ロストメモリィ   作:Y.West

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12月!?




 おれの名前を呼ぶ声がする。優しくて温かい、大好きな声。何度も繰り返し聞いているのに、未だに胸が躍るようなその声音。

 緑がかった美しい髪の毛。ぼんやりと浮かぶ影に、手を伸ばして。思うままに、抱き締めた。

 

「ひゃぁっ!?」

 

 耳元で聞こえた、可愛い声。霞がかる視界に映る緑色。ふわふわした夢の中で、もう一度、その身体をぎゅっと抱く。体温と鼓動が伝わってくる。鼻腔を擽る、幸せな香り。いつまでもこのままで居たい。そんな想いが溢れて、どうしようもなくなる。

 愛する人が、ここに居る幸せ。何度生まれ変わっても、早苗に恋をしたいと思った。いつまでも、隣で笑っていてほしい。君のことを忘れてしまわないように、心に刻みたい。この先の未来がどうなるかなんて分からないけれど、ここにある想いだけは、本物だから。

 

「起きてください、光くんっ」

 

 むに、と両の頬を引っ張られる感覚。微睡みから覚醒させられて、思考がクリアになっていく。意識の焦点が、目の前の顔に当てられる。おれの腕に絡め捕られて、頬を赤らめる早苗。状況を理解した。してしまった。夢現の境界が曖昧な中でしっかりと抱き締めた彼女は、紛れもない現実で。至近距離で見つめ合うと、何故だか途端に、羞恥心が芽生える。

 

「……おはよう」

「おはよう、じゃないですよ、もう。……強引なんですから」

「嫌だった?」

「……あなたなら、いいです」

「そっか。じゃあもう1回。ぎゅー」

「そういう意味じゃありません! やっぱり放してくださいっ」

 

 早苗の抗議を受け流しながら、腕の中にいる彼女をまた、強く抱き締めた。少し汗ばんだ肌。触れ合う肌と肌の感触が、心地良い。起き抜けの少し高い体温が、おれのそれと混ざり合う。彼女の顔を覗き込むと、眉尻を下げて困ったような顔をしている。そんな仕草さえも愛おしくて、衝動的に口付けをした。早苗は最初驚いた様子だったが、すぐに目を閉じて受け入れてくれる。唇が触れるだけのキスを交わして離れる。それから、どちらからともなく、笑い合った。

 

「なんでおれの布団に?」

「初日の出を見に行きたくて、あなたを起こそうとしたんです。そしたら、あなたが……その」

「……夢だと思ってたんだ。ごめん」

「いいですよ。ぎゅってされるの、好きですから」

「それなら――」

「だーめーでーす。初日の出に、間に合わなくなっちゃいますよ」

 

 早苗の手がおれを押して、物理的に距離を取るように促す。少し残念な気持ちもあるが、彼女と見る初日の出を逃すのも勿体ない。名残惜しく思いながらも、腕を解く。早苗は上体を起こして、おれに跨りながら、大きく伸びをした。寝間着に引っ張られて強調される彼女の胸に、思わず目が釘付けになる。

 

「えっち」

 

 おれの視線に気付いたらしい早苗は、小さく呟いて笑う。おれは何も返せず、わずかに鼻を掻いた。

 

「着替えが済んだら、待っていてください。わたしは少し、準備に時間が掛かりますので」

「分かった」

 

 早苗は立ち上がって、廊下の方へ歩いていく。その後ろ姿を眺めていると、振り返った彼女が、悪戯っぽく笑みを浮かべて言う。

 

「覗いちゃだめですよ?」

 

 そうして早苗は、今度こそ障子の奥へ消えていった。

 

 独り残された布団の上。枕元には、昨日おれが着てきた服が、綺麗に畳まれている。窓の外は薄暗く、まだ陽が昇っていない。置かれた時計を見ると、午前6時を過ぎたところだった。夜明けまでは、あと1時間ほど。

 昨晩の記憶を辿る。初めて、早苗と一夜を明かした。大好きな人と一緒に年を越して、一緒に眠って。そして目覚めたとき、彼女がおれの横に居た。その事実が、嬉しくて堪らない。胸の奥から込み上げてくる幸福感に、自然と口元が綻ぶ。

 早苗と初日の出を見に行くために、早く着替えなければいけない。それでも、もう少しだけ余韻に浸っていたい気もして。誰も居ないのをいいことに、隣の布団に潜り込む。まだ仄かに暖かくて、落ち着く匂いがした。大好きな彼女に包まれているような気持ち。このままもうひと眠りしてしまいたい誘惑に駆られたが、早苗を悲しませたくなくて、意を決して布団を出る。

 

 服を着替えて、手櫛で適当に髪を整える。窓に映る自分は、寝癖が残っているものの、寝起きにしてはマシな顔をしていた。

 廊下に出ると、空気はひんやりとしている。早苗の部屋の前まで来たが、中からは物音ひとつしない。彼女はどんな準備をしているのだろう。気になって仕方がないが、中を窺う勇気も度胸も、起き抜けのおれにはない。大人しく待ち続ける。およそ十数分後、静かに襖が開いた。

 現れた早苗は、神職に就く際の正装と言っていた白と青の装束に、蛇と蛙の髪飾りを着けている。守矢神社の巫女の姿。清冽な雰囲気を放つ、普段の可愛らしい印象とは異なる、神聖な美しさ。見慣れているはずなのに、思わず息を飲んだ。

 

「巫女服なんだな」

「はい。神様への、新年のご挨拶ですから」

「……寒くない?」

「もう慣れましたけど……そうですね。帰ったら、ぎゅー、してください」

「おれは、今すぐでもいいんだけどな」

「後で、ですよ」

 

 早苗は巫女服の上に外套を羽織り、手を差し出した。

 

 靴を履いて外に出ると、外気の冷たさに身震いする。朝靄が立ち込める神社の境内は、見慣れたはずの場所なのに、どこか不気味な雰囲気さえ感じられた。白い息を吐きながら、早苗の手を握る。繋いだ手から伝わる温度に、安心する。

 山の上へと続く道は、先日降り積もった雪が、まだ残っていた。早苗の手をしっかりと握り、転ばないよう、ゆっくり歩を進める。雨の日に比べれば幾分ましとは思うが、それでも雪に濡れた坂道を登るのは容易ではない。普段よりも長い時間をかけて登り切った時には、空にはもう、幽かな光が差していた。

 

「初日の出、何処で見ようか」

 

 早苗に問うと、彼女はおれと繋いでいた手を放し、湖の方へと駆け出した。

 

「向こうに、すごく綺麗に見える場所があるんです。日の出まであまり時間がなさそうですね。急ぎましょう!」

「ちょ、急に走ったら危な――」

「ひゃっ!?」

 

 足を滑らせて体勢を崩した早苗は、積もる雪溜まりに背中から突っ込んだ。咄嗟に腕を伸ばしたが、間に合わない。雪の上に倒れこんだ彼女に駆け寄ると、早苗は上着も髪も白く染めて、その場に座り込んでいた。

 

「大丈夫か?」

「ええ。……少し、はしゃいでしまいました。好きな人と迎える新年って、こんなに幸せなんですね」

 

 早苗は照れ臭そうに笑って立ち上がる。おれは彼女の手を取り、優しく引き寄せた。

 上着の雪を払うため肩に手を伸ばすと、彼女はくすぐったそうに身を捩る。その仕草が愛らしくて、つい意地悪をしたくなるが、今はぐっと堪えた。代わりに、冷たくなった手を握り締める。彼女の指先は氷のように冷えていたが、その奥に確かな温もりがあって、何故だか、無性に嬉しかった。

 

「幸せなのは分かるけど、怪我したら嫌だよ」

「えへへ……ごめんなさい」

「ん。それじゃあ行こうか。足元注意で、な」

 

 早苗の手を引いて、湖畔の小径をゆっくり歩く。足裏が沈む度、ぎゅむ、と音を立てる雪の感触。痛いくらいに凍える空気の中で、彼女の体温だけを強く感じる。

 

「着きました」

 

 早苗の声で、足を止める。その場所は、湖を見渡せる高台になっているようだった。空は僅かに色付き始めている。山の向こうでは、きっと綺麗な日の出が拝めている頃だろう。

 耳鳴りがするような静けさの中で、ふたり分の息遣いが響く。時折訪れる風と小波の音は、静寂の証のよう。

 

 やがて、山稜と空の境界から洩れる黄金色が、その輝きを増していく。永い夜が、終わりを迎えようとしている。凍てつく闇を切り裂くように、一条の光が大地へと射し込み、そして世界に、鮮烈な色彩が溢れた。湖面に反射する陽光は煌めき、周囲に立ち込める雪と霧を、淡い金に染め上げる。張り詰めた空気に、澄み切った光景。息を呑むほどに荘厳で、幻想的。そんな景色の中で、早苗の姿だけが、鮮やかに浮かび上がっていた。

 不意に早苗が上着を脱ぎ、おれに手渡す。それを受け取ると、彼女は湖面へ向かって、深々と頭を垂れた。その姿は一幅の絵画のようで、この世のものではないような神聖さと、儚げな美しさを湛えていた。その姿に目を奪われ、しばらく呼吸を忘れる。

 早苗は静かに顔を上げた。朝焼けに染まる横顔は、フレスコ画のように神々しい。しかし次の瞬間、彼女の表情がふっと和らいで、こちらを振り向く。その瞳には、いつもの優しい光が宿っていた。

 

「毎年、ここで初日の出を見ているんです。神社のことを受け継いでからは、わたし独りで。でも、今年はあなたが一緒だから。特別で、素敵な新年です」

 

 湖畔を吹き抜ける風が、巫女装束の裾を靡かせる。白い息を吐きながら、早苗は穏やかに微笑んだ。その眼差しは、今この瞬間を噛み締めるように、静かに光を映していた。冷たい風の中で、彼女の頬は僅かに赤く染まっている。それが寒さによるものなのか、それとも別の感情によるものなのかは分からない。

 

「特別か。……まぁ、そうだね」

「?」

「今日は特別だよ。早苗と一緒に過ごした、初めての年越しだからさ。でも、こうして見る初日の出が……いつか、“当たり前”って言えるようになったらいいな」

「……あなたって、急にすごいこと言いますよね」

「そうか?」

「ふふっ、そうですよ」

 

 早苗は笑って、おれの側に寄り添った。彼女の手が、そっとおれの手を包み込む。指先が触れ合い、絡み合い、そのまま優しく握られる。その仕草に導かれるように、早苗の冷えた指先を、おれの手と一緒に、コートのポケットに納めた。

 目の前に広がるのは、昇る朝陽と、朝靄に煙る湖の美しい景色。光と影の対比が作り出すグラデーションは、まるで神話の一場面のようだった。それは確かに現実のはずなのに、幻想のようにも感じる。神秘的な光景に心惹かれながら、隣の早苗に視線を移す。彼女はおれの腕に身を寄せ、眩しそうに目を細めていた。

 

 

 新年を告げる太陽が昇り、世界がすっかり明るくなった頃。早苗に手を引かれて、守矢神社の奥宮を訪れる。新雪の上を踏みしめ、足跡ひとつない石段を、ゆっくりと上っていく。木々の隙間を抜けた陽光は柔らかく降り注ぎ、辺りを柔らかく照らしていた。

 参拝者がほとんど居ない神社の、その最奥。鳥居を潜った瞬間、空気の変化を肌で感じ、自然と背筋が伸びる。おれが初めて、「守矢神社の巫女」たる早苗と出逢った場所。古めかしい社殿は変わらぬ威厳を帯びており、荘厳な佇まいを呈している。

 上着を脱いだ早苗は、それをおれに手渡すと、凛とした所作で社殿へ向かって行く。彼女の動きに合わせて揺れる緑髪、純白の衣と青い袴。彼女の背中を、神聖な雰囲気が覆う。その佇まいに魅せられて、息をすることも忘れる。早苗は社殿の正面に立ち、深い礼をしてから、懐から紙を取り出した。祝詞が紡がれる。厳かな祈りの言葉。おれには聞き取れない部分も多かったが、きっと人々の幸せへの願いが籠められていた。祝詞が終わると、早苗は拍手を打って再び礼をする。優しい風がひとつ、おれの横を吹き抜けた気がした。

 社殿の前で佇む早苗の背中に、そっと歩み寄る。

 

「お疲れさま。おれもお参りしようかな」

「ありがとうございます。上着、持ちますよ」

 

 おれが上着を手渡すと、早苗はそれを受け取り一歩下がった。五円玉を一枚、賽銭箱に入れる。語呂合わせを狙ったつもりはないが、早苗との縁に感謝して。鈴の下に吊られた紐を鳴らし、二礼二拍手。目を閉じて、祈る。胸に抱く願い事は、ただひとつだけ。

 

――大好きな人。心から愛する人。早苗と共に、生きていけますように。

 

 来年の事を言えば鬼が笑うと聞くが、出逢って1年も経たぬ初めての恋人との将来に思いを馳せたなら――その人が「自らに仕える巫女」であったなら、神は苦笑くらいしてくれるだろうか。

 祈りを終えて、深く一礼。振り返ると、早苗は頬を染めて、こちらを見つめていた。おれの視線に気付くと、はにかんだように笑う。その微笑みがたまらなく愛おしくて、胸がいっぱいになった。先程までの神秘的な気配はいつの間にか消え去り、好いた男を慕う一人の少女がいるばかりだった。

 早苗の手を取る。そのまま、ぎゅ、と彼女を抱き寄せた。

 

「帰ってから、って言ったじゃないですか」

「……我慢できなかった」

「はぁ……本当に、しょうがない人です」

 

 言葉とは裏腹に、早苗の表情は緩み切っている。おれの胸に顔を埋め、幸せそうに瞼を閉じる。お互いを確かめ合うように、しばらく抱き合って。どちらからともなく体を離す。名残惜しさを感じながらも、そっと手を繋いだ。

 帰りの石段も、ゆっくりと。穏やかな陽光が降り注ぐ中、繋いだ手の温もりを感じながら、この上ない幸福を噛み締める。

 

「光くん」

 

 階段を下りきった辺りで、おれを呼ぶ声がした。それに応じて顔を向けると、早苗の顔が、すぐ近くに。驚く暇すら与えられず、そのまま唇を奪われた。

 歩みが止まる。不意打ちのキスは、あまりに唐突で、そして甘美。

 

「我慢できませんでした。……お返しです」

 

 照れ隠しのように笑う早苗の頬は、真っ赤に染まっている。愛おしくて、堪らず抱きしめた。もう一度――今度はおれの方からキスをする。もっと長く、深く。時折漏れる吐息すら逃したくなくて、何度も角度を変えながら啄むように口付けを交わす。早苗はおれの首に腕を回し、縋るように抱き着いてきた。彼女の温もりにただ溺れながら、愛しさだけが募っていった。

 そんなことを幾度か繰り返し、唇を離す。早苗は頬だけでなく耳まで真っ赤に染まり、荒い息遣いが小さく漏れていた。おれの胸の鼓動は治まらず、甘い吐息の余韻が、全身に残っている。

 

「……やりすぎたかな」

 

 掠れた声で問いかけると、早苗はふるふると首を横に振った。

 

「ううん。すごく、幸せです」

 

 消え入りそうな声で呟くと、彼女はおれの胸に額を押し付けてくる。

 

「愛してるよ、早苗」

 

 差し出した手を、早苗は迷わず握ってくれる。今度は指をしっかりと絡め合わせる恋人繋ぎ。

 ふたり並んで、山道を下りていく。時折吹く風は冷たいが、寒さなんてものは、すっかり忘れてしまった。

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