実際に起きた災害なので念のため注意書き。
2006年7月18日。半袖の制服に、ほんの少しの肌寒さを感じる朝。窓の外に目を遣れば、鉛のような空が広がり、諏訪湖は薄暗い灰色に濡れている。昨日から降り続く雨は、一向に止む気配がない。湿った空気が肌に纏わりつくようで、少し不快だった。
気怠い身体を起こし、欠伸をひとつ。手短に朝の支度を整えた。洗顔と歯磨きを済ませ、制服に袖を通す。鏡に映る顔は、いつも通り冴えない。
雨天のため、守矢神社までは行かず、釜口水門の前で合流する旨のメールを早苗に送る。すぐに携帯電話が震えた。画面を見ると、早苗からの返信が表示されている。
『分かりました。気を付けて来てくださいね(*^-^*)』
可愛らしい顔文字付きのメッセージに、少し気分が晴れる。早苗の存在が、いつもおれの心を温めてくれる。
小さく息を吐いて、傘を手に取り、玄関に向かった。一歩外に出ると、アスファルトを叩く雨音が激しく耳を打った。傘を開き、歩き出す。小柄な傘では到底防ぎきれない雨粒が、肩を濡らしていく。靴の中で靴下が湿っていく不快感。それでも、早苗の顔を一目見ることができれば、そんな憂鬱は一瞬で払拭されるに違いない。
釜口水門前の公園に辿り着くと、既に早苗の姿があった。やはり制服だけでは寒いのか、カーディガンを1枚羽織っている。傘を差して佇む彼女は、そこだけ世界から切り取られた一枚の絵画のように美しい。近付くと、早苗は陽だまりのような笑顔を浮かべた。
「おはようございます、光くんっ」
「おはよう、早苗。待たせてごめん」
「いえ、今来たばかりですから」
挨拶を交わし、並んで歩き出す。天竜川へと注ぐ水は轟音を立て、濁った流れを形作っていた。いつにも増して水量は多く、水門を兼ねた橋の上には、水飛沫が容赦なく降り注ぐ。
早苗の指が、おれの手首を小さく摘まむ。雨に濡れて冷えた指先。彼女の手を取り、指を絡めて繋ぎ直した。早苗は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに頬を緩めた。お互いの体温を分け合って、温もりを感じ合う。風に煽られた雨粒が傘の縁から入り込んで、繋いだ手を濡らしていく。おれたちは手を離さず、指を強く絡めあったまま、ゆっくりと歩を進めた。
「すごい雨ですね。何も起きなければ、いいんですけど」
早苗が言う。言った気がする。傘を叩く雨音に阻まれて、よく聞き取れない。おれは彼女の手を引き、より近くへと寄せる。
「ごめん、雨の音で聞こえにくくて」
「いえ、なんでもないです」
何故か、早苗は不安そうに俯いた。どうしたのか、と訊ねようとすると、彼女は顔を上げ、努めて明るい声を出した。
「やっぱり、夏は晴れている方がいいですよね」
「え? あ、あぁ。夏に限らず、おれは晴れてる方がいいよ。旅先で雨が降るのは、ちょっと」
「……一緒に旅行、行きたいです。あなたと、色んな景色を見てみたい」
「うん。いつか、一緒に行こうな」
そう答えた時、突如けたたましいサイレンが鳴り響く。早苗が身体を震わせ、おれの腕を両手でぎゅっと掴む。思わず、早苗をかばうように抱きしめた。彼女の傘が落ちる。腕の中で、早苗の心臓が激しく脈打っているのを感じた。彼女を宥めるために、そっと背中を撫でる。早苗は周りの目を気にすることもなく、おれのワイシャツを握りしめて、震えを抑えようとしていた。――後で知った話だが、そのサイレンは、水門から天竜川へと放流される水の量が増すことを周知するものだったらしい。
やがて早苗は落ち着きを取り戻し、顔を上げた。雨か涙か、その頬が濡れている。おれは傘を差し掛けて、早苗の手を握る。早苗も弱々しく握り返してきた。
「……ごめんなさい」
彼女の声は、僅かに震えている。
「いや。おれも吃驚した」
早苗は深く息を吐き出すと、小さく頷いた。繋いだ手は、より強く握りしめられていた。
おれたちは無言で、また歩き出す。雨は依然として強く降り続いている。校門前に到着した時、早苗はようやく平常心を取り戻したようだった。しかし、どこか怯えたような表情をしていた。
「何かあったら、おれのとこに来ていいからな」
「ありがとうございます。大丈夫です。きっと……大丈夫です」
最後の一言は、おれに対してというより、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
自らの教室に入ると、中ではクラスメイトがめいめいに会話をしていた。大体は、この雨のことについてだった。休校にならなかったことへの恨み節。湖を挟んだ諏訪市の方では、一部が浸水したらしいとの噂話。おれは自分の席に向かうと、リュックサックを下ろし、机に肘をついてぼんやりと早苗のことを考えていた。
授業中、早苗のことが気になって仕方がなかった。教師の話も、黒板の文字も、何も頭に入ってこない。朝の怯えたような表情が、頭から離れない。――「風祝」だから、何か感じることがあるのだろうか。ただ、漠然とした不安だけが胸に巣食っていた。
降りしきる雨は、次第にその強さを増していた。昼休みを過ぎ、午後の授業の頃には、昨日の朝と同じくらい、外に出ることを躊躇したくなる豪雨と化していた。行きはよいよい、帰りはお終い。そんな下らない語句が脳裏を過り、独り苦笑する。冗談じゃない。
放課後、いつものように早苗を迎えに行く。教室は、既に人もまばらだった。早苗は窓際に立ち、外を見ていた。憂いを帯びたような横顔。呼び掛けると、早苗はハッとしたようにこちらへ顔を向けた。その顔は、雨に濡れた花弁のように、どこか儚げだった。
「帰ろうか、早苗」
「はい」
その声は、いつもの弾むようなものではなく、沈んだ響きをしていた。
昇降口に着くと、早苗は自分の靴箱を開ける。その動作にも、どことなく覇気が感じられない。傘立てから自分の傘を取り出し、早苗を待つ。だが、彼女はなかなか動かない。
「どうした?」
「……すいません。少し、考え事をしていました」
早苗は慌てて傘を手に取り、こちらへ駆けてきた。その足取りも、いつもより重い。
降り止まない雨の中、ふたりで歩く。傘を叩く雨音だけが、耳朶を打つ。早苗の隣にいても、妙な距離を感じていた。おれから何か話しかけようとしても、適切な言葉が見つからない。ただ、沈黙が雨音に掻き消されていく。地面に打ち付けた雨粒が跳ね返り、ズボンの裾を濡らす。泥水が飛んで、スニーカーを汚していく。
水門を流れる水はかなりの勢いで、危険を感じるほどだった。これを管理しているらしい施設の、屋根のある階段で雨宿りをする。おれはそこでようやく、早苗の表情を窺うことができた。彼女は俯いて、手元の傘の先端を見つめている。その瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「何かあったのか?」
「……」
問いかけには応じず、早苗はただ、おれの腕に自分の腕を絡めてきた。彼女の震えを少しでも鎮めようと、おれは早苗の身体を引き寄せた。
「こんな雨、初めてです」
「凄い雨だよな。おれも初めてだ。友達が、諏訪市の方で川が溢れたらしい、って言ってた」
「…………」
早苗は何も言わず、おれの腕を掴む手に、少し力が入った。彼女を抱きしめる。少しでも安心させられるように。
「光くん、その――」
「ん?」
「……いえ」
何かを言いかけては飲み込む、そんな様子が見て取れた。早苗の震える肩をそっと抱き寄せると、彼女はおれの胸に顔を埋めた。その温もりが、この激しい雨の中で、唯一の救いだった。
しばらくして、早苗は意を決したように顔を上げる。
「わたし、そろそろ帰ります」
「分かった。気を付けてね」
「はい。あなたも……どうかお気を付けて」
早苗の背中が、雨に溶けるように、見えなくなっていく。おれはそれを、ただ見送ることしかできなかった。
その日の夜。自室のベッドに寝転がり、携帯電話の画面を見つめる。早苗からのメッセージはない。こちらから送ろうかと考えてみるも、何を送るべきか分からず、結局画面を閉じる。窓の外では、依然として激しすぎる雨音が響いていた。時折、雷鳴が遠くで轟く。
21時になろうかという頃、不意に携帯電話に着信が入る。ディスプレイに表示された名前を見て、心臓が跳ねた。早苗だ。何かあったのかと、慌てて電話に出る。
「もしもし、早苗?」
『……ごめんなさい、こんな時間に電話してしまって』
早苗の声は、下校の時に似た、少し沈んだ調子だった。
「全然平気だけど……何かあったのか?」
『今から、神社に来ていただけないでしょうか』
その言葉に、胸がざわつく。ただ事ではない予感がした。
窓の外に目を遣ると、雨は激しく、ほとんど嵐のようだ。正直、外に出たくなかった。しかし、断るという選択肢もなかった。今、早苗の元へ行かなければならないと。行かなければ、きっと後悔すると思った。
「分かった。急いで行くよ」
『ありがとうございます。待ってます』
通話を切り、外出の準備をする。朝まで帰らない可能性を考えて、教科書と生乾きの制服、替えの肌着に、普段は着ない寝間着をリュックへ詰め込む。
レインコートを羽織って玄関を出ると、世界は雨の匂いで満ちていた。自転車を漕ぎ出すと、雨粒が顔を打つ。夜闇に白く煙る道。垣間見る諏訪湖の水位は、普段のそれに比べ、明らかに上昇している。冷たい風と雨が肌を刺し、前髪が額に貼り付く。それでも速度は落とさなかった。1分、1秒でも早く、早苗の元へ。そんな思いだけが、おれを突き動かしていた。
自転車を走らせている間、雨は不思議と小康状態にあった。小さな事故もなく、無事に守矢神社まで辿り着く。雨音に包まれた境内は、どこか不安を掻き立てる。
社務所のインターフォンを鳴らすと、部屋着姿の早苗が迎えてくれた。彼女は心なしか、疲れているように見える。レインコートを脱ぎ、招かれるまま、社務所の中へ足を踏み入れる。早苗はすぐにタオルを持って来てくれた。受け取り、髪と身体を拭く。
「ありがと」
「いえ。こんな中でお呼び立てしてしまって、すいません」
「いいんだ。おれも早苗に会いたかったから」
靴を脱いで上がると、早苗は、おれに抱きついてきた。優しくその背中に手を回す。冷え切ったおれの身体に、彼女の体温が混ざり合う。早苗の心臓の鼓動が、薄い服を通して伝わってくる。彼女は震えていた。今朝感じた不安が、より濃くなっているように見えた。
早苗に手を引かれ、居間へと足を運ぶ。彼女はさっと二人分のお茶を入れて、テーブルに湯呑みを置いてくれた。
淹れたての緑茶を口に含む。少し熱いが、身体が冷えていたので丁度良い。温かなお茶の香りが鼻腔を満たす。早苗はおれの横に腰を下ろして、自分の湯呑みで手を温めている。
雨音を掻き消すように、テレビからはニュースの音声が流れている。画面には、滝のような雨に打たれる、見覚えのある街の映像が映し出されていた。諏訪市では河川の氾濫も起きたとのこと。洪水が発生し、浸水した家屋の悲惨な光景。駅前の道路は水没し、避難勧告が出された地区も映し出される。僅かに感情の乗ったアナウンサーの声が、その惨状を淡々と伝えていた。
「雨、止みませんね」
早苗がぽつりと呟く。
――雨を降らせたり、嵐を鎮めたり。神様のような力を持ち、繁栄を司る『奇跡を呼ぶもの』――
いつか聞いた言葉が、脳内を駆ける。きっと早苗は、この災害を予期していた。少なくとも昨日の豪雨は、それを考えさせるには余りあるものだった。そして、きっと、何かしらの責任を感じているのだろう。今、彼女が何を思い、何を感じているのか。おれには推し量ることができない。
ただの人間であるおれにできるのは、早苗の隣に居ることだけだった。
「泊まっていくよ。この雨だし、時間も遅いし」
「……ごめんなさい」
「謝んなって。元々そのつもりで、寝間着と制服を持ってきてるんだ」
「……」
「今夜は、ずっと一緒に居るから」
「……はい」
早苗の肩を抱き寄せ、テレビを消した。雨音だけが響いている。彼女はおれの腕の中で、深く息を吐き出した。
長い時間、言葉も交わさず、寄り添い続けた。早苗の体温が、おれの身体に溶け込んでいく。触れ合う部分が熱を帯びていくのが分かる。彼女が少し身体を捩ると、柔らかな感触が伝わる。それを意識してしまうと、自然と鼓動が速くなり、頬が紅潮するのが分かった。
ふと、彼女が顔を上げる。目が合う。潤んだ瞳が、雨に濡れた硝子のようで。自然と彼女の唇にキスをしていた。少し塩辛くて、甘い味がした。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうだな。おれはここで寝るよ」
「一緒がいいです。……わたしの部屋で」
「えっ」
「今夜は、一緒に居てくれるんですよね」
早苗は拗ねたような、それでいて甘えるような声音で囁く。その蠱惑的な仕草に、心臓が激しく跳ねる。理性が崩れそうになるのを、必死に繋ぎ止める。
こうなるだろうというのを、全く想定していないわけではなかった。とはいえ、いざその場になると、身体が固まる。
「……分かった。歯磨きして、寝間着に着替えたら行くよ」
「はい」
「じゃあ、また後で」
早苗を見送って、リュックから着替えを出す。歯を磨き、寝間着に着替えて。早苗に一声かけてからトイレを済ませ、廊下に出る。向かうのは、この社務所の中で、未だ唯一知らない場所。
大きく深呼吸をしてから、扉を軽くノックすると、中から「どうぞ」と返事が聞こえた。
初めて足を踏み入れる、早苗の部屋。少し甘い匂いがした。長押には制服と巫女服が掛けられ、他に目を惹くものは特になく、小綺麗に整頓されていた。壁際には本棚があり、そこに様々なジャンルの書籍が並んでいる。漫画もいくつか見える。
そして敷かれたひと揃いの布団。枕は二つ。早苗は既に布団の上に腰を下ろしていた。薄いピンクのパジャマ姿。早苗と夜を明かすのは、年越しの時以来。普段とは違う、少し隙のある格好に、どうしようもなくドキドキする。一瞬だけ、“期待”をしてしまった。心は否応なく反応してしまうが、早苗がそういうことを求めていないのは、何となく理解していた。
早苗は、自分の隣を叩いて示す。促されるまま、彼女の横に腰を下ろした。肩が触れ合う距離。
「独りで眠るのは、心細くて。……あなたの所為です」
早苗がそう言って、顔を逸らす。
――あなたの所為。
そう、おれの所為。おれが早苗に恋をして。早苗がおれを選んでくれて。そうして、神様のような存在だった早苗を、きっと人間らしく変えた。
東風谷 早苗という女性を好きになったつもりで、彼女を何も知らなかった。去年の秋に、あの老婆から早苗の『役割』を知らされるまでは。「生きる世界が違う」。よく使われる言葉だ。同じ土地に住み、同じ場所に居るはずなのに、見ているものが違う。早苗はきっと、おれの目には見えていないものを、見ている。この手で、彼女を抱きしめることができるのに。すぐ傍で、言葉を交わすことができるのに。本当の意味で、寄り添うことができない。それが何よりもどかしかった。
早苗の肩をそっと抱き寄せる。彼女は抵抗することなく、おれに身体を預けてきた。柔らかな感触。温もり。早苗の心臓の鼓動が、おれの胸にまで伝わってくる。
「早苗」
「何ですか?」
「明日は、晴れるといいな」
「……はい」
「晴れたら、デートしようよ。学校休んでさ」
「休んじゃうんですか?」
「いいだろ、たまには。いつもみたいに湖でもいいし、ちょっと遠くに出掛けてもいい。晴れれば、何だって出来るよ」
「ふふっ。悪い人」
早苗がふわりと微笑む。その笑顔は、空気そのものを明るく照らしてくれる。
「それじゃあ、もう寝ようか」
「はい。おやすみなさい、光くん」
「おやすみ、早苗」
電気を消して、ふたりで布団に入る。同じ布団の中、肌が触れ合う距離に早苗がいる。彼女の体温、匂い、吐息。全てを感じる。
暗闇の中、早苗の小さな手を探し当てて握ると、彼女もしっかりと握り返してくれた。その手を、互いに離すまいと指を絡める。そして、胸の奥に潜む恐怖と戦うように、抱きしめ合った。
窓を叩く雨音が、耳を突く。心臓の音が、大きくなっていく。不安を打ち消すように、強く、強く。