ロストメモリィ   作:Y.West

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(改)が多すぎる? そうだね


大晦日

 ひとつの年が終わる日を、好きな人と過ごせるのは、幸せなことだ。昼下がり、守矢神社へと向かう雪の残る道を歩きながら、ふと思う。早苗と逢えなかった期間はおよそ1週間に過ぎないはずだが、とても長い間、離れていたように感じた。

 自宅を出る時、早苗にメールを送った。彼女からの返信は、「待ってます」の一言。その短い5文字には、きっと万感の想いが込められていた。

 

 守矢神社は、いつも通りの静謐に満たされていた。手水舎に流れる水は冷たく、作法と云えども指先がかじかむ。参道を歩くのは、おれ独り。澄んだ空気の中、さくさくと雪を踏む音だけが響く。

 社務所の近くに、巫女装束を身に纏う早苗が立っていた。白に染まる境内に立つ彼女は、雪に映える一輪の花のよう。

 

「早苗」

 

 大切な人の名を呼ぶ。早苗はこちらに気付き、笑顔が咲いた。小走りで駆け寄り、腕の中に飛び込んできた華奢な身体を抱き止める。彼女は、少し慌てたように周りを見て、そして誰も居ないことを確認し、再びおれの胸に顔を埋めた。

 “会いたかった”なんて月並みな言葉は、もう要らなかった。互いを求めるように目が合い、どちらからともなく、そっと唇を重ねる。唇を離すと、早苗は頬を赤らめて恥ずかしそうに俯く。冷たい空気の中で温もりが離れないようにと、もう一度強く抱き締めた。

 

「寒いよな。ごめん、待たせちゃって」

「いえ、これは神社に来られる方を迎える正装ですから。……ちょっと冷えた方が、あなたの暖かさをいっぱい感じられますし」

「……風邪引いたらどうするんだ」

「その時は、あなたが看病してくれますよね」

「そういうことじゃないよ、全く」

「ふふっ。冗談です」

 

 早苗の額に口付けすると、彼女はくすぐったそうに身を捩る。そのまま手を取り合い、社務所の中へ入った。

 玄関の土間では、温かい空気が迎えてくれる。早苗は一度おれの手を離し、「着替えてきます」と脇の自室へ消えた。襖は開け放しになっており、中からは衣擦れの音が聞こえる。少し顔を動かせば、中を窺えてしまう距離。邪な感情を振り払いつつ、早苗に、先に居間へ向かう旨を伝えた。

 古い壁掛け時計の針が刻む音を聞きながら、炬燵で独り寛ぐ。程なくして部屋着に着替えた早苗が現れ、おれの横に座った。お互い無言のまま目を見合わせるも、自然と笑みが零れる。言葉では表現できない程の幸福感が胸を満たしていた。

 

「今年も、もうすぐ終わりですね」

「あぁ。あっという間だったな」

「本当に……あっという間でした。去年のわたしは、こんなに幸せな年が来るなんて、夢にも思っていませんでした」

「おれだってそうだよ。早苗に逢えて、本当に良かった」

 

 お互いに今年を振り返りながら、穏やかな会話を続ける。短い間に積み重ねられた、語り尽くせぬ思い出たち。それらを共に抱えられる人は、お互いの他に存在しない。

 

「光くんと出逢う前は……毎日、不安でいっぱいで。守矢神社を継ぐ者として……巫女としての役割を果たせるのか。“わたし”は、これからどうすれば良いのか。……いつも独りで、考えていました」

 

 早苗は少し目を伏せた後、穏やかな笑みを浮かべて続ける。

 

「でも今は違います。あなたが居てくれる。あなたに会える。それだけで、どんな辛いことも乗り越えられると思います。わたしはもう……あなたが居ないと、だめみたいです」

 

 その言葉には様々な感情が込められていた。感謝と愛情だけでなく、信頼や希望も。早苗の抱える悩みの大きさに、胸が痛む。彼女が背負う重荷の全てを理解するのは、難しいことも分かっている。それでも、少しでもその負担を軽くできればと願う。

 

「早苗」

「はい」

「ずっと一緒に居よう。これからも、ずっと」

「……はい」

 

 想いを伝え合い、見つめ合う。言葉にしなければ分からないこともあるだろう。でも今は、言葉以上のもので、通じ合える気がした。

 そっと唇を重ねる。柔らかな感触。触れ合う温もり。早苗とのキスはいつも、心を震わせる。長い口付けの後、お互いの額をこつんと合わせた。鼻先が触れ合いそうな距離で見つめ合っていると、早苗が少し潤んだ瞳で囁いた。

 

「わたし、幸せです」

 

 早苗の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せる。彼女も同じように、おれを抱き返してくれた。

 ――ああ、早苗がこの世界に居てくれるから。おれは“幸せ”なんだ。

 幸せとは何だろう。不幸せとは何だろう。そんな問いに、そもそも明確な答えなどない。でも、今なら分かる気がする。早苗と出逢えたこと、彼女と共に居られることこそが最大の幸福であり、彼女と引き離されることが最大の不幸なのだと。

 永遠なんてものは無い。それはよく分かっている。それでも願うのだ。このままずっと、時が止まってしまえばいいのに――と。

 

「大好きだよ」

「わたしもです。とってもとっても……大好きです」

 

 早苗の肩を抱き寄せると、彼女はおれに凭れるように、体重を預けてきた。首筋にかかる吐息がくすぐったくて。愛おしくて。

 髪を梳くように優しく撫でると、早苗は気持ち良さそうに目を細めた。まるで猫のような仕草に、思わず微笑む。そのまま暫くの間、お互いに何も言わず、ただ静かな時間を共有した。

 

「……光くん」

「どうした?」

「暖かくて……眠ってしまいそうです」

「いいよ、おやすみ」

 

 早苗は瞼を閉じたまま微かに頷き、おれの胸に顔を埋めた。規則正しい息遣いが首筋を掠める。穏やかな眠りの海へと沈んでいく彼女を見つめているうちに、自分自身も深い安堵に包まれていくのを感じた。

 炬燵の温もりと早苗の体温が心地よい。外は、深い雪に閉ざされた静寂が広がっている。テレビを点けようとして――早苗を起こしたくなくて、リモコンを取ろうとする手を止める。今はただ、この静けさの中に漂っていたかった。

 早苗の髪にそっと触れる。彼女は僅かに頭を揺らし、すぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。

 

 “秘密”――早苗が持つという、奇跡を起こす力。彼女は、その秘密を背負いながら生きている。おれには想像もつかないような、重圧の中で。それを目の当たりにすることは、これまでなかった。ただ、彼女の纏う独特の雰囲気や、時折見せる凛とした表情には、確かに普通の人とは違う何かを感じることがある。『奇跡を呼ぶもの』。それは早苗自身のことを指すのだろうか。あるいは、もっと別の何かを意味しているのだろうか。

 胸に寄り添う早苗の温もり。彼女の存在そのものが、おれにとっての「奇跡」なのだと思う。あの日、何も知らないまま向かった新天地で、隣席に居た彼女を見つめてしまったことが始まりだった。一目惚れだった。けれど早苗は最初、どこか近寄り難い雰囲気を持っていた。守矢神社の、『奇跡を呼ぶもの』としての使命感が、そうさせていたのだろうか。きっとそれは、彼女が自分を護るための、ある種の鎧だったのかもしれない。今では、その鎧を解き、ありのままの「早苗」でいられる唯一の場所が、おれの傍なのだと言ってくれた。早苗は、おれがそれを聞いていないと思っているだろうが、確かに届いていた。だからこそ、おれは早苗の拠り所でありたい。彼女が抱えるものの重さを軽くすることはできないとしても、隣で支えることならできる。いつか――“秘密”の総てを分かち合える日が来る。そう信じている。その時こそが、本当の意味で「東風谷 早苗」と共に歩む第一歩になるのだと。

 

 いつしか窓の外は陽が落ちかけ、闇と光の境が曖昧に溶けている。灯りを点け忘れた部屋の中で、早苗の寝顔だけが優しい輪郭を描いていた。もうどれくらいの時間が経ったのだろう。炬燵の熱が足元からじわりと身体を温める。外は凍える寒さだろうに、この場所だけは別世界のように暖かい。

 

 ふと、早苗が身じろぎし、ゆっくりと瞼を開いた。焦点の定まらない瞳が揺れ、やがておれの姿を捉える。

 

「……光くん?」

「おはよう。よく眠れたか?」

「はい……」

 

 まだ微睡みの中にあるような声音で答えると、早苗は再びおれの胸に顔を押し付けた。甘えるような仕草が、たまらなく愛おしい。

 おれは彼女の髪を指で梳くように優しく撫でた。その感触が心地よいのか、早苗は幸せそうな吐息を漏らす。

 

「今、何時でしょうか?」

「5時過ぎだよ」

「5時ですか……えっ、5時!?」

 

 早苗は驚いて顔を上げる。眠気は完全に吹き飛んだらしい。

 

「どれくらい、寝ていましたか」

「うーん、3時間くらいじゃないか?」

 

 正確な時間は分からないが、炬燵に入ってから随分と時間が経っていた気がする。

 

「あ、あぁ……そうですか。よかった……もう、年を越してしまったのかと」

「まだ夕方だよ。電気もテレビも点けてないから、暗いけど」

 

 少し恥ずかしそうに縮こまる早苗に笑いかける。僅かな残光が、彼女の顔を仄かに照らす。早苗の瞳が、宝石のように輝いていた。

 目が合い、お互いに微笑み合う。炬燵の温もりと早苗の体温が心地良い。

 

「今日は、何時ごろまで居られますか」

「早苗が良いなら、何時でも。今日は……というか、しばらくは、家に親居ないし」

「そうなんですか?」

「母さんはおれが小さい時に死んじゃって……父さんは、単身赴任っていうの? だから、家に帰っても、誰も居ないんだよね」

「……」

「……今する話じゃなかったか。ごめん」

「いえ……話してくれて、ありがとうございます。あなたのことを教えてもらえて……嬉しいです」

 

 そう言って、早苗は優しく微笑んだ。

 

「……わたしの両親も、今日は神社に来ないので。……年が明けるまで、一緒に居てほしいです」

「もちろん」

 

 炬燵の中では、早苗の細い指が、おれの手を探して絡み付いてくる。指先をそっと握り返すと、彼女は安心したように目を細めた。柔らかな吐息が耳朶を掠める。

 「早苗の両親が来ない理由」に触れることは、止めておいた。おれは、その意味を知ってしまっているから。

 

「お腹、空いていませんか?」

「少し空いたかも。早苗は?」

「わたしも少し。年越し蕎麦にしましょうか」

 

 炬燵を出ようとする早苗を、優しく制する。

 

「おれがやるよ」

「でも――」

「早苗の手料理を食べてさ、自分でも、何か作れるようにならないとな、って練習したんだ。……パスタとか、そんなんだけど」

「……わかりました。では、一緒に」

「うん」

 

 炬燵を出て立ち上がる。温もりが遠ざかるのが名残惜しいが、一緒に台所に立てる嬉しさの方が勝った。

 狭い厨房に、ふたり並ぶ。早苗は手際良く調理器具を揃えながら言う。

 

「好きな人と台所に立つのは……何だか、緊張しますね」

「そうだね。……新婚生活って、こんな感じなのかな」

「――!」

 

 早苗は顔を真っ赤にして何か言おうとするが、言葉が出てこないらしい。その様子があまりにも可愛らしくて、思わず吹き出してしまった。

 彼女はぷくっと頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうに微笑んでいる。

 

「この歳じゃ、気が早すぎるか。……でも、なれたらいいな。早苗と」

「……もう」

 

 早苗は照れながらも、否定はしなかった。温かい空気がふたりを包む。早苗が笑うだけで、心が満たされていく。些細な言葉や仕草が、全て愛おしくて仕方がない。

 調理は恙無く進んだ。おれが蕎麦を茹でている間に、早苗は出汁や具材の準備をする。慣れた手つきで包丁を使い、葱と少しの柚子の皮を刻んでいく。その横顔はとても真剣で美しくて――見惚れてしまった。その視線に気付いた早苗がこちらを見る。彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。

 

「ちゃんと鍋を見ていてください。吹きこぼれるかもしれませんから」

 

 湯気に包まれる台所。沸騰した湯の音。早苗の息遣い。優しい匂いが室内に満ちる。それらすべてが温もりとなって胸に広がっていく。時間通りに茹でた蕎麦を、真冬の冷水で締める。手の感覚がなくなるほどの冷たさだが、この手間を省くことは決して許されない。そう、インターネットで見た記事に書いてあった。

 ふたりで作った掛け蕎麦は、シンプルで最高の味がした。早苗が作ったつゆは塩梅がよく、葱と柚子がアクセントになって、蕎麦の風味を一層引き立てる。美味しいと言う早苗の笑顔は眩しくて、頑張った甲斐があったと思った。炬燵に入り、大切な人と食べる年越し蕎麦は、格別だった。会話が弾む。こんな穏やかな日々が、いつまでも続いてほしいと願う。蕎麦を啜る音。時折、箸が皿に触れる小さな金属音。それ以外の音はない。静寂の中に感じる早苗の呼吸音が心地良い。早苗の顔を見ると、目が合った。彼女は目元を緩ませ、小さく笑った。その仕草に胸が高鳴り、手が止まる。

 

 食事を終えて、片付けは早苗がしてくれた。洗い物をしている早苗の背中を見ながら、炬燵に潜り直す。後ろから早苗を抱き締めたくなりながらも、我慢した。そっと見守っていたい――そんな気持ちの方が強かった。傍に居てあげることの方が、大切だと思ったのだ。早苗がこちらを振り向いて微笑む。それだけで十分だった。ふたりだけの時間。それは何よりも価値のある宝物のように思えた。

 

 夜の帳が降りて、辺りが深い闇に包まれる。鎮守の杜に囲まれた神社に、街灯の光は届かない。外は厳しい寒さだろうに、暖房の効いた室内は、僅かに汗ばむほど。炬燵の中で脚を伸ばすと、早苗のものと触れ合った。何となく気恥ずかしくて脚を引っ込めるが、早苗は構わず足先を絡めてくる。心地良い温もりが、伝わってくる。視線が重なると、彼女は恥ずかしそうに笑った。

 不意に、土間へ繋がる通路の方から、電子音が鳴る。音声を聞くに、どうやら早苗が、風呂を沸かしていたらしい。

 

「お風呂はどうされますか?」

 

 早苗が言う。

 

「えーと……どうしよう。着替えとかタオル、持ってきてないんだよな」

「タオルはお貸しします。来客用の寝間着があるので、大丈夫ですよ」

「……」

 

 本当に良いのか? 自問する。そして、結論。早苗の厚意を無碍にするのは、忍びない。

 

「お言葉に甘えて。おれも、入ろうかな」

 

 返事をしてから数秒後、早苗は真っ赤な顔で固まっていた。

 

「……あ、早苗が先で良いから。おれは後で入るよ。そのつもりだった」

「……はい。そ、そうですね。では、お先に、失礼します」

 

 お互いに顔を赤らめて、変な空気になる。早苗は恥ずかしそうに俯くと、そそくさとお風呂場へ向かった。

 彼女を見送った後、ふと、気付く。早苗は今、何を?

 実のところ、新年を迎えたら、おれは自宅へ戻るつもりでいた。ところが早苗は、「来客用の寝間着」と言った。つまり、彼女は最初から泊まる前提で話をしていたのだ。そして今の流れで、おれもそれを了承したことになってしまう。

 不意打ちで泊まることが決定してしまい、顔が熱くなるのを感じる。いや、きっと喜ばしいことなのだ。今年最後の夜を、早苗と過ごせるのは。それでも尚、“一緒にお風呂に入る”と勘違いした時の早苗の態度が、頭を悩ませる。その表情が頭から離れず、鼓動が速くなる。気まずさはあるが、それ以上に興奮が抑えられない自分が、少し情けなかった。

 テレビを点けると、年末特番が映し出される。アナウンサーの声や賑やかな音楽が流れ出す。しかし、内容が全く頭に入ってこない。浴室に繋がる通路を盗み見る。そこに早苗の姿はない。だが間違いなく彼女はあの先に居て、その姿は――。妄想を掻き消すように頭を振った。テレビの音量を上げるも、却って意識が浴室へ向かってしまう。

 

 悶々とする中、早苗が戻ってきた。髪は乾かしていないのかしっとり濡れており、頬も上気していて色っぽい。湯上がりの火照りなのか、それとも恥ずかしさからなのかは判別できないが、とにかく魅力的な表情をしていた。寝間着は薄手の浴衣のようなもので、胸元が少し開いている。

 

「光くんも、どうぞ。シャンプーとか、使っていいですからね」

 

 早苗は小声で言い、おれの横に座り込む。彼女からふわりと広がる甘い香りに、クラッときた。咄嗟に視線を逸らし、なるべく平静を装って「ありがとう」と返事をする。心臓が激しく脈打っていた。

 

 深呼吸して気持ちを落ち着かせながら、浴室へと向かう。脱衣所の扉を閉めた瞬間、大きな溜め息が出た。緊張の糸が切れ、その場にしゃがみ込む。鏡を見ると、自分でも可笑しくなるくらい、顔が赤くなっていた。どうやら、“恋人と夜を過ごす”という状況に、相当舞い上がってしまっているらしい。頭を冷やすために冷たいシャワーを浴びたかったが、まずは湯船でしっかり温まろうと思った。

 浴室には早苗の残り香が漂っていて、否応なしに意識させられてしまう。手早く体を洗い流す。早苗と同じ、石鹸の香り。それを自分も纏っているのだと思うと、妙に気恥ずかしくなった。湯船に浸かりながら天井を見上げると、思考がぐるぐると巡る。湯に浸かっていれば少しは冷静になれるかと思いきや、逆効果だったようだ。熱を帯びた頭と火照った身体を持て余しつつ浴室を出ると、洗面台に置かれていたのは真新しいバスタオルとドライヤー、そして丁寧に畳まれた、早苗が着ていたものと色違いの寝間着。寝間着からは早苗と同じ、優しい香りがした。着替えて髪を乾かす間も落ち着かない。

 居間に戻ると、早苗はテレビの前に座っていた。そして部屋に並べて敷かれている、「2組の布団」。

 

「お布団、敷いておきましたよ」

 

 そう言う彼女の横に腰を下ろし、きっと当然の疑問を投げる。

 

「ありがとう。でも、なんで2つ?」

「なんでって、もちろん、あなたとわたしの――」

「早苗も、ここで寝るのか」

「……一緒に寝たかったんです。……だめ、ですか」

 

 早苗が顔を背けながら、消えそうな声で言う。返せる答えがひとつしかない彼女の問いは、あまりに愛しくて、少し狡かった。

 

「ダメなわけないよ。ただ……ちょっとびっくりした。あと、緊張してる。好きな人の家に泊まるなんて、初めてだから」

「……」

「……おいで」

「……はい」

 

 早苗はおれの前に来て、背中を預けるように凭れ掛かった。彼女の背後から、優しく抱きしめる。その頬に、口付けをする。早苗とこうしていると、胸のドキドキは強くなるけれど、それ以上に安心する。薄い寝間着越しの身体は、いつもより温かく感じた。

 

「そろそろ、年越しみたいですよ」

 

 早苗が言う。テレビから流れる声は、今年があと数分もないことを騒ぎ立てている。

 

「跳ぶか」

「とぶ……?」

「年越しの瞬間にジャンプして、『おれは新年を迎えた瞬間に地球に居なかったぞ』、みたいな。結構やる人多いらしいよ」

「ふふっ、なんですか、それ」

「まあ、冷静に考えたら馬鹿みたいだよな」

「……光くん」

「うん?」

「わたしのこと、離さないでくださいね」

 

 不意に言われた言葉。おれは何も言わず、早苗を強く抱きしめる。互いの心臓の音が重なり合う。彼女の温もりを感じながら、おれは静かに目を閉じた。

 テレビの中では、名前だけは聞いたことがある芸能人が、生放送を収録している会場のボルテージを上げていく。

 

「……やっぱり、やりませんか? さっき言ってた、跳ぶやつ」

「お、やろうやろう。もう年が明けちゃうぞ」

 

 2005年、最後の10カウント。布団に足を取られながら、早苗の手を取り立ち上がる。

 3――2――1――0。それに合わせて、ふたりで同時に、布団の上でジャンプする。ふわりと空中に浮いた身体はすぐに重力に捕まり、柔らかい布団の上に落ちた。早苗はそのまま横になり、布団の上で大の字になる。その様は、恋人と一緒になってはしゃぐ、普通の女の子だった。

 

「新年を迎えた瞬間……わたしたち、地球に居ませんでしたね」

「ははっ、そうだな」

 

 早苗の隣に寝転びながら言う。早苗はこちらを見て微笑んだ。

 お互いに向き合い、手指を絡める。テレビから聞こえてくる音は、もう耳に入らない。

 

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします、光くん」

「ああ……明けましておめでとう。今年も……ずっと、よろしく」

 

 ふたりの誓いは、新しい年の空に溶けていった。

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