プロローグ
春の風はやわらかく、教室のカーテンをふわりと揺らしていた。
誰かが笑い、誰かが話し、そして——誰かが、黙っている。
三年三組、教室の一番後ろの窓際。そこだけ、時間が止まったように空席があった。
佐伯悠人(さえき ゆうと)は、出席簿の名前に目を落とし、小さくため息を吐いた。
「……工藤、今日もか」
誰に言うでもない独り言。だが、それは毎日続いている彼の儀式のようなものだった。
工藤遥(くどう はるか)——
春の始業式の日にわずか数日だけ登校し、それきり教室に姿を見せていない少女。教師として、彼女をどう扱うべきか。指導の対象か、保護の対象か、それともただの「出席番号のひとつ」なのか。
佐伯はまだ、その答えを持っていなかった。
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第一章 沈黙の理由
遥はベッドの中で、天井を見つめていた。時計の針はとっくに八時を過ぎている。
制服は昨日から椅子の背にかけたまま、鞄にはノートも教科書も入っていない。
起き上がらなければ。
顔を洗って、朝ごはんを食べて、学校へ行くべきだ。
わかってる。頭ではわかってる。
でも、体が動かない。心が、怖がっている。
「……うるさいんだよ、全部……」
小さな声が、誰にも届かない部屋の中に溶けた。
彼女の中には、ずっと棘のように残っている言葉がある。
それは、笑い声と一緒に降ってきた、何気ないひとこと。
『また声ちっちゃいよー』
たったそれだけの言葉だった。
でもその瞬間、胸の奥でなにかが「パキッ」と音を立てて割れた。
声が出せなくなった。誰とも話したくなくなった。
教室が、世界で一番怖い場所になった。
以来、遥は学校に行っていない。
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その日の午後。
遥の家のインターホンが鳴った。
「……また先生」
母が呟く声が聞こえた。
ドアの向こうに立っていたのは、例の国語の先生。
佐伯先生という名前は覚えている。言葉の選び方が静かで、無理に笑わせたり、距離を詰めたりしないタイプの人だった。
玄関先に立った佐伯は、封筒を一つ差し出した。
「これは授業のプリントと、僕からの手紙です。急がなくていい。読みたくなったときに、読んでくれればいいから」
遥は無言で受け取った。
扉を閉めるまでのわずかな時間。
先生の目は、彼女の目をじっと見ていた。
見透かすようでもなく、同情するようでもなく——ただ、見守るように。
その夜、遥はベッドの中で封筒を開いた。
中には、淡いグリーンの便箋に、整った字で綴られた手紙が一通。
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> 遥さんへ
僕は君の声を、はっきりと覚えています。
あのとき君が読んでくれた詩の一節は、クラスのどの声よりもまっすぐでした。
誰かの言葉で傷つくことはあります。だけど、誰かの言葉で救われることもあります。
教室の窓から見える桜が、今日も綺麗でした。
君にも、見せてあげたかった。
また書きます。佐伯
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遥は、手紙を抱きしめるようにして眠った。
そして、夢の中で、教室の窓から桜を見ていた。
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→第二章へ続く