寒空の下、諏訪湖に雪が降る。自宅の窓から雪を見たのは、憶えている限り、産まれて初めてのことだった。
携帯電話を取り出し、電話帳から早苗の電話番号を探す。コール音が鳴り始めた辺りで、ふと思い至る。長野県なら、別に雪は珍しくないのではないかと。繋がるまでの10秒ほどの間、そんなことを考えていた。何となく罪悪感を覚えながらも、呼び出しを止めることはしなかった。
やがて電話から聞こえてきたのは、少し眠そうな声色だった。
『あ、光くん……すいません、お昼寝してました』
「ごめん、起こしちゃったか」
『いえ、起こしてくれてありがとうございます。日曜ですし、社務所のお掃除でもと思っていたので』
「そうか。なら、長話するのも悪いな」
『構いませんよ。……光くんの声が聞けて、嬉しいです』
その言葉に、思わず胸がときめく。受話器越しに聞こえる早苗の声は、いつもと変わらないようでいて、どこか弾んでいるように思えた。それが単なる気のせいだとしても、嬉しかった。
「早苗。雪、降ってるよ」
『雪ですか? ……わ、ほんとだ。初雪ですね」
「積もるかな」
『きっと、積もると思いますよ。毎年そうですから』
「マジかぁ。明日学校行きたくねえな。自転車使えないだろうし」
『そんなこと言わないでください。光くんに会いたいです』
「……冗談だよ。おれも早苗に会いたい。雪が降ってたら、水門で待ち合わせでいいかな?」
『はい! 家を出るとき、連絡しますね』
電話でのやり取りは、当たり障りのない他愛のないもの。それだけでも心が満たされていく。早苗の声を聞くだけで、温かい気持ちでいられる。
こんな雪が降る寒い日に、隣に居てくれたら良いのに。そんなことを思った。
『奇跡を呼ぶもの』。老婆の言葉が耳に蘇る。あれから何度も考えるようになったが、やはりその意味は分からないままだ。早苗が持つという力を目の当たりにする機会はなく、未だ半信半疑である。ただひとつ、確信を持って言えることがあるとすれば――彼女は間違いなく特別で、自分にとってかけがえのない存在。
『……光くん?』
「あぁ、ごめん。雪、見てた。それにしても寒いな。今すぐにでも、早苗を抱きしめたいよ」
『何言ってるんですか、もう。……でも……そうですね。わたしも――』
電話を切るタイミングを見失い、会話を続ける。早苗の声は、会えない寂しさを解かしてくれる。温かいココアを飲んだときの、ささやかな幸福感に似ているかもしれない。
窓の外では淡雪が舞い続けている。寒いのは苦手だ。それでも、早苗と一緒に、この景色を見られるなら。冬の諏訪湖がどんな風景なのか、楽しみだった。
翌朝、寝室のカーテンを開けると、一面の銀世界が広がっていた。天気予報によれば、積雪は約10cm。午前中の気温は氷点下。雪はもう降っていないとはいえ、おれの感覚で表すなら、大雪のそれだった。
分厚い上着を着ているとはいえ、玄関の外に出ると、冷たい空気が容赦なく体温を奪っていく。
“おはようございます! 寒いです……⛄”
道中のコンビニで昼食のパンを求めていると、早苗からメールが届いた。たった十数文字が送られてきただけでも嬉しくて、口元が綻ぶ。
“おはよう
転ばないようにね”
短い文面を送信して、すぐに携帯電話をポケットに仕舞う。昼食用のサンドイッチとお茶を買い、コンビニを出た。
慣れない雪道に足を取られ、思うように歩が進まない。早めに家を出たつもりだったが、水門の前に着いたときには、既に早苗が待っていた。コートを着込み、首元は暖かそうなマフラーで覆われている。
「ごめん、待たせた」
「いえ。わたしも、さっき着いたばかりですから」
早苗は優しく微笑む。その笑顔だけで、凍えた心に暖かな光が差す。おれは彼女の手を取り、自らのポケットに収める。指先が触れ合い、互いの体温が交わる。早苗の掌は、雪のように冷たかった。
「あったかいです」
そう言うと、早苗はぎゅっと手を握りしめ、身体を寄せてくる。彼女の手が徐々に温まっていくのを感じながら、ゆっくりと歩き出した。
交際を始めて半年にもなると、「おれと早苗が付き合っている」ことが周囲にもバレ始めていた。ほぼ毎日登下校を共にしていたのだから、早いうちに噂レベルで伝わっていても不思議はない。高校生ともなると、そういうものには敏感だ。クラスメイトからは色々訊かれ、ある程度は正直に応えた。ひけらかすつもりはないが、隠すつもりもまたなかった。少なくともおれにとって、早苗という恋人を得られたことは喜ばしいことだったから。そして、早苗も同じように考えてくれていると信じたい。事実、彼女が嫌がっている様子を見せることはなかった。
ゆっくり歩いていたら、遅刻ぎりぎりになってしまった。昇降口の辺りで一旦別れ、その後はふたりで教室まで駆け足で向かう。まだチャイムは鳴っていないものの、ぎりぎりの登校になった。教室に着いた途端、クラスメイトから揶揄われる。
夏休み明けに席替えがあり、早苗とは少し離れてしまった。休み時間では、ふとした拍子に視線が合う時がある。その度に胸が高鳴り、頬が熱を持つ。早苗も少し照れている様子で、可愛い仕草を見せてくれた。
毎日とならないまでも、昼食も一緒に取るようになった。早苗が持参する弁当は、もちろん彼女のお手製。時々、「ちゃんと野菜も食べないとだめですよ」なんて言って、おかずを少し分けてくれる。以前おれに作ってくれた料理と似た、優しい味付け。早苗と結婚したなら、こんな手料理を毎日食べられると思うと、未来が待ち遠しくなる。
放課後になると、再びふたりだけの時間がやってくる。一緒に帰路に就くのも、最早日常となっていた。雪が融けた路面の一部は泥濘となり、慎重に歩かなければならない箇所も多い。そんな道すがらでも、早苗は楽しそうに話をしてくれる。最近読んだ本のこと。山に行った時に見かけたらしい、動物や植物のこと。守矢神社の話も度々出るが、“秘密”については一切触れないようにしているようで、当然話題にも上がらない。
――あなたの傍に居る時だけ、わたしは、普通の女の子になれるんです。あなたのことが大好きな……ただの、“早苗”に。
あの日耳にしてしまった言葉が、リフレインする。明るく振る舞う早苗は、おれなんかが想像もつかないほど、大きなものを背負っている。両親を亡くし、おれと同じ歳ながら「神様」なんて呼ばれ、人々のために必死に努力しているのだろう。おれは、早苗の拠り所でありたいと、思っている。早苗が弱音を吐いたり泣いたりしても良い、唯一の相手に。いつかは、“秘密”を受け継いだことを明かさねばならないだろう。或いは、彼女の方から打ち明けてくれるときが来るかもしれない。きっと、そうして初めて、おれは「東風谷 早苗」と心から向き合える。
守矢神社の境内は、雪化粧で彩られていた。冬の日没は早く、学校が終わり、早苗を神社へ送る頃には、空は群青に染まり始めていた。社務所に続く石段を上りながら、ふと早苗の手を取る。冷たくなった指先に自分の掌を重ねて包み込むと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「朝も思ったんですけど、光くんの手はあったかいですね」
「そうか?」
「はい。あったかくて……安心します」
早苗は、おれの両手を自らの頬に当てた。彼女の体温が、掌からじわりと広がる。顔を寄せて、そっと口付けをした。柔らかな唇の感触。薄暗い世界で、温もりが早苗の輪郭を形どる。
唇を離すと、早苗は潤んだ瞳でおれを見つめていた。そして恥ずかしそうに俯く。その様子があまりにも可愛らしくて、思わず抱き寄せた。
「大好きです」
「おれもだよ」
「寒いから……もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」
「うん。いくらでも」
言葉の通り、長いこと抱き合っていた。頬は紅潮し、息は白く霞む。互いの鼓動を肌で感じながら、想いを噛み締めた。冷たい空気の中で、早苗の温もりだけが確かだった。
「年末は神社の仕事が忙しくなるので、冬休みに入ってからは、しばらく会えないかもしれません」
「……分かった。でも、寂しいな」
「わたしも寂しいです。だから、その代わり……ではないんですが。学校のある日は、少しでも長く一緒に居たいです」
「おれは嬉しいけど、大丈夫なのか? 付き合う前、神事の準備が間に合わなくて、学校を休んだことあったよな。あの時は、おれが一緒に帰ろうって誘って、遠回りしてたからだったっけ」
「そ、それは――」
早苗は少し困ったように眉尻を下げてから、小さく頷いた。そして、ぽつりと呟く。
「嘘、だったんです。……ごめんなさい」
「……嘘?」
「あの日、宮沢くんに言われたこと……憶えてますか? ……忘れてもらえた方が、わたしとしては嬉しいですけど。もし、それがきっかけで、光くんがわたしを避けるようになったら……そう思うと、家から出られなくなっちゃったんです」
「……」
「だから、あなたが神社に来てくれた時、すごく……すごく嬉しくて。それに、わたしのことを好き、なんて……そんなの、本当に奇跡が起きたみたいで……!」
言葉が詰まり、嗚咽が混じる。早苗の双眸には大粒の涙が溢れ出していた。おれの胸に顔を埋める彼女の背中を、優しく撫でる。
ようやく落ち着いたところで、早苗は大きく息を吸った。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いいんだよ。学校でも神社でも、早苗が頑張ってるのは知ってるから。おれと一緒に居る時くらいは……楽にしていいんじゃない」
「……ありがとうございます。あなたに逢えて……恋をして……よかったと、思っています」
もう一度強く抱きしめると、早苗もしっかりと抱き返してくれた。彼女の匂いに包まれながら、目を閉じる。
――何があっても、ずっと早苗の傍に居る。
心の中で、そう誓った。
冬休みに入ると、早苗とは、ほとんど会えなくなった。ダメで元々、彼女へ「クリスマスに会えないだろうか」とメールを送った。返信が来たのはその日の午後で、「会いたいけれど、時間が取れそうにない」という内容だった。
当然クリスマスと神社には関係がなく、もちろん予想はできていたことだけれど、こうして文字に残されてしまうと、少し哀しいものがある。それでもおれは、「また次の機会に」と返した。早苗にとって大切なことを、おれが蔑ろにするわけにはいかない。
早苗とはメールだけのやり取りが続き、年の瀬も迫る頃。諏訪湖の畔を、一人で歩いていた。冬枯れの風景は物悲しいけれど、水面に映る夕陽の美しさは格別だ。そんな時だった。ポケットの中で携帯電話が震える。液晶に早苗の名が浮かぶのを見た瞬間、心臓が跳ねた。
凍える指で、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『……光くん』
「うん。どうした?」
『急に電話してごめんなさい。……お話したいなと思って』
寒風が肌を刺す。けれどそんなことも忘れてしまうほど、早苗の声が心に沁みる。電話越しでも伝わる、彼女の温もり。数日振りに聴く声は、一段と愛おしい。
早苗がおれを必要としてくれている――それがたまらなく嬉しかった。
『今年も、残り少なくなってきましたね』
「あぁ。あっという間だったな」
『光くんと出逢えて……とっても幸せで、楽しかったです』
「おれもだよ。岡谷に引っ越してきて、高校で友達が出来るか不安でさ。入学式の日に、隣の席になった人に恋をして……付き合えてるんだから」
自然と笑みがこぼれる。今年の出来事が次々と脳裏に浮かぶ。何処に行くにも、独りが一番だと思っていた。誰に気を遣ることもなく、好きなように行動ができたから。
今は、早苗が隣に居ないと、物足りなさを感じてしまう。彼女と共に過ごした時間の全てが、輝いていた。
「年末年始も、忙しいのか?」
『実は、そうでもないですよ。やることが一通り終わって、大晦日になれば、時間ができると思います」
「そうなんだ。大晦日、元旦って、どの神社も忙しいイメージだったけど」
『あなたも何となく気付いているかもしれませんが、守矢神社は、参拝される人が少ないんです。諏訪を訪れる観光の方は、だいたい諏訪大社に向かわれますから。……そのお蔭で、わたしは、神事に集中できるとも言えます。12月は、大晦日までには、必要なことを終わらせるようにしているので』
「何か複雑だな。参拝に来る人は、多い方が良いんだろうけど」
『……神様を信仰する人を増やすのは、難しいですから。それに、わたしにはわたしの役割があります。守矢神社の、東風谷 早苗として』
「……」
何と答えるべきか迷い、沈黙する。早苗の言う役割の中に、“秘密”が含まれているのは明らかだった。
彼女が抱えている使命を改めて思い、胸が締め付けられる。言葉にできない想いが、喉元まで込み上げてくる。
『……光くん?』
「……早苗は、やっぱり凄いな。学校の勉強もして、神社の仕事もして」
『そんなことありません。普段のわたしは、ただの女の子ですよ。学校に居る時とか、神事の終わった後は、光くんのことを考えたりもしていますから』
「おれは、毎日どこで何をしてても、早苗のことを考えてるけどな」
『今は、わたしも同じです。あなたに、早く会いたくて』
照れくささから軽口を叩いてみるも、真摯な答えが返ってきた。早苗の言葉には強い意志と誠意が宿っており、軽く流すことなどできなかった。
「大晦日、神社に行くよ」
『……はい。待ってます』
「雨でも雪でも、絶対行くから」
心からの言葉。約束を交わし、電話を切る。
冷たい風が肌を撫でても、熱くなった心は冷めることはない。もう一度大きく深呼吸して、いつしか冬空に浮かぶ星々を見上げた。
あまりにも難産で草