彼女を縛る重力は、何だったのか。
少年は、少女に憧れた。
彼女を縛る重力には、思い至らずに。
小さなロケットが、空に舞い上がる。
いずれ落ちることを宿命づけられた存在の、一瞬の叛逆。
それを拾うのは誰の手か。
エンゼルギア 天使大戦TRPG『ムーンレイカー』。
“我々は月に行くことを選択する”と、誰かが言った。
◆11.2km/s◆
青い空に上がったロケットを、今でも憶えている。
ぼくは小学校、彼女は中学校の、最後の冬。
卒業論文というほどのものではないけれど、卒業前にそれぞれ自由研究みたいなものを提出するのが慣例だった。
「誰より高く、ロケットを上げる」。
そんな大胆な言葉に違わず、ペットボトルロケットが描く軌跡の頂点近くで点火された火薬式の第二段は、真っ白い煙を引いてはるかな空に舞い上がっていく。
校舎の窓から顔を出す中学生も、校庭のフェンスに張り付いているぼくたち小学生も、首が痛くなるほどに空を見上げた。
真昼の月が、目の端に残る。
「点火確認。到達高度は……高度計を回収して確認します」
白い月のように、落ち着いた彼女の声は、歓声の中で不思議とはっきり聞こえた。
派手に喜ぶでも、無表情に取り澄ますでもなく、変な例えだけれど洗濯物を丁寧に畳むような声。
「回収だ、回収だ!」
気の早い連中は、小さな落下傘で地上に戻ってくるはずの高度計を見つけようと、全力で駆けだしていく。
それが計器を持って行くと引き替えてもらえるケーキ券(これが彼女の冗談なのかどうか、今でも確信がない。なんとなく、気づかずに天然でそうしたような気がするんだ)のためなんかでないことは、ぼくにも分かる。
もらえるのが石ころだろうが何だろうが、あのときの彼女のためならみんな裏山からどぶ川まで引っかき回しただろう。
でもぼくは、急にしんとなったその場で、金網一枚隔てた彼女を見つめていた。
静かに発射台を片付けていた彼女が、ふとぼくを見てにこりと笑い――次の瞬間、ぼくは先に走り出した連中を追い抜かしていた。
「――それで、けっきょく何メートルだったの?」
並んで歩く、家への道。
セーラー服姿の彼女の横を、ランドセルを背負って歩くのが少し気恥ずかしくなってきていたけれど、それももうすぐ終わりだ。
「秘密。でも、届けを出しておいてよかった、のは間違いないよ」
両手で大事そうに計器を抱きかかえて、彼女が微笑む。
高度二百メートルを超えるときは軍隊だか自治体だかに事前連絡すること、と決まっているらしいから、少なくともそれよりは高く上がったということだ。
普通なら、秘密にされてふくれるところだけど、ぼくは違う。
研究者同士は出し抜かれないように仕事の進み具合を秘密にすることがあると、前に聞かされたからだ。
もちろん本気ではないことは分かっているけど、そう言われると一人前のライバルとして彼女に認められている気がして、やけに胸が暖かくなる。
「あんなに高く上がったんだものね。あれなら、もし合衆国が結界をすり抜けてやってきても、一発でやっつけられるよ」
冷静に考えればそんなはずはないけれど、子供なんて単純なものだ。
少し前まで続いていたという戦争に煽られて、ぶんぶんと拳を振り回す。
そうして隣を見ると、彼女は、ふわりと立ち止まって困ったようにうつむいていた。
「やっぱり、そういうことだと思われる、かな」
歯車の外れた機械のように、ぼくの足が止まる。
別に、彼女が隣の家の養女だからといって、気にしたことはなかったつもりだ。
長い戦争のせいで、親を亡くした子供は小学校にも何人もいた。
だから彼女にだって怒りはあるだろうと思って、でも彼女の表情はそんなことを言っていなくて、ぼくは何も言えない。
「大人が、喜んで許可してくれたのは、そういうことだって分かる。分かるけど」
泣いてるわけじゃない。
ふるえているわけじゃない。
だからぼくは、彼女を待った。
「わたしは、そのためにロケットを作りたいわけじゃなくて」
「なら、どうして?」
そう言葉にしたかどうか、自信はない。
でも口にしていなかったとしても、それは何の問題でもなかった。
「――月に、届きたくて」
藍色になりかけた空に、真っ白い月が浮かんでいる。
まるでその白さに触れようとするように、彼女の右手が伸ばされる。
呼吸も忘れて、ぼくは彼女に見とれていた。
「月……?」
ぼくの言葉で、初めて自分の動作に気づいたように、あわてて手を下ろす。
恥ずかしいのか、少し顔が赤くなっていたけれど、ぼくは少しもおかしいとは思わなかった。
空を見上げていた意味が、ようやく分かったような気がした。
こほん、と咳払いをして、しっかりと高度計を持ち直して、彼女はまた歩き始めた。
「そう、月。本当なら、もう十年、いや、二十年も前に月に行っていてもいいはずなんだ。それだけの技術はあるもの。推進力も、計算力も、足りないことなんてない。なのに」
「ヤシマは鎖国してるし、合衆国じゃ、天使より高く飛ぶなんて許してなさそうだよね」
「いま、なんて?」
ふっと、彼女の声色が変わる。
といってもさっきとは違って、何か面白いことを考えはじめたときの、ぼくの大好きなほうにだ。
「ええと……ヤシマは鎖国してて、合衆国は天使より高く」
「それ!」
手を打ち合わせそうな勢いで、彼女が言う。
このときばかりは、彼女の手の中にある高度計をどこかにやってしまいたくなった――それがなければ、ぼくの両手を取ってくれそうな勢いだっただけに。
代わりになのか、くるりと一回転してスカートをひるがえし、彼女は言葉を続けた。
「天使より高く。それが標語なら、ロケットも続けさせてくれそうじゃない?」
こくこくと、ぼくはうなずいた。
今すぐにでも、月に飛んで行けそうだった。
その気持ちを手放したくなくて、黙ったままで彼女と並んで歩く。
そうしていると、家までの道はあっという間に過ぎてしまった。
冴えた月が、藍空からぼくらを見下ろしている。
「さてと、うちに寄っていかない? こんなにすぐ見つけてもらえるとは思ってなかったから、まだケーキは準備してないけど」
彼女の言葉になぜかぶりを振ったか、今では思い出せない。
家にランドセルを置いてくるとか、そんなちょっとした理由だったのだろう。
そしてそのくらいのことで、今が変わっていたとは思えない。
そのときに何かがあったわけではないのだから、合理的に考えれば当然だ。
……だが、それでも、私は後悔している。
◆For I Have Touched the Moon◆
ぼくは中学校、彼女は高校に通い始めて、それぞれの時間が過ぎていった。
彼女は天文部と理科部をかけもちして、ぼくはほとんど帰宅部のような文芸部で。
ちなみに、天使より高くというキャッチフレーズはあまり流行らなかった。
結界に覆われたヤシマでは、戦争は次第に過去のことになってきていたからだ。
それより、当面は夢物語にすぎないとしても、月に行くという言葉を直接投げかけたほうが少なくとも学校では受けがよかった。
当然のように呼ばれ始めたかぐや姫というあだ名も、からかうようなものではまったくなかった。
もっとも、古文の時間に竹取物語を読まされたりすると、彼女は男に無理難題を押しつけるような人じゃないのに、と思ったりはする。
むしろ自分が敢然と未知の大陸に船出して、若君たちが後ろを自然と追いかけてくるはずだ。
ただ、くっきりした目鼻立ちに長い黒髪、華奢な手足という容姿を見れば、姫というのも無理はなかったかもしれない。
中学校は三年、高校も三年。
同じ高校に合格しても、同じ時間に通うことはできない。
とはいってもやはり、彼女の後を追いかけられることが嬉しくて、ぼくははしゃいで彼女に言った。
「天文部と理科部、見てみたいな。誰に話を聞いたらいい? 本当なら――」
いつの間にか追い越してしまっていた彼女を、ちらりと振り返る。
夜空に浮かぶ月明かりで、彼女の顔はいつもよりもいっそう、白く冴えて見えた。
「って、今更しょうがないけど。飛び級はできなかったし、まさか留年してとも言えないし。大学で待っててよ、そのときこそ、留年しなくても大丈夫だから」
「ごめん」
言葉は、遠くで聞こえた。
彼女が立ち止まっていたからといって、そんな遠くに離れたはずはないのに。
両手を身体の前で握り合わせ、けれどその手の中には、今は何も掴んではいない。
あのときの高度計は、遠い街で錆びついていた。
「ごめん、って……」
「わたし、大学へは行かない。軍に入るから」
風でも吹けば、まだよかった。声をかき消す風はなく、ただしんしんと、冬の寒さがあたりを覆う。
「そんな、どうして? 戦争の道具じゃなくて、月へ行くロケットを作るって、今は戦いだってないし大学にも家から――」
風ではなく寒さで灯が消えるように、言葉が消える。
ぼくから目をそらすことなく、ただ、彼女はそこに立っていた。
軍が一番ロケットの技術も持っているとか、大学でもけっきょく軍事研究を避けられないとか、ぼくが思いつきそうな理由は口にもせずに、ただふるえて立っていた。
「どうして」
倒れるように、彼女が身を寄せる。
いつの間にか、ぼくのほうが背が高くなっていた。
「キミは……作りたいものを作ってね」
腕を回され、耳元に言葉が遺る。
我に返ったときにはもう、彼女の姿は見えなくなっていた。
それから、彼女は軍に入った。
はじめはもちろん整備兵だったということだけれど、呪法船団でパイロットを失ったアペルギアを動かして英雄になったと、新聞やニュースで見たことがある。
軌道を逸れたロケットは、推力があればあるほど目標を外れていくと、彼女は笑うだろうか。
養女だから、いろいろあったらしい。そう訳知り顔で言った奴と大喧嘩したことがあった。
そんな家庭ではなかったと思うし、私に何ができたのかは今でも分からない。
ただ、彼女の飛ぶ空だから――いま、私は戦場にいる。