鎮守の杜が鮮やかに色付き始める頃。大した用もなく、午前中に訪れた守矢神社は、相変わらず静かだった。諏訪湖に近いとはいえ、神社としては諏訪大社の方が有名だ。夏休みの終わり際、平日を使って「四社めぐり」というものをしてみた。諏訪市にある上社の前宮と本宮、諏訪湖を挟み、下社の春宮、秋宮という4つの神社を参拝する。第二の故郷となるであろう、諏訪の歴史や文化に思いを馳せながら歩くのは、なかなか新鮮で楽しかった。まあ、それはそれとして。個人的には、守矢神社の方が落ち着いていて、何より早苗に会えるから、好きだった。
自転車を拝殿の裏に止めてから、賽銭箱に五円玉を投げ入れる。早苗に出逢えたことへの感謝。そして、ずっと一緒に居られるようにという願い。いつからか、これが習慣となっていた。手を合わせ、目を瞑り、祈る。風が木々を揺らす音が心地よい。
不意に、背後で砂利を踏む音が聞こえた。振り返ると、ひとりの老婆が立っていた。品のある佇まい。着物は派手さがなく上品で、年齢を感じさせない、凛とした雰囲気がある。
「こんにちは」
挨拶をすると、老婆は静かに会釈を返してくれた。思えば、守矢神社に通って以来、初めて早苗以外の人に会った気がする。少しだけ緊張しながら、再び礼をした。老婆も深々と頭を下げた後、おれの横を通り過ぎる。そのまま拝殿に向き直ると、ゆっくりと合掌し、目を瞑る。随分と長い間、祈りを捧げていた。
横顔をちらりと盗み見る。皺の刻まれた目尻は優しげで、表情からは慈愛のようなものが滲み出ていた。やがて目を開いた老婆は、おれに向き直って微笑んだ。
「ここで若い子を見るのは久々ね。東風谷様と同じくらい」
その声音にはどこか懐かしそうな響きがあり、そして寂しさのようなものが含まれていた。突然の言葉に戸惑う。何と答えていいか分からないまま立ち尽くしていると、老婆は小さく笑った。
「ごめんなさいね、いきなり話し掛けて。この辺りの方?」
「はい。でも……今年の春に引っ越してきたので、
「そうでしたか。遠くからいらしたのですね」
老婆の穏やかな表情に安心して、おれも自然と頬が緩んだ。彼女は境内の奥を見遣って呟く。
「少し、お話ししませんか。こうして逢ったのも何かの縁。折角だから、この神社のことを、貴方に聞いてほしくて」
社務所前のベンチに、並んで腰掛ける。社務所には、主の不在を示す張り紙。早苗はきっと、山の方に居るのだろう。
日向ぼっこするような陽射しの中、ふたりの影が地面に伸びている。
「貴方は、“風祝”というのを聞いたことはあるかしら」
「かぜ――? いえ、初めて聞きました」
「東風谷様のことを、諏訪の人たちはそう呼んでいたの。雨を降らせたり、嵐を鎮めたり。神様のような力を持ち、繁栄を司る『奇跡を呼ぶもの』。守矢神社には、代々その力が受け継がれています」
「東風谷様……って、早苗のことですか。神様のような力を、早苗が?」
思わず聞き返すと、老婆はゆっくりと頷いた。
「ええ。早苗ちゃん――当代の東風谷様は、小さい頃にご両親を亡くされて。神社を継いでからは、私がよく面倒を見ていたわ。あの子は、神様と一緒だから大丈夫って、言っていたけれど」
「……そんなこと、一度も――」
胸が締め付けられるようだった。いつ訪れても、人の気配を感じなかった社務所。早苗の家族は何処に居るのか、疑問に思っていた。別の場所にちゃんと住居があるのだろうと考えていたが、まさか亡くなっていたとは。どうして今まで、その可能性に気付けなかったのだろう。早苗が隠していたのかもしれない。ただ、こんなにも近くに居るのに、知らずにいたことが辛かった。
「貴方は、早苗ちゃんのご友人?」
「はい。同じ学校に通っています」
「そうですか。仲良くしてあげてくださいね」
「もちろんです。早苗は、大切な……友達、ですから」
嬉しそうに微笑む老婆は、視線を山の方へと向けた。
『奇跡を呼ぶもの』。正直、信じられなかった。あまりに常識から外れていた。前に住んでいた場所の近くにも、有名な大きい神社があった。多くの人が神社で働いていたが、神のような力を使えるなど、聞いたこともない。神職になればそういう力を持てるというなら、大学の神道学科は、倍率が大変なことになっているだろう。
しかし、彼女の話を嘘と断じることもできなかった。嘘だとして、わざわざそれをおれに話す理由が分からない。全くのフィクションならば、小説でも書いていればいいのだから。
「あの、ひとつ聞いても」
「ええ」
「早苗が神様みたいな力を持っている、と言っていましたが……それならどうして、参拝する人は少ないんですか。半年くらい通って、今日初めて、早苗以外の人に会いました。もっと賑わっていてもいいと思うのですが」
「奇跡を起こす、神様のような人が居る。そんなことが世間に広まったら、どうなるかしら」
「有名になって……多くの人が来てくれるのでは」
「そうね。でも、東風谷様が――私たちを守ってくださる神様が、見世物になってしまう。それだけなら兎も角、力を狙って、悪い人たちも来るでしょう。そうなったら、貴方は、早苗ちゃんを護れますか?」
「それは――」
「だから私たちは、限られた者の間だけの秘密にしてきました。東風谷様が起こす奇跡が、一子相伝の秘術とされているように。……このことを知っているのも、今はもう、私だけです」
その言葉に息を呑む。早苗だけが持つという特別な力が、公になればどうなるか。ちゃんと考えれば、明白なことだ。神社に賑わいがないという目の前のことだけしか、見えていなかった。思慮の浅さに嫌気が差す。その一方で、老婆の言葉には不思議な説得力があった。嘘を言っているようには見えない。でも、だとしたら――早苗はいったいどんな想いで、これまで過ごしてきたのだろう。
早苗の笑顔が、脳裏に浮かぶ。どうして教えてくれなかったのか。理由ははっきりしている。彼女の口からは、言えるはずがなかった。“秘密”なのだから。心に冷たい風が吹き抜ける。愛する人が、遠い存在になってしまったように感じた。
「どうして、そんな大事なことを、おれに?」
「貴方が、早苗ちゃんにとって大切な人だから。――そうでしょう」
「……そうであってほしいと、思っています」
「ふふ。若いって、いいわね」
老婆は目を細め、嬉しそうに笑う。
「この話は、どうか貴方の中にだけ、仕舞っておいてほしいの。この秘密を守ってきた、総ての人たちとの約束。早苗ちゃんのために、ね」
おれは黙って頷いた。言葉が出なかった。重すぎる約束と責任が、両肩にずしりと乗しかかる。それでも、早苗の負うそれに比べれば、きっと軽いものだった。
老婆は、ベンチから立ち上がった。着物の袖が風に揺れる。
「そろそろ雨が降るかしら。濡れないうちに、お帰りなさい」
そう言い残して、老婆は境内を出ていった。彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、おれは佇んでいた。
今日の天気予報は、夜まで快晴。曇り空なんてどこにも見当たらない。なのにその言葉には、確信のような響きがあった。
深い溜息を吐き、再びベンチに腰を下ろす。目の前に在る守矢神社は、何も変わっていないはずなのに、全てが違って見えた。秘密を知ってしまった。早苗が、この街の人々が、抱え込んでいた重荷を。それどころか、おれは何も知らないまま、早苗に接していたのだ。一目惚れをして、好きだと言って。仕方ないと言い訳することはできる。話すことを許されなかったのだから。それでも――知らなかったことが、こんなにも辛い。
すぐ傍に居ると思っていた早苗が、実は遥か遠くに居たのだと気付かされた。窓ガラスに映る自分は、情けない顔をしていた。こんな顔をしていたら、早苗に心配をかける。ダメだ。自分を叱咤し、顔を上げる。何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。もう一度。今度は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
風が吹く。木々がざわめき、空気が動く。ただの風。なのに今の自分には、何かが違っているように感じられた。目に見えない力が、確かにそこにある。「神様」という存在を、信じていないわけではない。それを現実として、受け止められていなかっただけなのかもしれない。おれは、ただの人間でしかないのだから。
落ち葉を踏む音がする。早苗がちょうど、山から降りてきたところだった。蛙と蛇を模した髪飾りを付けているのは、神事を行っていたことの証。
彼女はおれを見つけると、小走りでやって来る。いつものように無邪気な笑顔。しかしおれは、咄嗟に顔を伏せてしまった。早苗は少し驚いたようだったが、すぐに気を取り直して言った。
「どうかしましたか? 何か、悩みでも」
「うん。ちょっと、考え事を」
早苗の声には心配の色が滲んでいる。けれど顔を上げられない。彼女の表情を見るのが怖かった。秘密を知ったことがバレてしまいそうで。そうやって言い訳をしている自分が、情けなくて。おれが悩んでいるのは、お前のことだ、なんて言えば、少しは楽になるのだろうか。
早苗を守りたい。誰よりも近くで、寄り添いたい。そして――彼女の秘密も、一緒に抱えたい。大好きだから。愛しているから。大切な人だから。
俯いたまま、手を伸ばした。早苗は拒まずに、おれの手を取ってくれる。彼女の体温を感じながら、おれは口を開いた。
「早苗」
「はい」
「……今日も、会えてよかった」
精一杯の言葉だった。顔を上げると、早苗は不思議そうにこちらを見つめていた。綺麗な緑髪。澄んだ翡翠のような瞳。桜色の唇。全てが愛おしい。早苗は不思議そうに首を傾げた。
「本当にどうしたんですか? 光くんらしくないです」
「なんでもない。ちょっと、寝不足なのかも。毎日、早苗のことばかり考えてるから」
視線を逸らし、適当な言い訳をする。早苗は納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。ただ小さく頷いて、「そうですか」と呟いただけ。そして、繋いだ手を握り返してくれた。指先が絡み合う。早苗の温もりが、掌を通して伝わってくる。いつもなら心が安らぐこの感触が、今は逆に苦しい。秘密を隠し続けるということが、こんなにも辛いなんて。
「今日は、自転車ですか?」
「そうだよ。拝殿の裏に駐めてる」
「屋根のある所に、移してもよいでしょうか。これから、雨が降りそうなので」
「いいけど……雨……か」
立ち上がり、早苗を追いかける。彼女の言葉の意味が、数秒後に判った。拝殿に向かう途中で、ぽつりぽつりと水滴が地面を打つ。自転車を軒下へ運んでから、早苗に呼ばれて社務所の中に入る。
やがて雨は強まり、雨音が土間に響く。傘なんて、持ってきているはずもない。雨宿りをさせてもらうことになり、早苗と二人きりの時間が延びた。すぐに帰るつもりはなかったけれど、滞在する名分ができたのは、少し嬉しかった。
守矢神社の社務所は、生活感のある空間だった。襖で仕切られた和室があり、台所があり、早苗が寝起きしているであろう、小さな部屋もある。
「着替えてきますね。開けちゃだめですよ」
早苗はそう言って、狭い居室へ姿を消した。壁一枚を隔てた向こうで、衣擦れの音が聞こえる。何となく居心地が悪くて、おれは玄関の段差に腰掛けた。
彼女が戻ってきたのは数分後。シンプルなグレーのブラウスに、同色のロングパンツという部屋着姿。普段の装束とは全く違う雰囲気に、思わず目を奪われる。
「そんなに見ないでください。ちょっと恥ずかしいです」
「いや……学校の制服と、巫女みたいな服と……あと、浴衣か。それくらいしか、見たことなかったから」
「わたしだって、家に居る時は、こういう格好なんですよ」
早苗は悪戯っぽく笑いながら、台所へ向かう。エプロンを身に着けつつ、冷蔵庫や棚の中身を確認している。その様子は、どこにでもいる普通の女の子にしか見えない。神様とか、奇跡の力とか――まるで作り話みたいだ。作り話だったら、良かったのに。
「お昼ごはんは、もう食べましたか?」
「まだだけど」
「よかったら……一緒に、どうですか。これから作るので、少し時間は掛かりますが」
「いいの?」
早苗は微笑んで頷く。その穏やかな笑顔は、普段と変わらない。今はただ、彼女と一緒の空間に居られることが嬉しかった。
台所の椅子に座り、早苗が料理をしている様子を眺める。包丁の音。鍋の蓋を開け閉めする音。魚の焼ける音。時折聞こえる鼻歌。美味しそうな香り。もし早苗と結ばれたなら、これが日常の一コマになるだろう。偶には手伝わないと、怒られるだろうか。そんなことを考えてしまい、口元が緩む。
「ご飯、よそってくれますか。器はこれを」
「任せろ」
「おかずは少し待ってくださいね。もうすぐ煮えますので」
早苗はコンロの前で忙しそうに動き回っている。家族になれたような気がして、その姿を見ているだけで、幸せを感じる。
出来上がった料理を、テーブルに並べていく。炊き立てのご飯。味噌汁。焼き魚に、高野豆腐と秋野菜の炊き合わせ。どれも、早苗の愛情が込められている気がした。
そして二人で、食卓に着く。料理はどれも美味しかった。特に炊き合わせは絶品だった。味噌汁には野菜が沢山入っていて、これだけでもひとつの料理として完成している。出汁と具材の旨味が口いっぱいに広がり、身体が芯から温まる。焼き魚も程良い塩加減で脂がのっており、箸が進む。
「すごく美味しいよ。特にこの煮物。早苗、こんなの作れるんだ」
素直な感想を伝えると、早苗は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。光くんのお口に合ってよかった」
「これが早苗の手料理か……毎日食べたいな」
つい口を突いて出た言葉。言った瞬間、尚早かと後悔した。慌てて誤魔化そうとするが、遅かった。早苗の頬が赤く染まり、視線が泳ぐ。
「あ、あの……急に、そういうこと言わないでください」
「ごめんごめん」
おれも照れ臭くなり、飯を搔き込むことで気を紛らわせる。彼女はぷくっと頬を膨らませて抗議するが、目は笑っていた。
食後の洗い物は、ふたりで済ませた。おれが洗って、早苗がそれを拭き上げる。ここで「夫婦みたいだ」なんて言ったら、彼女は皿を取り落としてしまうだろうか。そんな妄想は、内心に留めておくことにした。
食器の片付けをしている早苗を見ながら、畳に寝転ぶ。程よく膨れた腹と、幸福感。このまま、眠ってしまいそうだった。
「お昼寝しますか?」
片付けを終えた早苗が、ひょいと顔を覗かせる。
「あぁ。少し眠いかも」
「そうですか。隣、失礼しますね」
「ぉぅ……は?」
言い終わるより早く、早苗はおれの横に寝転がった。彼女の髪から漂う甘い香り。慌てて飛び起きようとするも、腕を掴まれて阻止される。
「雨が降ったら、神社に来る方もいませんし。わたしも休みたいです」
「いや、でも――」
「ここがいいんですっ。……だめ、ですか?」
真っ直ぐな眼差しを、拒むことなどできるわけがなかった。再び仰向けになると、早苗が顔を近づけてくる。
「おやすみなさい」
頬に柔らかな感触。キスをされたのだと理解するのに、数瞬を要した。早苗は満足そうに微笑んで、おれの胸元に頭を乗せる。鼓動が速くなる。彼女の体温を感じる。
雨音が心地良いリズムを刻み、意識は緩やかに溶け合って。そうして、ふたりきりの時間が流れていく。
「光くん」
微睡みの中で、早苗の声がした。
「寝てますか?」
何かを確認するような言葉。起きようと思えば、起きることができた。
おれは早苗に、初めて
少しの間を置いて、彼女の声が続く。
「ありがとうございます。わたしと、一緒に居てくれて」
聞こえてくる声は、僅かに震えていた。
「あなたの傍に居る時だけ、わたしは、普通の女の子になれるんです。あなたのことが大好きな……ただの、“早苗”に。だから……どうか、ずっと――」
独白は、そこで途切れた。早苗は、おれの腕を抱くようにして、眠りに落ちていた。静かな吐息が、首元を擽る。すぐにでも目を開けて、抱きしめたかった。けれど、これはきっと、おれが聞いてはいけないことなのだ。
胸の内に隠し続けてきたこと。知ってしまった“秘密”。早苗の頬を伝っているだろう涙を、拭ってあげたい。そっと頭を撫でてあげたい。
瞼の裏側に映る、雨に煙る景色。独り佇む早苗の姿。どれだけ手を伸ばしても、届かない。
涙に濡れていたのは、おれの方だった。