親は仕事で忙しく、一般的な休日を含め、家に居ることは少ない。学校が休みとなる日は、家を出て、独りカメラを片手に町を散策する日々を送っていた。目的は、強いて言うなら、新しい“故郷”に慣れるためか。知らないことを自らの足で確かめに行くということが好きで、これはその延長線上にあった。転居してきたばかりということもあって、自らの住む土地であるはずなのに、知らない景色があるというのが面白い。
決して一昨日に「東風谷の家が神社である」と吹き込まれたからではないが、今日は、まだ行ったことがない地元の神社へ向かうことにした。調べてみると、諏訪湖の周りには、諏訪大社という全国的に有名な神社がある。ただ、観光地としても人気が高いところだ。昼前から向かったならば、きっと混雑に揉まれ、静かな心持ちでの参拝は叶わない。
地図を見ていると、岡谷駅を出た線路が二手に分かれる場所の辺りに、守矢神社という神社があることを知った。その所在地は偶然にも、学校帰りに東風谷と別れる、あの公園の近くだった。
「まさかな」
誰に宛てるでもない声が漏れる。彼女がここに居るなんて確証はなかった。それでも何故か、ここへ行こう、行かなければいけないという衝動が湧いてきて。気が付いたら、財布とカメラだけを持って、家を飛び出していた。東風谷に会えるかもしれない。その可能性だけに背中を押されて。
諏訪湖沿いの道を歩き、高校への通学路とは逆方向へ曲がる。見慣れない道。そこに少しばかりの好奇心を覚えながら、歩みを進める足は止まらない。30分ほど経った頃。家々の並びの向こうに、趣を異にする木々の集まりが見える。そのまま石垣に囲まれた森を横目に進むと、道路に面した位置に、『守矢神社』と刻まれた石柱が立っていた。
手水舎の横にある階段から、境内に入る。鳥居を通った瞬間、すっ――と周囲の空気が変わったように感じる。喧騒から隔絶された空間に、石畳を歩く足音だけが溶けていく。拝殿の前に立ち、鈴を鳴らす。賽銭箱に5円玉をひとつ投げ入れて、ぎこちなく二礼二拍手。手を合わせて目を閉じる。神に縋るような願いなどはなかったが、強いて祈るならば……東風谷 早苗と、仲良くなれたらいいな、と。祈りを終えて最後に一礼。踵を返し、少し離れてから、拝殿にカメラを向け、シャッターを切った。境内を歩きながら、数枚の写真を撮る。街はずれと言うには少々栄えた場所ではあるが、それにしても静かすぎた。そしてその静寂が、妙な安心感をもたらしてくれる。
社務所と思しき建物へ御神籤を求めたが、あいにく“中の人”は不在のようだった。『ご用の方はベルを鳴らしてください』そんな張り紙があり、そのすぐ側に設置されていたベルを鳴らしてみたものの、反応はなし。さてどうしたものかと考え込んでいると、理由なく、この神社の先が気になった。オカルト的に言うなら、「呼ばれた気がした」とでも表すのだろう。――もし東風谷が居るなら、それはきっと――そんな予感。
拝殿の横から神社の敷地を出て、高速道路に設けられた無機質なポータルを抜ける。T字路を右へ、そして山肌に貼り付くような急坂へ。導かれるように、不思議と迷うことはなかった。
アスファルトの路面は、いつしか土へ変わり。人の営みから離れた自然の色合いが濃くなっていく。心地よい風が吹き抜けるたびに、木漏れ日が揺れる。鳥の鳴き声に混じり、小さな水音が聞こえるようになると、目の前に突如として湖が現れた。眼前に広がる静謐な水面は、空の青を反射し、その境を曖昧に溶かしていた。無意識のうちにカメラを構えて――静かに、それを下ろす。写真ごときでは切り取れないものを、目の当たりにしていた。
湖畔の道を進むと、苔むした石段を見つけた。上を見ると、鳥居の上半分だけが見える。おれは誘われるように足を運び、一段、また一段と登っていく。風に乗って、鈴のような音が微かに響く。神聖な空間へ踏み込むにつれ、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。息を整えながら階段を上りきると、そこには、先刻見た守矢神社の拝殿よりも、一回り小さい社殿があった。
社の前で、緑髪の少女が舞っていた。所謂「巫女さん」が身に着けるものとは色違いのような、白と青の装束。蛇と蛙の髪飾り。東風谷。そう声を掛けようとして、凛と響く錫杖の音に、思わず息を呑んだ。彼女はこちらに気付いているのかいないのか、ただ一心に舞い続ける。ゆったりとしなやかで――それでいて力強い演舞。幻想的な光景に、ただ見惚れていた。
一体どれほどの時間が経っただろうか。不意に、東風谷がこちらを振り返り、微笑む。それと同時に神楽も終わりを告げる。まるで夢から覚めたような感覚を覚えながら、おれはゆっくりと彼女に歩み寄る。
「こんにちは、光くん」
柔らかな声で東風谷が言った。おれがここに居ることを、知っていたかのように。舞の余韻か、あるいは彼女に何かが“降りている”のか。その佇まいは、神秘的でさえあった。
「あ、ああ、こんにちは。……今のは」
「……湖の方へ行きませんか? 神様の前で立ち話をするのは、あまりよくないので」
東風谷の申し出に頷き、彼女の後を付いて行く。手摺りのない、苔に濡れた急な石段を、東風谷から離れないように気を付けながら下りた。
彼女と共に、湖畔のベンチに腰掛ける。夏が近づいているとはいえ冷涼な山の風が、火照った体に心地良かった。
隣に座る東風谷は、遠くを見つめていた。おれは彼女の横顔を見ながら、何から聞くべきかを考える。しかし、適当な言葉が見つからないまま時間だけが過ぎる。
突然、東風谷が振り向いた。おれの目を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「驚きましたか」
それは疑問形ではなかった。確認のような声色だった。
「さっきのは、神楽、って云うんだっけ。すごく、綺麗だった」
「ありがとうございます。神様に奉納する、大切な舞なんですよ」
そう言って、東風谷は控えめに笑った。
「光くんは、今日、どうしてここに?」
「それは――」
東風谷の問いに、言葉が詰まる。本当のことを言えばいい。君に会いたかった、と。ただ、すぐには素直になれなくて。
そんなおれの逡巡を見透かしたかのように、東風谷は再び問いかける。
「わたしの家が神社だって、聞いたからですか?」
おれは頷くしかなかった。すると彼女は小さく息を吐き、やっぱり、と呟いた。
「あの公園から近い神社は、
「それは、まぁ……でも、ここまで登って来たのは、偶然っていうか……下でお参りした後、何となく山の上の方が気になって」
「……」
「……体調が良さそうで安心したよ。昨日、学校休んだだろ。クラスで理由を聞いても、誰も知らないみたいだったから」
おれは少し笑って見せる。それを聞いて、彼女は俯きがちに、
「心配かけて、ごめんなさい」
と小さく言った。
「学校を休んだのは、体調の所為ではなくて。神事の準備のために、一日だけ休ませてもらったんです。学校が終わってから少しずつ進めていたけど、どうしても間に合わなくて」
「もしかして、おれと一緒に帰ってたから?」
「それは……その」
東風谷は口籠りつつも肯定する。
その言葉に、胸が苦しくなるのを感じた。自分が迷惑をかけてしまっていたことに気付き、罪悪感が芽生える。東風谷を困らせたいわけではなかったのに。おれの身勝手な行動が、欲望が、彼女の負担になっていた。
東風谷の家が神社で、彼女にも神職としての役割があるのを知らなかったということは、免罪符にはならないだろう。自分の愚かさに腹が立った。
「ごめん。そんなつもりは、なかったんだ」
ただ、謝るしかなかった。
「光くん」
東風谷の優しい声。おれは顔を上げて彼女を見る。
「怒ってないです。一緒に帰る約束をしたのはわたしですから」
「だけど――」
「それに」
東風谷はそこで言葉を区切ると、少し躊躇いがちに続ける。
「それに……あなたが来た時、すごく、嬉しかったので」
彼女の言葉に、思考が停止する。嬉しかった? どういうことだろう。おれは迷惑をかけていたと思っていたのに。
困惑するおれに、東風谷は言葉を続ける。
「今日のための準備をしている間もずっと、光くんのことを考えていました。無事に家まで帰れたかなとか、明日も話せるかなとか。……今、何をしてるのかな、とか。そんなことばかり、考えてしまって」
彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らし、そしてまた真っ直ぐにおれを見る。その瞳は、わずかに潤んでいた。湖の青を宿したその瞳が、まっすぐにおれを捉える。
東風谷は言葉を紡ぎ続けた。その声は漣のようで。
「神楽を舞う時は、心を清めて神様へ意識を向けるものなのに――」
彼女は一度言葉を切り、少し照れ臭そうに微笑んだ。
「今日だけは。あなたのために、舞っているような気持ちでした」
脳裏に浮かぶ、舞の残像。風に流れる翠。凛とした立ち姿。錫杖の音。そして――彼女が纏う神聖さの中にあった、自分だけに向けられる特別な色。
神の従者たる、厳かで美しい"巫女"。今、目の前で静かに頬を染める"女の子"。そのどちらもが東風谷 早苗で、どちらもが心を掴んで離さない。彼女の言葉が静かに胸に染み渡っていく。紡がれた言葉の意味を考えようとすればするほど、熱を帯びていく胸の奥底。
お互いの視線が重なり合い、時が止まったように感じる。東風谷の唇が僅かに開き、震える声が洩れた。
「迷惑、でしたか」
おれは即座に首を横に振った。
「そんなことないよ!」
勢い余って声が大きくなってしまったが、気にせず続けた。
今、伝えなければならないことがある。届けなければならない想いがある。
「おれは、東風谷に会えるかもって……東風谷に会いたくて、ここに来たんだ」
必死に言葉を繋いだ。今まで押し込めていた感情が溢れ出す。
「宮沢が言ってた。東風谷に関わると、良くないことが起きるって。……おれが引っ越して来る前に、何があったのかは知らないよ。でもそんな噂、おれには関係ない」
風が止んだ。世界から雑音が消え、ただおれの言葉だけが響く。
「東風谷――いや、早苗。おれは、早苗のことが好きなんだ」
早苗の瞳が大きく見開かれ、息を呑む音が聞こえた。彼女の指先がかすかに震えているのが見えた。
「本当、ですか?」
微風のような声で、早苗は問い返した。おれは力強く頷く。
早苗の頬が桜色に染まり、瞼が伏せられる。その表情は、喜びと戸惑いと――恐らくは不安で、彩られていた。
おれは僅かに踏み出し、早苗の手を取る。驚いたように見上げる彼女の瞳を、真正面から見据えた。
「どうしようもないくらい、大好きなんだ。……おれと、付き合ってください」
握った早苗の指先から伝わる体温が、少し上がったように感じる。
沈黙の後、早苗が微笑んだ。
涙で滲んだ瞳に光を湛え、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「わたしも……光くんが、好きです」
刹那、抑えきれなくなった想いが溢れ出した。早苗を引き寄せ、その身体を腕の中に収める。彼女は抵抗することなく、おれの背中に手を回してくれた。
早苗を抱きしめた。耳元で聞こえる息遣い。早鐘のような心音。華奢な肩が、小さく震えている。その震えを抑えるように、更に強く抱き寄せる。互いの存在を確かめ合うように。言葉では表現しきれない感情を伝え合うように。
早苗の胸の鼓動を感じながら、おれはただ、暖かな温もりに浸っていた。彼女はもう震えていない。代わりに、背中に回された腕の力がわずかに強くなるのを感じた。
おれが腕の力を緩めると、早苗もゆっくりと顔を上げる。そして、はにかむように微笑んだ。
「早苗」
大切な人の名を呼び、その頬に手を添える。早苗は拒まず、瞼を閉じた。そっと唇を重ねる。触れるだけのキス。初めての、柔らかくて甘酸っぱい感触。
触れていたのは、きっと一秒にも満たない短い時間。おれにとっては、それが永遠のように感じられた。
Wi-Fiルータ壊れて草