※香澄視点のお話です。
ついにこの日が来てしまいました。
まだまだ肌寒さは残っていますが、それでも確かな季節の移り変わりを感じる、そんな頃です。
まあ、あたしは普段あまり外に出ないので、何がどう春なのかと言われると困ってしまうのですが。桜とかが咲いている、というようなわかりやすい象徴的なものも特には見当たりませんし……。
えっと、何となく肌寒さが少し和らいだような気がしないでもない、のでしょうか?
正直に言いますと、よくわかりません。
……結局、普段意識してもいないことに目を向けたところで、そこから読み取れるようなものなんて特にない、ということでしょうか。
調子に乗って分不相応にもそれっぽいことを言おうとして、大変申し訳ありませんでした。ごめんなさい……。
大人は事あるごとに時候の挨拶なんてするようですが、今は、あたしは高校生になったばかり。中身はともかくとして、外観上は立派な子供です。
なので、その……きっと今は、そんなことはどうでもいいのです。どうでもいい、ということにさせてください。
今のあたしには、それよりも、重要なことがあります。
……特に何かを映しているわけでもないスマホの画面から、少しばかり目線を上げますと、そこには馴染みのない教室、そして同年代の見知らぬ人々。
中学生だった頃もクラスに馴染めていた方ではなかったので、そういう意味ではあまり変わらないのかもしれませんが、しかしやっぱり、新しい環境というのは、どうしても怖いものです。
──何事も、スタートダッシュが肝心だ、と聞いたことがあります。
お友達になってくれそうな人を探すのなら、初日に声をかけることが重要だとか何とか、そんなことを母が言っていたような気がします。
しかし、じゃあ誰に?とか、どう声をかける?とか、そんな風に具体的なことを思うと、途端にそれが極めて困難なことであると思い知ります。
知らない人怖い。
というか人って怖い。無理です……。
──ごめんなさい、お母さん。
あたし高校でも友達とかできそうにありません。
──ごめんなさい、お父さん。
一緒に頑張って考えてくれた会話の秘策、名付けて『天気デッキ』、披露することもなくあたしの高校デビューは失敗に終わりそうです。
そんな風に、1人で落ち込んでいた時のことでした。
隣の席に、見覚えのある人が座っていたのに気がつきました。
何となく以前とはどこか雰囲気が違うような気がして、気付くのが遅れてしまいましたが、彼女は少しばかり前に『全国大会』でお会いした湖織雪菜さんで間違いありません。
……たぶん。いや、きっと、おそらく……。
「あ、あの……」
気がつけばあたしは、蚊の羽音のようなか細い声を絞り出していました。
隣という物理的な距離の近さと、会ったことがある相手かも知れないという心理的な距離の近さ──いや、近さと感じていいんでしょうかね……?これは。
まあ、とにかく、それはそんな一瞬の気の迷いでした。
普段のあたしなら、「不快にさせたらどうしよう」とかそういう考えが先に来て、絶対にしないであろうことは間違いありません。
きっと、何だかんだと言いつつ、あたしも、結局新しい場所に来て浮かれていたということなのでしょう。
「……何かしら?」
まるで、「お前になんて用はない」とばかりの返事に、ぽきり──と、あたしのなけなしの勇気は音を立てて折れてしまったようでした。
あ、すみません……あたしなんかが声をかけて。その、あたしのことはどうぞ珍妙な観葉植物かなんかだと思っていただければ──というようなナイスなジョークすら出てこないくらい、あたしの頭は真っ白になってしまいました。
ですが同時に、頭の中にふと浮かんできたものがありました。
それは、確認です。
……あとから思えば、果たしてそれはこの時やらなければいけないことだったのか、という疑問はあります。
しかし、この時、すっかりパニックに陥っていたあたしは、ただ漠然と「何か言わなければ」とだけ思ってあわあわしていたあたしは、まるで激流に溺れる人のようにその藁へと手を伸ばしたのです。
「えっと、あの、全国大会に出てた……湖織さん、ですか?」
インターネット上で調べた限りでは、あたしのことはまだ知られていません。
しかし、もしかしたら、直接目の前でバトルした相手には、あっさり看破されるかも知れません。だから敢えて大会の話題を出してその様子を確認しておく必要があったんですね、なんていう理屈をこねたりしてみます。
……とは言え、確認をしてどうするという考えが無い辺り、やはり衝動的な問いだったことは否定できないのでしょう。
「そうよ」
やはり、淡白な返事です。
ここまで何もリアクションがないとすれば、気付いてないと見ていいのでは無いでしょうか……?
もしそうであるなら、あの謎テンションで着てしまった奇妙なヒラヒラしたコスチュームにも多少は感謝してみてもいいのかも知れません。
──ありがとうございます、謎衣装さま。この間リサイクルショップに行ったら無くなっていたので、需要が無さすぎてきっと捨てられたんだと思いますが、どうか、どうか安らかに成仏してください。その、きっとお家に帰ったらお供物をしますので……。
「……えっと、その……すごく、強くて、かっこよかった……です。冷静で、静かで、それでいて……その……最後まで、勝ち筋を追っていて」
ひとまずの安心を得たあたしは、1人のファンとして素直な感想を伝えていた。
目の前に立っていた時の記憶はぼんやりしているので、えっと、あの後、お家で何度か試合中の動画を拝見しました!ファンです!サインください!
言葉にこそしませんでしたが、まさしくそんな感じの気持ちです。
……しかし、どうにも湖織雪菜さんの表情は沈んでいました。
あるいは、何かに対しての怒りを抑えているかのような、そんな表情にも見えます。
「──結果としては、負けた。そう言う言葉は、勝者にかけてくれないかしら」
気持ちを制御するかのような間を置いたのち、彼女は小さく、しかし確実にそう言い放ちました。
あぅ、えっと、その。
……すみません。
ごめんなさい。
忘れてたわけでは、無いんです。
ですが、言われてみれば、確かにあたしの言葉はあまりに無神経でした。
そして、きっとそれだけではありません。
湖織雪菜さんは、ちらり、と辺りを見まわした後、改めてこちらに厳しい視線を向けてきます。
「……あんた、名前なんて言うの?」
そして、真っ直ぐにこちらに、まるで獲物を見据えた肉食獣のような鋭い眼光を向けながら、そう問いただしてきました。
……そう、ですね。
何かを決意したような、それでいてどこか自信を持ちきれないようなその目は、言葉にせずとも雄弁に語っています。
すなわち、『あん時恥掻かせてくれたん、てめえだろ?』と。
「……香澄、って言います。苗字は、雲田、で……雲田香澄、です」
──それは、自分でも言い逃れできないほどに明確な、誤魔化しの一手でした。
聞かれているのは、きっとそうだけどそうではない。けれど、あたしには、すっとぼけるしかないのです。
値踏みするような目で、じろり、と。
湖織雪菜さんは、あたしの隅から隅まで、その視線を這わせました。
蛇に睨まれた蛙、というのは、きっとこんな感じなのでしょう。
判決を待ち、ついに告げられる裁判長の言葉に耳を傾けるような、そんな、どこか縋るような心持ちで、彼女の沙汰を待ちます。
「そ、まあ……これからよろしくね」
……。
……!?
……信じられないお話ですが。
どうやら、今回は見逃してくれるそうです。
その寛大な心に感謝を捧げながら、あたしは小さく頷きました。
しかし、その……はい。
湖織雪菜さんの視線が外れて、あたしはひっそり思います。
──せめて隣は、もっと優しそうな人が良かった……。