第三章 また、教室で
八月の終わり。蝉の声が少しずつ遠ざかり、夜には涼しい風が窓から吹き込んでくるようになっていた。
遥は、自分の中に起きた“変化”をまだうまく言葉にできずにいた。
けれど、佐伯先生との手紙のやりとりは、まるで繭のように彼女の心を包んでいた。
外の世界に出てもいいのかもしれない。
そう思えるようになったのは、ある一通の手紙のおかげだった。
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> 遥さんへ
今日は、生徒たちに「自分にとって大切な言葉」をひとつずつ発表してもらいました。
ある生徒が言ったのは——「自分のペースでいいよ」という言葉でした。
僕も、君にその言葉を贈ります。
新学期が始まるけれど、君のペースで歩いてきてくれたら、それでいい。
君が歩き出したそのとき、僕は、ちゃんとそこにいます。
——佐伯
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遥は、窓を少しだけ開けて、風を受けながら手紙を読み終えた。
「……自分の、ペースで……」
呟いてみると、その言葉はとても静かで、でも温かかった。
翌日、彼女は制服に袖を通した。
鏡の中の自分は、少し髪が伸びていて、少し大人びて見えた。
呼吸を整える。心臓の音を聞く。怖くないわけじゃない。でも、もう一度、歩き出したいと思った。
母の驚いた表情を横目に、遥は玄関のドアを開けた。
蝉の声の残り香の中、彼女の足音が、久しぶりにアスファルトを叩いた。
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始業式の朝。佐伯は、いつも通り教室で生徒たちを迎えていた。
「おはようございまーす!」
「うわー、久しぶりに教室の匂い……くさっ!」
生徒たちの声が戻ってきていた。教室に、また日常が戻り始めていた。
そして——
扉が静かに開いた。
「……おはようございます」
その声に、佐伯は振り返った。
教室の後ろ、窓際の席。
そこに、遥が立っていた。
髪を短く切り揃えた彼女は、教科書を胸に抱えていた。顔は少しこわばっていたが、目はまっすぐ前を向いていた。
ざわ……と、教室の空気が一瞬だけ揺れた。
遥は、静かに席に向かって歩き始めた。
誰も何も言わない。けれど、その沈黙が彼女にはいちばん怖いものだった。
「……おかえり、工藤さん」
佐伯が言った。
その言葉が、まるで合図だったように、クラスの数人が顔を上げた。
「……あ、久しぶり」
「元気だった?」
男子生徒が、少し照れくさそうに声をかける。女子たちもちらちらと視線を送り、ある子が小さく笑った。
「席、ここだよ。机、ちゃんとあるから」
遥は、胸の中で何かがほどける音を聞いた。
怖さも、緊張も、全部なくなったわけじゃない。
でも、今この瞬間、少しだけ「戻ってきてよかった」と思えた。
座った自分の机の上には、夏休みの課題プリントと、折り紙で作られた小さな鶴が置かれていた。
そして、一枚のメモが添えられていた。
> 「がんばらなくていいから、また話そう」——佐伯
遥は、小さく笑った。
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教室の窓の外では、季節がひとつ変わろうとしていた。
けれど、教室の中には、これから始まる小さな再出発が、静かに息づいていた。
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→第四章へ続く