彼女に出逢ったのは、高校の入学式を終え、1年間を共にする教室へと入った時だった。
昔からの仲であろうグループ。これから友達になるのであろうグループ。そんな者たちの中に、おれの居場所はなかった。「全く関係ない地域から引越してきた」という事実が、自らその中に入ることを拒んでいた。
寄る辺もなく、自席で独り。窓の外に目を遣っていれば、それだけでよかった。そんな時、おれの隣席に、緑髪の少女が腰を下ろした。彼女は騒がしい連中に加わることなく、難しそうな本を取り出し、静かに読み始める。
彼女の周りだけ、静寂に満たされていた。それを乱すのは、細い指がページを捲る音だけ。その音が、やけに心地よかった。
だからだろうか。おれはいつしか、彼女の横顔を見つめていた。正直、可愛いと思った。そんなおれの視線に気づいたのか、彼女は本から目を離し、こちらを向いた。
目が合う。慌てて視線を逸らそうとするも、その澄んだ瞳に吸い込まれる。
数瞬ののち、少女が口を開く。
「どうしたんですか?」
その一言に、慌ててしまう。
「あ、いや。本、好きなのかなって」
「はい」
頷く彼女。そして、彼女はこう続けた。
「よかったら、読みますか?」
「おれは……本は、あんまり読まないんだ」
「そう、ですか」
そして、再び視線を本に落とす少女。しかしすぐにまた顔を上げ、訊いてくる。
「あなたの名前は?」
「え?」
「初めまして、ですよね」
「あー……そうだな。おれは
「わたしは、東風谷 早苗。……光くん。これから、よろしくね」
そう言って、東風谷は、初めて笑った。
諏訪の地での学生生活が始まり、1か月ほどが経った。幸いにして、おれの学校内での交友関係は、ある程度の広がりを見せていた。東風谷は、相変わらずだった。いつも静かに本を読んでいて、誰かと話しているところなど見たことがない。たまにおれから声をかけることはあるが、本当にその程度だった。
東風谷との関係は、変わらないまま。「ただのクラスメイト」。それ以上でも以下でもない。そんな関係にどこか心地よさを感じていたのかもしれない。しかし同時に、もどかしさも感じていた。おれは単純なもので、恐らく好意と呼べる気持ちを抱いていた。岡谷へ転居してから、初めて言葉を交わした身内以外の人が東風谷だった。初対面で、思わず見惚れてしまったくらいの美少女。それでいて、他人を寄せ付けないような、不思議な雰囲気。そんな異性に、心が揺れても仕方がなかった。
日を重ねるごとに、それは少しずつ強くなって。しかし東風谷に伝えることは、どうしても憚られた。出逢ってひと月の男がいきなり言い寄ったところで、困惑させるだけだろう。それだけならマシで、この淡い関係すら壊してしまうかもしれない。そんな思いが、おれの口を封じていた。
放課後、おれは独り、教室に残っていた。担任から呼び出しを受けて多少の面談をした後、まだ慣れない日直の仕事を片付けた時にはもう、おれだけになっていた。
そろそろ帰ろうかと席を立った時、教室の扉の向こうに、東風谷の姿を認めた。
「東風谷!」
「えっ?」
思わず、声をかけてしまった。東風谷は振り向き、おれを見て驚いたような顔をする。しかしすぐにいつものふわっとした表情に戻った彼女は、おれに訊いてきた。
「どうしたんですか? もう、みんな帰ってますよ」
「それは、東風谷だって同じだろ」
そんなおれの返答に、彼女は少し困ったような表情をする。そして、こう続けた。
「図書室に本を借りに行ったんですが……寝ちゃってたみたいで」
彼女の手には、数冊の本が握られていた。
「疲れてたのかもな。おれは先生に呼ばれて、やっと日直の仕事が終わったところだよ」
「そういえば、光くんは日直でしたね。お疲れさまです」
そんな、何気ない会話。それだけで、おれは満足だった。
教室の窓から差し込む西陽はどこか寂し気で、おれの生まれた地では見たことがなかったくらい、美しかった。
「綺麗ですね」
東風谷が呟くように言う。おれもそれに同調した。
彼女が隣に居るだけで、世界が鮮やかに映る。
「そういえばさ」
この時間を、少しでも長く続けていたい。そのための話題を探そうとして、おれは言った。
「東風谷は、何か好きなことってある?」
おれの質問に彼女は首を傾げる。そしてしばらく考えてから、おれに訊き返してきた。
「光くんは、何かありますか? その……好きなことは」
同じ質問が返ってくるとは思わず、面を食らう。そんなおれの様子を見て、東風谷が少し笑った。
「おれ? おれは、独り旅かな。電車に乗って、遠くへ行って。まだ知らないものを見て、写真を撮って。……そういうのが、結構好きなんだ」
「すごい。大人ですね」
「そんなことないよ。ほとんど移動してるだけだし」
「ひとり旅……旅か……いいなぁ。わたしは家の関係で、あまり遠くには行けないから」
そう語る東風谷の声のトーンは、少しだけ下がったように聞こえた。それを誤魔化すように、明るく繕って言う。
「わたしは、本を読むのが好きです。色々な世界を、知ることができるから。わたしひとりでは、絶対に知ることができなかった世界を」
東風谷は、窓の外へ視線を投げる。その目は、ここではない、どこか遠くを見ていた。
「光くん。もしよかったら、今度旅の話を聞かせてくれませんか」
「もちろん。と言っても、まだそんなに多くないけど」
そうして、おれたちは笑い合う。
「じゃあ、わたしは帰りますね」
東風谷はそう言って、荷物をまとめて歩き出す。そんな彼女を、呼び止めた。
「東風谷。その……よかったら、一緒に帰らない?」
おれの言葉で、彼女の足が止まる。そして振り返り、微笑んで言った。
「はい」
紅い夕焼けに照らされたその笑顔が、とても眩しくて。おれはもう、きっと恋に落ちていた。
東風谷と並んで、最近の旅の話をしながら歩いた。彼女はおれの話を興味深そうに聞きながら、時折質問を投げかけてくる。そんな時間が、とても心地よかった。
諏訪湖の周りに敷かれた道を歩いて、天竜川に沿って少し上り、公園で一休み。短い距離でも、女子と2人きりというのは緊張するものだ。それが、秘めた想いを寄せる相手ともなれば猶更である。
「光くんの家は、どの辺りなんですか?」
「おれの家? 湊の4丁目……って、分かるかな」
東風谷が訊いてきたことに、おれは答える。別に隠すほどのことでもないと思った。
「逆方向じゃないですか! ごめんなさい、こんなところまで」
「いいんだよ、誘ったのはおれだから。諏訪湖から離れた時に、逆だなーとは思ってたけど。……東風谷は?」
「……わたしの家まで、ついて来ようとしてますね?」
東風谷は冗談めかして言う。
「ダメか」
「だめです。そろそろ暗くなりますし、早く帰った方がいいですよ。家の人も心配すると思います」
早苗の真っ当な指摘に、堪らず苦笑いで応える。ただ、もっと一緒に居たいと思っているだけなのだが、もうそんなことを言えるはずもない。
「東風谷。よかったら、明日も一緒に……いいかな」
おれがどうにか紡いだ、不器用な言葉。東風谷は軽く周囲を見回してから、声を潜めて答える。
「この辺りまでで、よければ。でも……大丈夫なんですか?」
「何が?」
「光くんの家がちょっと遠いのもありますが、変なウワサとか、立たないかなって」
今日はもう誰も居なかったが、男女が帰りを共にしている様子を見咎められたならば、「交際しているのか」なんて噂されることもあるだろう。おれとしてはむしろ都合がよく――いや、今はそんなことを考えるのはやめよう。
「嫌だったら、無理にとは言わないよ」
「……別に、嫌じゃないですけど。では、また明日」
そう言って小さく手を振ると、東風谷は歩いて行った。おれはその後ろ姿を見送ってから、自らの住処への道を辿る。
――嫌じゃない、か。
東風谷の一言を思い出して、顔が熱くなるのを感じる。彼女がどう思っているかは分からないが、一歩前進、だろうか。そんなことを考えているうちに、気が付けば自宅の前に着いていた。
翌日も、その次の日も、おれと東風谷は一緒に下校した。他愛もない話をしながら、短い距離を歩くだけだが、それでも十分すぎるくらい幸せな時間だった。クラスメイトには内緒で、携帯電話の連絡先を交換した。日を追うごとに、少しずつ彼女と親しくなれているような気がした。おれはもう、彼女の虜になっていた。もっと近づきたい。もっと知りたい。いつしか、そんな欲求が胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
その一方で、相変わらず、今の関係が壊れてしまうことへの恐怖もあった。「告白」なんて手段に出る勇気はなく、おれは曖昧なままの関係を続けることを選んでいた。昼休みの終わり際、廊下ですれ違った東風谷と目が合うと、彼女は小さく手を振ってくれた。東風谷の些細な行動一つにも、胸が跳ねる自分がいる。東風谷が見せる笑顔の意味を、考えてしまう。期待してしまう。おれと彼女が同じ想いを抱いているのではないか。烏滸がましくも、そんな根拠のない希望が頭を過る。けれど、おれはその感情を押さえ込んだ。勘違いをしたまま踏み込んで、傷つきたくなかったから。
だから、今のままでいいと自分に言い聞かせていた。
そうやって日々を過ごしていたある日のこと。帰り支度をしていたある時、クラスメイトの宮沢が声をかけてきた。
宮沢は、クラスの中心グループにいるような男子生徒で、早いうちから、おれにもよく話しかけてくれていた。今では、友人と呼んでも差し支えない仲だ。そんな彼は、内緒話をするかのように、おれの耳元へ顔を寄せて言う。
「お前、東風谷のこと好きだろ?」
宮沢から唐突に投げられた問いに、言葉が出なかった。なんと答えるべきかわからず、視線も泳ぐ。
「な、何だよ急に」
「とぼけんなって。よく一緒に帰ってるじゃん」
「それは……たまたま帰る方向が同じだけだよ」
「あ、そ。まーいいけどさ」
宮沢が、おれの肩をポンと叩く。そして、少し声を落として続ける。
「あんまり、大きな声では言えないんだけど。東風谷には、あまり近付かない方がいいよ」
「は?」
「俺さ、東風谷と小中同じだったんだ。小学校の時、何かあると、よく神様に言いつけてやる、とか言ってたらしくて」
「それが、どうしたってんだ? 別に――」
「言われたやつが、高熱を出したり、怪我したり……とにかく、あいつに関わると何か起こるんだよ。まるで“祟り”みたいに」
「……」
「東風谷の家、神社なんだ。だから、ちょっと怖いんだよ」
そう言って、宮沢はおれから離れる。そして去り際に、小さく耳打ちした。
「ま、俺は全部偶然だと思ってるけど。もしかしたら……な」
おれは返事ができず、黙って宮沢を見送った。頭の中では、彼の言ったことが澱のように沈んでいた。「神様に言いつける」だなんて、考えてみれば、確かに異質な響きではある。そして、“祟り”。思い返せば、彼女と話す機会を持とうとする者は少なく、どこか孤立している印象があった。
果たして東風谷は、本当にそんな訳の分からない力を持っているのか? それとも宮沢が大袈裟に言っているだけなのか? おれが見た彼女の姿は、それこそ高校へ入学してからの、ほんの僅かな期間に過ぎないのだ。
おれは、東風谷 早苗という人間のことを、何も知らない。
宮沢と入れ違いになる形で、東風谷が教室に戻ってきた。彼女はおれに気付くと、笑みを零す。その笑顔がどこか悲しげだったのを、見逃さなかった。
「光くん」
東風谷が、いつもより弱い声で話しかけてくる。おれは努めて平静を作り、言葉を返す。
「どうした?」
彼女は少し俯き、小さく呟くような調子で言った。
「私のこと、何か言われましたか?」
「え?」
思わず、動揺が表に出る。
「やっぱり、言われたんですね」
「……」
「光くんは気にしないでください。全部、わたしの所為なので」
何がだよ。そう言ってやりたかった。おれは、何も知らないのだ。東風谷のことも、彼女の家のことも。だから、気にするなとも大丈夫とも言うことができなかった。
今すぐにでも聞きたいことはたくさんあったが、おれはどうにか、それらを全て呑み込んだ。
「今日は、帰ります」
東風谷はそう言って、背を向ける。おれには、ただ彼女の後ろ姿を見ていることしかできなかった。
次の日。東風谷は、学校を休んだ。
欠席の理由は、誰も知らなかった。
休み時間、クラスの皆に隠れて携帯電話を開き、東風谷から教えてもらった番号を打ち込んで。数秒それを眺めて、画面を閉じた。彼女に拒絶されたらと思うと、怖かった。
きっとメールでもよかったのだけれど、文字だけでは、おれの胸の内を上手く伝えられないような気がした。
授業にも身が入らず、気付けば放課後になっていて。
悶々とした気持ちのまま、土曜日を迎えた。