊前江が置いて行かれるわけにはいかない。
ぶる、と鉄の愛馬が呼応するように唸りを上げた。
「飛ばしていこうぜ、主!」
「馬鹿言え、安全運転だ」
きっと、俺は主についていく。何度目かの決意とともに、豊前は祈るように目を伏せた。
実は他ジャンルで書いた主人公のIFの話なのですが、未読の方にもわかるように書いていきます。そちらのジャンルのキャラクターは登場しません。