吐き出した息が白く色づいている。
この本丸の主はひどく寒がりだが、それでも景趣を冬から変えようとはしなかった。微調整で真冬ほどの寒さにはならないようにしているようだが、それでも上着は手放せず、日によっては雪がちらついている。
これくらいが一番頭が冴えるのだと言い張る彼の決定に異を唱えるつもりはないが、どう見てもやせ我慢なんだよなと豊前江は震えながら廊下を進む主の後頭部に目を向ける。
「主、寒いんじゃねーの?」
すでに豊前よりも数枚着込んでいるようだが、もとが鋼の身である刀剣男士は寒さで体調を崩すことはない。
内番着のジャージから腕を抜こうとする豊前を、首だけで振り返った彼は軽く制した。相変わらずその横顔は相当に整っている。
「いいよ、ジャージの下は半袖だろ。見てるだけで寒いから着てて」
「そんな震えとるんに」
「俺は何枚着込もうがたぶん震えてるから」
「……やっぱ景趣変えん?」
「変えない」
でも気ィつかってくれてありがとな、と淡い微笑みを残して審神者はまた前を向いた。彼はそういう言葉を決して忘れない、心根の優しい人間だった。
そつのない人間とも言うかな、と豊前はまた同じ高さにある後頭部に目を向ける。
刀剣男士にひけをとらない整った容姿、細身に見えるがよく鍛えられた身体、深い知識に裏付けされた優れた決断力、必要となればどこまでも冷徹になれる鋼のような理性。
豊前にとって彼は、褒めようと思えばどこまでも褒めるところが見つかる自慢の主だった。たまに度を超えて頑固、しかも怒らせると大層面倒な人間ではあるが、豊前の主を慕う気持ちに偽りなどない。
ただ、少し──思うところがないではなかった。
書庫備え付けの本棚に入りきらず無造作に積まれたいくつかの本の山を前に、うん、と審神者は何でもないように頷いて振り返る。
「じゃあ豊前、この一山頼む」
「おー、……これ全部?」
「何だよ、天下の豊前江が泣き言か?」
「持てっけど、たぶん途中で何冊か落とすぞ、俺」
「それを拾うために俺がいる」
「そっか。ならいいけ」
「よくねえよ。冗談だよ、俺も運ぶから半分頼む」
今日の執務はすでに片付けたというのに、この審神者と来たら次の戦場に備えて書庫の資料を読み直すという。
荷運びを手伝えというからどれだけ読むつもりなのかと遠い目をしていたのだが、やはりこの主、勤勉がすぎる。ふたりで手分けしても視界が隠れるほどの資料の山に、さすがに豊前の口から呆れの息がこぼれ落ちた。
同じように腕の中に資料の山を積み上げた審神者は、そんな豊前の様子にまあまあと苦笑と滲ませる。
「悪かったって豊前、運んでくれて助かるよ」
「運ぶのはいーんだよ。俺が呆れてんのはこの量を読むのかってこと」
「全部一回は読んでるから確認のために軽く目を通すだけだよ。速読得意だし、そんなに時間はかからない」
「こんな字の多いもんをそんだけ読むのが信じらんねえよ」
審神者が真面目な人間だということは豊前もとうに理解していた。必要な努力なら少しも惜しまない人間だということも理解している。ただ、そんな言葉で済ませていいのかという程度には、この審神者は手を抜くことを知らなかった。もはや献身と言うほうが近いのかもしれない。身を削るように「審神者」として励む彼は、心強いがどこか危うい。
まったく、と豊前はもうひとつ息をついて口を開いた。
「こんなことばっかしてっから短刀たちに『主が遊んでくれない』って泣かれんだぞ」
「嘘だろ俺あの子ら泣かせてんの」
「そろそろ一期のにーさんあたりが怒りに来るかもな」
「わりと洒落になんないからやめてくんない」
そんな軽口を叩きながら執務室に繋がる渡り廊下を進んでいく。
この本丸の紋にもなっている柊の葉が、庭で冷たい風に耐えていた。何やら審神者は「柊」に縁があるらしいが、豊前はまだその事情を聞いていない。
顕現してまだ数日の豊前は、審神者のこともこの本丸のことも、当たり前ながら知らないことばかりだ。他の刀に聞けばいろいろと教えてくれるのだろうが、せめて審神者のことくらいは彼自身の口から聞きたいと豊前は思う。
主が何を思う、どうして審神者としてこの本丸に在るのか。どうして寒がりのくせに冬の景趣に拘るのか。──いったい何を、恐れているのか。
「……なー、主」
「んー?」
「読み終わるの待ってていーか?」
「……何で?」
「いや、しゃべりてーなと思って」
不思議そうに瞬く切れ長の瞳に、豊前はにっと笑いかける。
遠征に出ている刀の多い今日なら、主を独り占めして話すことができるかもしれない。主に構ってほしがっているのは何も幼い外見の短刀ばかりではないのだ。
内心でぺろりと舌を出した豊前は、静かにしてっからさと審神者の隣に並ぶ。
「俺はいいけど、退屈じゃないか?」
「知ってっか主、実は俺も刀なんだぜ。じっと待ってるのは得意なんだよ」
「へえ? 五分も我慢できなさそうだけど」
「あ、言ったな」
じゃあ黙って待てた時間分、話に付き合ってくれよと言えば、いや俺は本当に構わないんだけど、と審神者は形のいい眉を下げる。
「あんまり自分に不利な条件はつけないほうが賢いと思うよ豊前。話くらい俺は普通に付き合うのに」
「主は俺のこと何だと思ってんだ?」
結果として豊前は五分ともたずに読書中の審神者に絡み始めたわけなので、審神者は豊前のことをよく理解していたと言える。
「……主ってちゃんと俺らのこと見てんのな?」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ」
お前たちの主だぞと軽く言ったはずの審神者の言葉に、どこか硬い重みが含まれているような気がしてならなかった。