ロストメモリィ   作:Y.West

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花火

 8月。早苗に「これから守矢神社に向かう」という断りの電話をして、自転車を走らせる。顔が見たいから。声が聞きたいから。……何となく、寂しいから。そんな適当な理由で、早苗と顔を合わせることはもう慣れていた筈なのに。今日だけは、やけに緊張していた。

 端的に言えば、デートの誘い。問題は、それが全国規模の大きな花火大会ということだ。『諏訪湖祭湖上花火大会』。下調べをしたところ、打ち上げ場所の近くで見られる観覧席は有料で、しかも販売はとうに終わっていた。家の近くにある公園は、インターネット上では、穴場――要するに、チケットを入手できなかった人向けの観覧スポットとして紹介されている。当日の混雑具合を想像すると、気が滅入る。それでも、早苗と一緒なら。はぐれないように、手を繋いで。そう考えるだけで、胸がいっぱいになった。

 

 守矢神社に着くと、早苗が鳥居の前に立っていた。いつもの巫女装束。おれが手を振ると、早苗も小さく振り返す。

 社務所まで自転車を押して行きながら声をかける。

 

「ごめん、待たせた」

 

 彼女は首を横に振り、「大丈夫です」と微笑んだ。社務所に入ると、早苗が冷たいお茶を淹れてくれた。ふたり並んで、縁側に座る。

 蝉の鳴き声が遠くに聞こえる中で、早苗と他愛ない話を交わす。旅行と呼ぶには大げさな独り旅の話、神社の近況、街で見つけた猫のこと――そんな日常の断片を積み重ねる時間が心地よかった。

そうして空が橙色に染まり始める頃。意を決して、本題を切り出すことにした。

 

「15日なんだけどさ……諏訪湖の花火大会、行かないか?」

 

 おれの言葉に早苗は目を丸くする。そしてすぐに頬を染めて小さく頷いた。

 

「行きたいです。絶対行きます」

「やった」

 

 思わず声が出てしまう。

 

「実は、花火大会はもう何年も行っていなくて。小さい頃に、連れていってもらった記憶はあるんですけど」

 

 鎮守の杜を抜けて射し込む夕陽が、早苗の横顔を柔らかく照らす。長い睫毛が、微かに震えていた。

 

「そうだったのか」

 

 複雑な気持ちになる。早苗が花火大会に行けなかった理由。それはきっと、おれが想像する以上に深い事情なのだろう。

 神社の娘としての責任。周囲の人々との関わり。宮沢が語った、過去のこと。そして、早苗と交際を始めてから、ずっと気になっている“違和感”。おれは、何も知らないのだ。知りたいと思うのは、少し傲慢だろうか。

 

「……光くん」

 

 早苗が不安そうに声をかける。おれは慌てて思考を中断し、彼女に向き直った。早苗は少し俯いて、指先を絡ませている。

 そして意を決したように顔を上げた。

 

「その……浴衣を着ても、いいでしょうか」

「浴衣? あぁ、もちろんいいよ」

 

 浴衣姿の早苗を想像して、思わず胸が高鳴る。きっと誰よりも美しいだろう。

 お茶を一気に飲み干す。コップの氷が溶けて、水滴が零れる。その冷たさが、妙に心地良かった。

 

 

 

 約束の日。8月15日。茜色に染まる諏訪湖の沿道を、リュックを背負い自転車で駆ける。湖に面した芝生には、たくさんのレジャーシートが所狭しと並べられている。談笑している人、酒盛りをしている人、大きなレンズを付けたカメラを、三脚に据え付けている人。老若男女。家族連れ、友人同士、カップル――花火大会が始まるまでまだ時間があるのに、すれ違う人の数は増すばかり。車道も車で埋まり、時折その動きを止めていた。

 人混みから逃れるように、高速道路沿いの細い道へ向かう。早苗が、神社で待っている。そう思うだけで、ペダルを漕ぐ足が速くなる。

 10分ほど自転車を走らせ、守矢神社の裏手に自転車を停めた。逸る気持ちを抑え、呼吸を整える。静かな境内。木々の影が長く伸びる。賽銭箱に小銭を1枚。願うのは、今日が平穏無事に終わること。

 そうして社務所へ向かうと、扉は閉まっていて、『ご用の方はベルを鳴らしてください』の張り紙が。言われるままにベルを押すと、少し間があって扉が開いた。

 

 扉の向こうに立つ早苗の姿に、息を呑んだ。淡い桃色の生地には、控えめに描かれた朝顔の模様。見慣れた巫女装束や制服姿とは違う、しっとりとした優雅さが漂っている。艶やかな緑の髪は高い位置で結われ、普段は隠れている首筋が眩しい。頬を微かに染めた彼女が、おれの視線に気づいて恥ずかしそうに俯く。その仕草がまた堪らない。

 

「綺麗だ」

 

 自然と漏れた言葉。早苗は驚いたように顔を上げ、はにかんだ。

 

「髪型も、いつもと違って……すごく、可愛いよ」

「ありがとうございます」

 

 早苗の声は弾んでいた。その表情から読み取れるのは、純粋な喜び。早苗はおれに一歩近づくと、小さな声で言った。

 

「光くんも素敵です」

 

 早苗の言葉に、胸が温かくなるのを感じた。ふたりで神社を出ると、夕暮れの街は既に、花火大会へ向かう人々で賑わっていた。

 

「行こうか」

 

 おれが差し出した手を、早苗は躊躇いなく握る。柔らかな指が、おれの手に絡まる感触。何度も手を繋いでいる筈なのに、初めて触れた時のようなときめき。おれはまた、東風谷 早苗に恋をしていた。

 早苗の歩調にあわせて、ゆっくりと諏訪湖へ向かう。人が多くなるにつれ、早苗が自然とおれの腕に身体を寄せる。彼女の香りがふわりと鼻をくすぐる。密着する身体に、鼓動が加速していく。早苗もまた、頬を赤く染めて俯いていた。繋いだ手のひらが湿る。緊張が伝わってくる。この手を、離したくない――そんな思いが、通じ合っている気がした。

 

 夕闇が迫る道を歩きながら、隣の早苗に視線を向けた。彼女の浴衣姿は、黄昏時の柔らかな光を受けていっそう美しく見える。髪飾りが歩みに合わせて揺れ、緑の髪が微かに波打つ。

 

「早苗」

「はい」

「草履、歩きにくくないか?」

 

 早苗は小さく笑って首を振る。

 

「大丈夫です。これくらいなら、慣れてますから」

 

 だがその声には少しの疲れが混じっていた。おれが気付いたのを察したのか、早苗は慌てて付け加えた。

 

「本当に平気ですよ。光くんも、神社まで迎えにきてくれて、ありがとうございます」

「……早苗の浴衣姿を、独り占めしたかったんだ」

 

 照れ隠しに軽口を叩く。しかし早苗は、真摯に受け止めてくれたようだった。頬を赤らめて俯く仕草が可愛らしい。そして彼女は、おれの肩に凭れかかるようにして体重を預けてきた。その柔らかな重みと温もりが恋しくて、繋いだ手に力が入る。

 諏訪湖の湖岸に近づくにつれ、喧騒が大きくなっていく。道路は車と人で埋め尽くされ、灯りが水面に反射して揺れている。早苗が小さく息を呑むのが分かった。

 人混みに吞まれないように、早苗の手を、しっかり握り直す。彼女は、おれに空いている方の腕を絡ませてきた。

 

 湖岸近くの土手には、観客たちがレジャーシートを広げたり、立ち見の列を作ったりしている。湖畔の公園を過ぎた辺りで、早苗が耳元で「あそこ、空いてますよ」と小声で教えてくれた。彼女の指差す方を見ると、ふたりが並んでぎりぎり座れるだろうか、小さなスペースが奇跡的に残されていた。

 早苗に手を引かれて、そちらへ向かう。リュックからレジャーシートを取り出して場所を確保すると、早苗は浴衣の裾を丁寧に整えながら腰を下ろした。おれもその隣に座る。肩が触れ合う距離。早苗の温もりと香りが、すぐ傍にある。

 見上げた空は深い藍色に染まり、星が瞬き始めている。花火の打ち上げ開始時刻が近づくにつれ、湖を渡る風が徐々に涼しさを帯びてくる。身体をきゅっと縮める早苗に気付いて、おれは迷わず、自分の羽織っていたパーカーを脱ぎ、早苗の肩に掛けた。彼女は驚いたように顔を上げる。

 

「冷えるだろ」

「でも――」

「おれは大丈夫」

 

 早苗の身体を覆う、ちょっと大きめの上着。その姿が妙に可愛らしくて、思わず笑みがこぼれそうになる。

 

「……ありがとうございます」

 

 彼女の指先が、おれの指の間をそっと探る。自然と指が絡み合い、手が繋がった。それからの数分間、言葉は要らなかった。ただ並んで座り、互いの存在を確かめるように、指を絡ませ続けた。

 

 19時ちょうど。炎の蛇が湖面を走るのが見えると、あれだけ騒がしかった世界が、静まり返る。

 そして、吹き上がる光を合図に、花火大会の幕が上がった。最初は試し打ちのように小さな光が弾け、次第にその大きさと数が増していく。湖面を照らす火花が夜空を彩り、次々と華麗な光景を繰り広げる。

黄金色の大輪、銀色の柳。色とりどりの幾何学模様。空いっぱいに広がる、万華鏡のような光の乱舞。空中で炸裂する大玉の花火は、音も光も全身に響くようで圧倒される。歓声と拍手が、連続して起こる。

 早苗の横顔を見た。彼女の瞳に花火の光が映り込み、宝石のように輝いていた。次の瞬間にはまた別の色が反射して煌めく。息を呑むほど美しい光景に見惚れていると、彼女がこちらを向いた。

 

「きれいですね」

「ああ」

 

 おれたちはただ肩を寄せ合い、互いの熱を感じながら、空を見上げていた。大輪が夜空を照らし、早苗の髪に光を纏わせる。次の瞬間には、いくつもの虹色の閃光が扇のように夜空を切り裂き、彼女の瞳の中で弾ける。

 

 やがて湖上に咲く、二輪の花。蒼と紅が交互に現れては、次第にその距離を縮めていく。それらが重なった時。夜空が割れんばかりの大音声と共に、漆黒のキャンバスに満開の花束を描いた。万雷の喝采。人々の興奮は、今や最高潮。

 

 早苗が、おれの胸元に頭を預けた。汗で少し濡れた額が、シャツ越しに触れ合うのが分かる。彼女が顔を上げる。その瞳は潤み、おれだけが映っていた。早苗の唇が薄く開かれ、おれの視線と交差する。柔らかな手が、おれの頬にそっと触れた。唇が重なる。舌先が触れ合う。仄かに、甘い味がした。

 唇が離れると、名残惜しそうな早苗の吐息がかかった。顔が熱い。きっと今のおれは、熟れすぎた林檎みたいになっているだろう。早苗は、頬だけでなく、耳朶まで朱に染めて俯く。そのまま、表情を隠すように、おれの胸に顔を埋めた。

 

 頭上で咲き誇るスターマイン。歓声。拍手。そんな喧騒が遠く感じ、早苗の息遣いだけが聞こえる。頭まで響く心臓の拍動が、自分のものなのか、それとも触れ合った早苗のものなのか、区別ができないくらい激しくて、狂おしいほど切なかった。

 最後の花火が、夜空を七色に染め上げる。金色の輝く欠片が、儚く降り注ぐ。そうして静寂が戻った時、おれはようやく、正常な呼吸を取り戻した気がした。

 宴は終わり、いくつかの閃光が空に瞬くのを皮切りに、周囲の人が次々と立ち上がり始める。

 おれも早苗も、暫くそのまま座っていた。繋いだ手を放すタイミングが分からず、どちらからともなく、きごちなく指を絡めなおす。湖面を渡る風が、少し冷たかった。ふと、早苗が思い出したように、パーカーの袖を引っ張る。

 

「これ……ありがとうございました」

 

 羽織っていたおれの上着を脱ごうとするのを、「いや、」と制した。

 

「まだ着てて。寒いだろ」

 

 早苗は何か言いたげに口籠ったが、結局は小さく頷いて、またパーカーを羽織った。そして、その袖を摘まんだまま、恥ずかしそうに目を伏せる。

 

 花火の余韻が消えた空は、いつの間にか再び静寂を取り戻していた。星が瞬き始めている。

 おれは立ち上がると、早苗に手を差し伸べた。早苗は、おれの手を握り返してくれた。繋いだ手は温かい。

 

「帰ろうか」

「はい」

 

 車列のライトが眩しい湖岸の道を、並んで歩く。浴衣の裾を気にしながらゆっくり歩を進める早苗に合わせて、おれもペースを落とす。繋いだ手が互いの歩調を伝え合う。歩く速度が同じになるだけで、嬉しいと思えるのはなぜだろう。通り過ぎる、学生らしいグループ。彼らは楽しげな会話と共に、先を行く。おれたちは、時折視線を交わす程度で、無言の時間を共有していた。その静けささえも、かけがえのない時間だった。

 信号待ちの間、早苗はおれの腕にぴったりと寄り添っていた。人通りが少なくなってきた夜道。繋いでいた手が自然と、早苗の腰へ移動する。おれに身体を委ねてくる彼女を、支えるように抱き寄せた。早苗は小さく息を吐いて、更におれに身体を預けた。

 そうしてしばらく歩いた後、守矢神社の鳥居が見えてきた。境内は闇に沈み、静まり返っている。手を繋いだまま石段を登る。古びた門柱の脇を抜け、境内に入った。石畳を進む音だけが響く。社務所の入り口で彼女は一度立ち止まり、振り返っておれを見上げた。

 

「今日は楽しかったです」

「おれもだよ。来てくれてありがとう」

「来年も、あなたと一緒に、来たいです」

「おれは……来年も、その次も。ずっと、早苗と一緒に行きたいよ」

「……そうですね。ずっと……ずっと、一緒に」

 

 早苗の緑の髪が、夜風に揺れる。瞳は穏やかな光を湛えていた。そっと手を伸ばし、その柔らかな髪に触れる。早苗は目を細め、猫のように頬を寄せた。

 手が、彼女の頬に滑り落ちる。そしてそのまま早苗の顎を持ち上げるようにして、唇を重ねた。最初は軽く触れるだけ。それから角度を変え、より深く。互いの呼吸を感じながら、何度も唇を啄む。その度に、早苗の身体が小さく震える。繋いでいた手はいつの間にか互いの背に回り、強く抱きしめ合っていた。早苗の心臓の鼓動が伝わってくる。それはおれと同じくらい激しくて。きっと彼女も同じ気持ちなのだと思うと、胸がいっぱいになった。

 そっと口を離す。早苗は潤んだ瞳で、おれを見つめていた。頬を赤く染め、放心したような表情の彼女を、月明かりが照らしている。それがあまりにも可憐で、美しくて。もっと触れたい。もっと抱きしめたい。もっと――想いが溢れ出す。もう一度唇を重ねようと顔を近づけたところで、早苗はそっと身を引いた。

 

「……明日も早いので、そろそろ」

「……うん」

 

 お互いに頷き合う。彼女はほんの少し残念そうな顔を見せたものの、すぐにいつもの柔和な笑みに戻る。それからぺこりとお辞儀をして、社務所の扉を開けた。

 

「じゃあ、また明日」

「……光くん」

 

 振り返った早苗の髪が揺れる。夜空に溶けるような緑。闇の中に浮かび上がる白い肌。彼女は一度、ためらいがちに手を伸ばしかけたものの、すぐに引っ込めた。そして控えめに微笑む。

 

「花火、とても綺麗でした」

「浴衣の早苗も、綺麗だったよ。正直、花火より早苗を見てた」

「もうっ……!」

 

 早苗の頬が薄紅色に染まる。そして口を尖らせながらも、嬉しそうに笑った。その仕草一つ一つが、どうしようもなく愛おしい。

 「おやすみなさい」と囁く声が聞こえた。そして扉が閉まる音。おれはしばらく佇んでから、神社の裏手に残していた自転車に跨った。全身に残る、早苗の温もりを思い返しながら。

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