第二章 ふたりの距離
佐伯悠人は、自分が教師に向いていないのではないかと、時折思うことがある。
生徒をうまく励ませない。注意するときに、必要以上に言葉を選んでしまう。
冗談を交えてクラスを盛り上げる同僚たちを横目に、自分はいつも、静かに後ろからついていくような存在だった。
けれど、教員採用試験に受かったとき、彼はこう思った。
「誰かひとりの心に届けば、それでいい」と。
だからこそ、工藤遥という存在は、彼にとって特別だった。
初めて彼女の声を聞いたのは、始業式から三日目の授業だった。
「じゃあ、この詩を読んでくれるかな?」
佐伯は教室の雰囲気を見ながら、慎重に遥に声をかけた。
遥はほんの少し顔を上げ、手の中の国語の教科書を見つめたまま、静かに詩を読み始めた。
その声は、かすかだった。
けれど、まるで紙の上の言葉が、彼女の心の中を通って、音になって出てきたような深さがあった。
あのとき、佐伯は確かに思った。
「この子の中には、言葉を信じる気持ちがある」と。
だが、その翌日を境に、遥は来なくなった。
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夏が近づいてきたある日。佐伯は、いつものように遥の家を訪れた。
この日は少し違った。
玄関の前に出てきたのは、遥の母親だった。
やや痩せた体つきに、眼鏡をかけた真面目そうな人だ。
「先生、いつもありがとうございます。……でも、あの子は、もう学校に行く気がないみたいで……」
「そうですか……」
「先生には感謝しています。でも、もう……そっとしておいてやってもらえませんか。無理に引っ張り出すのは、逆効果じゃないかと思うんです」
佐伯は黙ってうなずいた。彼女の言葉は、親としての正直な気持ちだろう。
「最後に、これだけ渡してもらえませんか。本人に読んでもらえなくても構いませんから」
佐伯は、また手紙を渡した。何も答えを期待せずに。
だが、三日後。
職員室の机に、一通の封筒が届いた。
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封筒の中には、遥からの返事が入っていた。
> 佐伯先生へ
先生の手紙、読みました。
桜の花は見られなかったけど、先生の書いた言葉を読んで、少しだけ思い出しました。
教室の窓から春の空を見るのが、好きだったこと。
声が出せなくても、気持ちだけはまだ、少し残っているみたいです。
だから、もう少しだけ手紙を続けてもいいですか。
今はまだ行けないけれど、先生が書いてくれると、少しだけ、学校が怖くなくなる気がします。
——工藤遥
佐伯は、手紙を胸に当ててしばらく目を閉じた。
「……ありがとう。よく書いてくれたね」
彼の中で、教師としての何かが静かに震えた。
遥はまだ、心を閉ざしてはいなかった。
言葉で傷ついた彼女が、今また、言葉を使って外の世界と繋がろうとしている。
その夜、佐伯は机に向かい、返事を書き始めた。
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> 遥さんへ
手紙、とても嬉しく読みました。
君が“学校が怖くなくなる気がする”と言ってくれたこと、何よりの言葉でした。
今は来なくてもいい。無理をする必要はありません。
でも、いつかまた、窓から春や夏の空を見られるようになったら、そのときは隣に僕がいます。
君が君のままでいてくれることが、何より嬉しいです。
——佐伯
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その夏、遥と佐伯の間には、たくさんの言葉が行き交った。
紙の上の文字だけが、お互いの心の声だった。
だが——ある日、遥の元に、ひとつの「現実」が届く。
それは、二学期の始まりと、新しいクラスの空気。
そして、彼女がかつて教室を飛び出した、**“あの声”**との再会だった。
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→第三章へ続く