第五章 ことばの展示会
十月の風は、夏の熱気をすっかり運び去っていた。
文化祭の前日、校舎はどこか落ち着かない空気に包まれている。廊下を走る生徒たちの声、ガムテープのちぎれる音、段ボールの山。
その喧騒のなかで、遥はひとつの決断を胸に抱いていた。
自分の詩を、展示する。
誰かに見られるかもしれない。
誰かに笑われるかもしれない。
それでも、「見てほしい」と思えた。
それは、自分の心がようやく他人に触れる準備を始めた証だった。
---
文化祭当日。
「ことばの展示会」は、校舎の一角、図書室の隣の空き教室で開かれた。壁には、生徒たちの手書きの詩、物語、作文、日記が貼られていた。
思い出を綴った日記風の文章。家族への感謝を書いた作文。失恋について書かれた詩。どれもが、それぞれの“声”だった。
そして、その中に一枚だけ、無記名のまま貼られた詩があった。
---
『光の届く場所』
> 声を出せなかった日
世界は 耳をふさぎ
わたしの声を 置き去りにした
でも 手紙が届いて
その文字が そっと わたしの中に灯った
教室の窓から 見える空
あの日は ただ怖くて
今日は 少し きれいだった
まだ まぶしすぎる光は見えないけど
わたしの声が 誰かの中に届いたとき
きっとそこに——
光がある
---
佐伯は、その詩の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
——ああ、間違いない。
この言葉は、遥のものだ。
展示は匿名だったが、佐伯にはわかっていた。
彼女がどれほどの勇気を出して、この詩をここに貼ったか。
どれほどの時間をかけて、ここまで歩いてきたのか。
彼の胸の奥が、じんわりと熱くなった。
---
昼過ぎ。
展示を見に来ていた数人の生徒たちの間で、ひとつの詩が話題になっていた。
「あの『光』って詩、誰が書いたんだろう」
「なんか……すごく静かで、でも泣きそうになった」
「声が出せなかったってところ、自分にも分かる気がした」
遥は、遠くからその声を聞いていた。
教室の隅、観葉植物の陰に立って、そっと様子を見ていた。
その声が、嬉しかった。
名前を出さなくても、自分の言葉が誰かに届いていた。
“わたしの声が 誰かの中に届いたとき”
それが、今ここで起きていた。
遥は、思わず口元を手で押さえた。泣きそうになるのを堪えるために。
---
その日の終わり。
展示が撤収される直前、佐伯はそっと遥に声をかけた。
「見てくれた生徒、たくさんいたよ」
遥は小さく頷いた。
「……名前、出さなくてよかったって思った。でも、少しだけ言いたかった。“これ、わたしが書いた”って」
「それだけの気持ちが持てたことが、すごいんだ。……僕には、君の声がちゃんと届いたよ」
佐伯のその言葉に、遥はようやく笑った。
ほんとうの意味で、自然に、静かに。
---
夜。
遥はノートを開いて、次の詩の構想を練っていた。
頭の中に、言葉が湧いてくる。
痛みと、温かさと、風と光。
どれもが自分の中から出てきたもの。もう怖くない。
彼女の詩には、まだタイトルがついていなかった。
でも、これからつける予定だった。
『教室の真ん中に、光があった』
---
→第六章へ続く