目を覚ます。今は見慣れた、早苗の寝室の天井。おれを包む掛け布団には、愛する人の残り香。
枕元の携帯電話を開く。8月15日。とうとうこの日が来てしまった。おれが早苗の隣に立つことが許される、最後の日。
視線を動かすと、身支度を整え、巫女装束に着替える早苗の姿が映る。無防備に下着を晒しているのは、おれがまだ眠っていると思っているのか、それとも――。
起き上がり、軽く伸びをして、ゆっくり布団から出る。そうして早苗の傍に寄り、背後から優しく抱き締めた。彼女の胸の下あたりで、腕を重ねる。
「おはよう、早苗」
「おはようございます。今日は早起きですね」
「あぁ。何故か目が覚めちゃって」
「それなら、一緒に朝のお詣りに行きませんか?」
早苗の手が、おれの手に添えられる。その温かさが、もうすぐ消えてしまうことを知っているから、余計に切なく感じた。
そっと腕を解き、早苗の背中から離れる。彼女は振り返ると、ほんの僅かに頬を緩めた。
おれは昨日神社へ来た時の普段着で、早苗は巫女装束で。互いの手を握りながら、奥宮へ続く坂道を歩いていく。森に囲まれた参道を抜け、参拝者も居ない鳥居を潜り、苔むした石段を上りきると、眼前に静謐な空気を纏う社殿が姿を現した。
社務所から持ってきた供物を手に早苗は社殿の中へ入り、祭殿に設けられた扉を開ける。安置されているのは、守矢神社の御神体だろうか。戻ってきた彼女は、社殿の前に立ちおれを呼ぶ。
「拍手の後、わたしが祝詞を上げている間は、目を閉じていてくださいね」
早苗と並んで、二礼、二拍手。そうして手を合わせ、目を瞑る。すぐ傍で、早苗の声がする。嵐の夜に耳にしたものとは異なる、落ち着いた声色。瞼の裏には、早苗との日々が浮かぶ。
おれの願いは、きっと届かない。愛する人と、ずっと一緒に生きたい。それだけだったのに。神様とやらは、いつだって我儘で、人間のことなどお構いなしだ。ならばせめて、早苗が何処に行っても、元気で居られることを願おう。初めての恋。おれの総てを懸けて、共に歩みたいと思えた人。その人が、どうかずっと幸せで在りますように。心の中で呟きながら、祈り続けた。
そうして、短いような長いような時が流れて。祝詞が終わり、ふたりで拝礼をする。
「光くん。お手伝い、お願いしてもいいですか」
「手伝い? いいけど……何をすれば」
「ちょっと待っててください」
早苗は小走りで社殿の中へ向かい、やがて柱の陰から顔を覗かせる。
「こちらに来ていただけますか? 神様の赦しは得ていますので」
「いいのか? なら……失礼します」
「履き物は脱いで、上がってくださいね」
言われた通り、靴を脱いでから社殿の階を上がる。灯りはないものの、入口から射し込む光が優しく内部を照らしていた。木製の床を踏みしめる感触が、厳粛な印象を与える。
おれは早苗に導かれるまま、簡素な椅子に腰掛ける。そうして彼女が持ってきたのは、古いラジカセ。
「わたしが合図をしたら、再生ボタンを押してください」
「あ、あぁ。何をするんだ?」
「神様へ、神楽舞の奉納です」
早苗はおれに微笑むと、手に鈴を持ち、社殿の中央に立つ。彼女の右手が、上へ向けられる。小さく頷く。合図。おれは言われた通り、再生ボタンを押した。
静かに始まった厳かな音楽が、世界を満たす。緑髪の巫女が舞う。滑らかな動き、弧を描く鈴の軌跡。呼吸を忘れてしまいそうな程に、美しく荘厳な、神へ捧げる舞。守矢神社がこの地に創建されてから、現在に至るまで。その長い歳月に亘って、脈々と受け継がれてきた祈り。
神のための舞を、静かに観た。魅入られてしまったように、視線を外すことができなかった。装束に身を包み、舞い踊る“風祝”。神秘的で、清廉で。彼女が纏う雰囲気は、『神々しさ』と形容するに相応しかった。早苗の、きっと本来の姿――即ち、神に仕える巫女としての一面を、おれは今、この目に焼き付けている。
音楽が終わり、舞も終わる。早苗は深い拝礼をすると、おれの方へ向き直る。
「これが、この地で風祝として執り行う、最後の務めになります。見届けていただき、ありがとうございました」
早苗は穏やかな微笑みを向ける。その表情は、晴れやかと言うには翳りがあり、哀しげと表すには柔らかさがあった。
最後、なんて言わないでほしかった。けれどそれは、人の身には過ぎた願い。
舞台を降りた彼女は、おれの隣に腰を下ろす。
「光くんが初めて神社に来てくれた日のこと、憶えてますか?」
「忘れるわけないだろ。早苗と付き合い始めた、記念日なんだから」
「そうでしたね。……あの日、舞の練習をしている時、ずっとあなたのことが頭から離れなくて……正直、集中できなかったんです。わたし、風祝なんですけどね。あなたのことを想うと、いつだって普通の女の子になっちゃいます。だから、というわけではないですが、ちゃんとした神楽を、あなたの前で、舞いたかった」
「……すごく、綺麗だったよ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「神様には内緒で、ずっと見ていたいくらい」
「照れますね」
早苗の指が、おれの指を優しくなぞる。そして彼女の手が、そっとおれの手を包む。
「そろそろ、戻りましょう。お腹が空いちゃいました」
早苗に手を引かれて立ち上がり、この場所を後にする。靴を履いてから、もう一度、奥宮を振り返った。こじんまりとした社殿。きっともう、おれがここに来ることは――ない。
社務所に戻ってから、部屋着に着替えた早苗が朝食を作ってくれた。彼女の横で眺めていてもよかったのだが、手持ち無沙汰だったので、茶碗を用意したり、箸やお茶を運んだりした。
食卓には、焼き魚、卵焼き、味噌汁などが並ぶ。早苗とテーブルを挟んで座る。手を合わせて、いただきます、と言う。目が合って、どちらからともなく笑った。
「今日もありがとう」
「いえ。たくさん召し上がってくださいね」
早苗が作ってくれたものは、何だって美味しかった。味噌汁をひと口。その温かさが、じわりと身体に染み入る。「毎日味噌汁を作ってほしい」。その言葉がプロポーズに使われていた理由が、何となく理解できた気がした。箸を進めるたび、早苗への愛しさが募っていく。朝食を楽しみつつ、ちらりと彼女を見遣る。食事をする彼女の姿も、可愛かった。
朝食を終えて、片付けも済ませる。食後の緑茶を飲みながら、早苗を隣に呼ぶ。肩を寄せ合い、寄り添い合う。時折おれが早苗の髪を梳くように撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
心地良い時間。それは、別れが近いからこそ感じられる儚さに彩られていた。
今夜、諏訪湖の花火大会がある。――それが終われば、早苗はここから居なくなる。
「今日の花火なんだけどさ」
「はい」
「おれの家、来ない? 夜にやってる花火がいい感じに見えたからさ、きっと本番も綺麗だと思うんだ」
「……いいんですか?」
「去年みたいに湖畔でもいいんだけど……今日は、ふたりきりで見たい」
「光くんのお家、行きたいです」
早苗は、とても嬉しそうな笑顔をしながら、体重を預けてくる。その身体を優しく抱きしめ、鼻先に口付けをした。
守矢神社から我が家までは、歩いて1時間ほど掛かる。思い至ったのは、おれが神社まで乗ってきた自転車の存在。早苗を後ろに座らせて走れば、随分と楽に辿り着けるだろう。彼女にそれを提案すると、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
「それって、ふたり乗りですよね? 小説で読んだことがあります。実は、ちょっと憧れてて……本当に、いいんですか?」
「誰かを乗せて走ったことはないから、ちょっと怖いけど。早苗に怪我をさせたら、神様からどんな罰があるか分からないし。安全運転で行こう」
「はい。よろしくお願いしますっ」
早苗の笑顔に、釣られて笑みを零す。彼女の幸せそうな顔を見ていると、おれも幸せな気持ちになれた。
「どうしましょう。早めに行きますか? 夕方になると、花火を観る方で混み合いそうですし」
「そうだね。時間は早苗に合わせるよ。やることがあるなら、それが終わってからにしよう」
「……もう、やることは済んでいます。いつもは夕方に奥宮を閉めますが、今日は――――。なので、いつでも出られます」
「そっか。なら、行こうか」
「着替えてきますね」
早苗はそう言って、自分の部屋へ向かう。居間で待つことしばし。私服に身を包み、髪を三つ編みにした早苗が、おれの前まで来る。
「どうですか?」
「可愛い」
「ふふっ、ありがとうございます。初めてこういうことをしてみたので、上手くできたか自信はないのですが」
「すごく似合ってるよ」
「本当ですか? よかった」
早苗は照れ臭そうに笑い、顔の横で髪を弄る。その仕草すら愛おしい。
持ってきた少ない荷物をリュックサックに詰め、社務所を出る。「ただ今不在にしております」という紙を貼り、玄関の扉を施錠する早苗。見渡す限り、この場所に、おれたちを除いて人の姿はない。早苗は振り返り、拝殿に向かって一礼をした。つられておれも、頭を下げる。
彼女に道路に面した入口で待つよう伝えてから、自転車を社務所の駐輪場から出す。リュックサックを前籠に放り込んで迎えに行くと、早苗は所在なさげに、きょろきょろと辺りを見渡していた。
「後ろに乗って」
早苗は少し躊躇した後に、ぎこちない動きで自転車の荷台に座り、おれの腰に手を回した。愛する人の温もりが、背中に伝わる。高揚感と、僅かな緊張。早苗が肩に掛けていたポシェットを受け取り、籠に入れてから、ゆっくりペダルを踏み込む。
「大丈夫?」
「はい。あなたにくっついてますから!」
「しっかり摑まっててね」
「もちろんですっ」
背中越しに、彼女の弾んだ声が聴こえる。嬉しそうに声を上げる早苗。ぎゅ、と腰に回された腕に力が籠められる。更に強く早苗を感じながら、自転車を漕ぐ。湖へ向かう坂道を、重力に引かれて下る。
この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく
夏を象徴する有名なフレーズが、脳裏を爽やかに駆け抜ける。頭の中のBGMに合わせて、ゆったりとペダルを廻す。その歌は、こうも云っていた。「いつか君の泪が こぼれおちそうになったら 何もしてあげられないけど 少しでもそばにいるよ」。早苗が手の届かない場所へ行ってしまっても、二度と会えないのだとしても、おれは変わらず彼女を想い続けるだろう。心だけは、いつだって早苗の傍に居たい。忘れない。忘れたくない。忘れられるわけがない。
早苗を後方に乗せたまま、湖畔沿いの平坦な道を走る。少し前に大災害があったことを忘れてしまいそうなほど、静かな景色。湖の向こうでは、今日の花火大会の準備をしているだろう。今は未だ、人影は疎ら。陽が落ちる頃には、ここにも沢山の人で賑わう。道沿いには屋台が建てられつつあるが、未だ準備中。昨年の喧騒を知っているだけに、その静けさが心に沁みた。
幸せな時間は、飛ぶように過ぎて。或いは、それを惜しむが如く、ゆっくりと流れて。気付けば、見慣れた自宅の前に着いていた。緩やかに減速し、自転車を停める。
「着いたよ。……早苗?」
「――っ。はい、何でしょう?」
「着いたよ。おれの家」
地面に足を着いた早苗は、名残惜しそうにしながらも腕を解く。その顔には、何処か寂しげな表情が浮かんでいた。
「怖かった?」
「全然ですよ。とっても楽しかったです」
「なら良かった」
リュックサックを肩に掛けて自転車を降り、ガレージへ停めに行く。戻ってくると、早苗は湖の方を見ていた。
「さーなえっ」
愛する人の名を呼ぶ。早苗は、おれの方を見て、首を傾げる。
「どうしました?」
「いや、別に……呼びたくなっただけだよ」
「ふふっ。何ですか、光くん」
早苗はおれの手に、細い指を絡ませながら笑う。彼女の柔らかな微笑みは、いつだっておれの心を解きほぐす。
繋いだ手を引き、玄関へ向かう。鍵を差し込んで捻り、ドアを開けて早苗を招き入れた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい、早苗」
おれの声に応えて早苗が笑顔を浮かべると、その可愛らしさに、自然と頬が緩んでしまう。廊下を進み、リビングへ。
ソファーに座った早苗は、少し緊張したような面持ちでおれを見上げてきた。そんな彼女に向けて、微笑みかける。
「リラックスしていいよ。父さんは暫く帰ってこないし」
「でも……やっぱり緊張します。好きな人の家ですから」
早苗の表情が和らぐ。そうして彼女の隣に座り、肩を抱き寄せる。早苗は目を閉じ、おれの肩に頭を載せる。互いに触れ合う部分から伝わる、温もりと鼓動。
「早苗」
「はい」
おれは彼女の額にキスを落とす。早苗は小さく笑い、おれの頬に唇を押し当てた。
「光くん。愛してます」
「おれも。愛してるよ、早苗」
「本当に……好きです」
「うん」
「世界で一番、大好きです」
早苗は照れたようにはにかみながら、おれに身を寄せる。彼女の髪からは、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「ずっと、こうしていたいな」
早苗の細い指が、おれの手の甲を撫でる。
「……もし、
「どうだろう。早苗が“風祝”じゃなかったら……おれたち、出逢わなかったんじゃないかな。仮定の仮定みたいな話だから、よく分からないけど。そんな気がするよ」
「そう言っていただけると、ちょっと気持ちが楽になります。でも、そんなことを想像してしまうのは……なんだか、悔しいですね」
早苗は目を伏せ、何かに耐えるように唇を引き結ぶ。
おれはただ、彼女の身体を優しく包み込む。早苗の痛みも悲しみも、全てを共有したいから。
「光くん」
早苗がぽつりと呟く。声は僅かに震えていた。
「お願いがあるんです。あなたを悩ませて、苦しめてしまうかもしれない、最低の我儘。ううん。我儘なんてものじゃありません。あなたの大切な時間を奪ってしまう、わたしの勝手な欲望。……こんなことを願ってはいけない、分かっているのに……その、あの、だからっ、言わない方がいい、と思うのですけど」
「言っていいよ。早苗の全部を受け入れるって、決めてるから」
「…………忘れてほしくないです。ずっと憶えていてほしいです。世界が、わたしを――
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと、ってなんですか」
「言われなくても、最初からそのつもりだよ。“引越し”の話を聞いた時、早苗のことを忘れるなんてできるかよ、って思った。だって早苗は、おれの……世界で誰よりも大切な人だから。……約束する。神様にだって誓ってやるさ。おれは、早苗のことを忘れない」
早苗の目に、涙が浮かぶ。ぽろぽろと零れる滴。頬を伝うそれが、白い肌を濡らしていく。おれは指先で、優しく拭い取る。
「あなたに、渡したいものがあるんです」
早苗はポシェットから何かを取り出す。彼女が手にしていたのは、緑色の小さな袋に入った御守り。守矢神社のそれと似たような見た目だが、表面には何も記されていない。
「これは――」
「神様に内緒で作りました。わたしの想いを籠めた……あなたのための御守りです」
おれはそれを、大切に受け取る。そして早苗を見つめ返した。彼女は微笑み、小さく頷く。御守りを握る手に力を込め、そっと瞼を閉じた。掌に伝わる温もりが、心に染み込んでいく。
「ありがとう、早苗」
早苗を抱きしめ、唇を重ねる。二度、三度。熱い吐息が頬を擽る。触れて、離れて、また触れて。永遠を求めるように。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは早苗の潤んだ瞳。紅潮した頬と艶やかな唇。
「わたし、今。すごく幸せです」
「うん。おれも幸せ」
「でも、これ以上ないくらい幸せな時間が続いて……これからも続いてほしい、なんて……そう思うのは、我儘ですかね」
「そんなことない。……ずっと一緒になれたらいいのにって、いつまでも思ってるよ」
愛する人がそこに居るのを、確かめるように。手を繋ぎ、指を絡め、身を寄せ合って。どれだけ離れてしまったとしても、繋がっていたいと願いながら。ソファーの上で、ただ静かに互いの温もりを分け与える。部屋には、秒針の音だけが響いていた。