CINDERELLA GIRLS,ASSEMBLE!! 作:グレイソン
また修正するかもです
地元を離れてシンデレラガールズの企画に参加して以降、橘ありすはレッスンをこなしながら、たまに来る小規模のイベントや配信用動画の撮影に参加する日々を過ごしていた。その度に新しい物事に触れられて、ありすは着実にそれらを吸収し、学習出来ていると実感していた。
だが、目指す一人前になるには何かが物足りない。踊っていても演じていても、それこそ大好きだった歌うと言う事をしていても、満たされた気にならない。それは、アイドルや普段の日常だけでは決して埋まりきらないものだった。
彼女の頭の中には、常にあの誘拐未遂に遭った日の自分への悔しさや恥ずかしさと共に、彼――ナイトウィングの姿があった。
ありすは日々の合間に、ゴッサム出身であるプロデューサーのディック・グレイソンに尋ねたり、デイリー・プラネットやゴッサムガゼットの翻訳版記事を読んだりして、ナイトウィングとはどう言う存在なのかを調べていった。
ナイトウィングは、元々はバットマンのサイドキックで初代ロビンだったが、彼の庇護下から離れた後は、タイタンズの設立やジャスティスリーグへの参加、ゴッサムの守護者の一時的な代理に就くなどを経て、次第に共に並び立って戦い、互いに支え合って助け返す、そんな対等な関係となっていったのだと言う。
その姿は、ありすの求める一人前像に近かった。ナイトウィングのように一人でも世の中を戦い抜ける力を身に付けられれば、自分も一人でやっていけるだけでなく、両親を支え返せるだけの力を手に入れられるかも知れない。満たされないままに過ごすありすの中で、その気持ちは日に日に強くなるばかりだった。
そして、ありすは一つ、ある企てを実行する事にした。
※
宵闇に包まれるスターク・インダストリーズ日本支社。広報課アイドル事業部のフロアにある第二小会議室。シンと静けさが漂っていたその部屋に、カチャリと小さな金属音を立ててドアを押し開き、池袋晶葉とありすが入ってくる。茜色混じりな薄暗がりの中で、ありすは鍵を閉め、辺りを一瞥して、特に不穏な気配は無いかを探ると、晶葉に向き直った。これからの行いは他の誰かには知られたくない。特に、上司であるプロデューサー陣には、絶対だ。大半の人員がヒーロー職員と呼ばれるアベンジャーで構成されている為、そんな彼らに見られでもしたら、きっと、いや絶対に止められて取り上げられてしまう事だろう。それはごめんだ。
「短時間だが、防犯カメラには映像をループ再生するようにしておいたぞ」スマートフォンを弄っていた晶葉が頷いて、それから抱えていたガーメントバッグを長机の上に置いた。「では、早速お披露目と行こう」
「えぇ」いよいよだ、と思いながら、ありすも頷き返して先を促す。
「君が依頼していた物だが……」晶葉はバッグを開き、中身を示した。「注文通りに完成したよ」
「ありがとうございます、池袋さん」ありすは『ソレ』を手に取り、感触を確かめるように握り締めた。
硬く少し重いが、故に頑強で、適度に伸びもあり、動きを阻害しない作りになっている。色合いも派手すぎない赤と緑を基調に、黄色と黒のアクセント。各部に収納も備えられていて、正に望んだ通りの――彼女が海外からの情報を掻き集めて示した通りの『スーツ』に仕上がっている。
「中々に作り甲斐があって楽しかったよ。資料も細かく集めてくれていたお陰で方向性も定めやすかったし、他の専門家とも有意義な時間を過ごせていい勉強にもなった」晶葉は満足げに言う。だがすぐに首を傾げた。「しかし、一体何をする気なんだね? 比較的安い素材で揃えたとは言え、こんな本格的な装備を用意させて……お陰でお年玉貯金にも結構響いたんだろう? どうやって家族を誤魔化したんだね?」
「まぁ、ちょっとコスプレパーティに参加したくなっただけですよ、博士。本社がロスにあったり、業務提携先がゴッサムにあったり、プロデューサーがブルードヘイヴンから来てたりすると、案外納得してくれるみたいでちょうど良かったです」それから、ありすは口の前に人差し指を置いて言った。「では当初の取り決め通り……この件はくれぐれも他言無用でお願いします」
「まぁ、報酬も貰ったし、同じ事務所の仲間だから別に構わんが……」晶葉は訝しげに頷いた。「だが、調子に乗って危険な真似はしてくれるなよ? いかにケブラーやら防刃素材を使って仕上げたとは言え、耐久性には限度があるんだからな。間違っても無茶な遊びはするなよ?」
「……私が犯罪行為に使用するって心配は無いんですか?」
「君がそんな奴なら最初から断っている」晶葉はまるで愚問だと言わんばかりに首を振った。それから笑顔を浮かべて続ける。「全く断る気にはならんかったよ」
「そうですか」ありすはそれを聞いて微笑み、それからもう一度腕の中に抱えているスーツを見やった。この防刃繊維製のスーツにケープ、そしてレンズ入りドミノマスクは、これからの彼女の行いには欠かせない必須のアイテムだ。
「それに……いいか? ソイツは正義の味方の象徴だ」晶葉がスーツの胸部分を示す。そこには黄金色をしたR字型のシンボルが取り付けられている。続けて彼女はありすの胸も指し示した。「私はソレを着る者にも、相応しいその心があると信じているのだよ」
「えぇ」ありすは噛み締めるように呟いた。「裏切らないようにしないと、ですね」
※
寒々しい風の吹き付ける夜更け。寮から抜け出して、ありすは一人、近場の公園の片隅にいた。既にディックに頼んで、ナイトウィングへのメッセージを届けてもらってある。後は、彼が現れるのを待つだけだ。
コートをバッグに仕舞ってベンチに置くと、髪を結い上げ、ケープを閉じるように巻き付けて風を防ぎながら、一体どこから来るのだろうかと、ぽつりぽつりと立つ電灯が作り出すコントラストへと目を走らせる。
「共通の友人から聞いたよ」闇の中から、ボイスチェンジャー越しの響きを持った男の声がした。そして突然、人の気配が生まれるように滲み出てくる。「久しぶりだな、ありす。僕に会いたかったんだって?」
「はい、お久しぶりです……ナイトウィング」ありすは背後を振り仰いで彼に答えた。直後、僅かな足音も立てずに、暗がりの中からナイトウィングが姿を現した。
「一体なんの用だい?」ナイトウィングは穏やかに、しかし真剣に尋ねてきた。「デートのお誘いって訳じゃあないんだろう?」
「えぇ、そうですよ」ありすは頷き、ケープを翻すと、下に着込んだスーツを顕にしながらドミノマスクを装着した。ミラーレンズの内側からナイトウィングを睨み付けて、駆け出し、飛び掛かる。
「おい、なんのつもりだ!?」振り被った拳をいとも簡単に抑えながら、ナイトウィングが問い返した。「いきなり殴り掛かるなんて、危ないだろう!? どうしたんだ、ありす!?」
ナイトウィングは彼女と目線を合わせるように膝をつき、そして彼女の姿を見やる。
「それにこの格好……まるでロビンじゃあないか! 一体どうして……」
「見たままですよ。スーツを手に入れました」ありすは答えた。「でもまだ力も技も、中身も無い。見てくれだけで半人前にすらなれていない。だから教えてほしいんです、あなたの力と技を。一人であってもこの世界を生きて、戦い抜いていけるように……一人前になる為に」
「……なるほど? つまり、僕のロビンになりたいって事か?」
「はい」と頷く。「あなたから学べば、より早く一人前に辿り着けると思ったので」
「だからってなんて無茶な……」ナイトウィングは呆れるようにありすを離し、天を仰いで溜息を吐いた。「……でも、初めて会った時から無茶な娘ではあったか」
「お願いします、ナイトウィング」ありすはこうべを垂れて言った。「どうか、私をサイドキックにして下さい」
「……駄目だよ、危険すぎる」ナイトウィングは穏やかに諭すように答えた。「僕が何者か……クライムファイターがどう言う存在か、分かっているのか? 君の想像以上に恐ろしい存在と戦うんだぞ。そんな世界に引き摺り込むなんて事、僕には……」
「えぇ、そうでしょうね。当然そう言うと思ってましたよ」ありすは戸惑う彼に向けて言うと、ユーティリティベルトのポーチから自身のタブレット端末を取り出した。起動して、マップ画面を開く。「見て下さい。何人かの先輩達に協力を頼んで、この近辺で不審人物や麻薬の密売人が出没すると言う通報があった場所を纏めました」
「あぁ……うん、よく集められてるね」ナイトウィングは一通り目を通してから怪訝そうな顔を浮かべる。「で、これを使って何をする気だ? ……まさか」
「もしロビンにしてくれないのなら、私一人でこれらに乗り込みます」
「やっぱりか! 本当に無茶な娘だな、君は!」
「どうします? 傍においておかないと止められませんよ?」
「おい、勘弁しろよ……」ナイトウィングが困ったように唸った。こう大の大人を困らせていると、まるで対等に渡り合っているような気分にもなって、ありすは少し笑みを浮かべた。勘違いだろうし、あまり良くはないとの自覚も当然あったが。
「こんな事するなんて……いや、でもなんか最近レッスンの合間にコソコソしてたしな……あぁ、やっぱ納得だよ」ナイトウィングがボソボソと何言かを呟いているのが聞こえるが、あまりに小さすぎてありすには内容が判別出来なかった。彼はやれやれとかぶりを振って続けた。「なぁ、君はアイドル活動を通して成長する為に来たんだろう? こんな事して……僕がこれを彼に告げ口して、君の行動を制限させる事も出来るんだぞ?」
「でも付きっきりでは無理でしょう?」ありすは引かずに返す。「ほら、今もこうして抜け出せてるんですよ? 教えた所でプロデューサーさんには……ディックさんには止められませんよ。次もまた目を盗んでやるだけです」
「おいおいそんな事言って……いや、それなら家に帰してやってもいい。そうされたいのか?」
「誰も止める者がいなくなったら、私、何するか分かりませんよ? それこそまた夜遅くにまで出歩いて、トラブルに巻き込まれるかも」
「ああ言えばこう言う……悪知恵と屁理屈だけは一人前な気がするな」やがて彼はまたもや大きな溜息を吐いて、そしてやおらと口を開いた。「分かったよ、ちゃんと考える。ただちょっと、今すぐには決められない。少し時間がほしいんだけど、いいかな?」
「そう言ってお茶を濁そうとかはしてませんよね?」
「いいや、大丈夫だ。ちゃんと必ず、納得出来る答えを出すからさ。それまで待っていてくれないか?」ナイトウィングは再び目線を合わせるように膝をつく。
「……分かりました。でも嘘だったら許しませんからね」
「信じてくれ、としか言えないな。こんな見てくれだが、ちゃんと向き合うからさ」彼は自らのマスクを示した。ありすは少しの間、それに覆われたナイトウィングの目を見詰めた。確かに素顔こそ分からないが、その向こうからは真摯な想いが伝わってくるように感じた。
「いいですよ」ありすは自らのマスクを外して素顔を晒した後、頷いた。「でも、なるべく早くお願いします」
「あぁ。近い内に、また共通の友人を通して連絡するから。その時まで、大人しくしていてくれよ」ナイトウィングは安堵したように息を吐くと、立ち上がってありすを寮のほうへと促した。「さぁ、そうとなったら早く帰るんだ。こんな時間だ、抜け出したままだと怒られるぞ?」
「大丈夫ですよ、色々頼んで誤魔化してもらってますから」
「……全く、それについても後で調べないとな……」ボソリとナイトウィングが呟く。だがありすには聞き取れなかった。
「え? 何か言いましたか?」
「いいや、何も。さぁ、帰ろう。送ってはやれないけど、見守ってて上げるから」ナイトウィングは更に促す。ありすは怪訝な表情を浮かべながらも、ベンチに置いていたバッグにマスクとケープを仕舞い、コートを羽織った。それから振り返ると、もう既にナイトウィングの姿はなくなっていた。
「バットファミリーって本当に消えるんだ……ゴッサムガゼットに書いてあった通り……」
「まぁ、傍にはいるよ」と、どこからともなく声だけが返ってくる。ありすはビクリとして辺りを見回すが、気配すら分からなかった。「さぁほら、行きな」
そうして、再び静けさが戻ってきた。このままここにいても仕方無いので、ありすはやおらと帰路に就いた。戻ったら、晶葉には何か特別にお礼の品でも渡さないと。セキュリティを誤魔化すのも楽ではないだろうし。
※
寮の中へと戻る後ろ姿を影から見やると、ナイトウィングのマスクの中でディック・グレイソンは溜息を吐いて踵を返した。ヒーローやプロデューサーとしてだけでなく、親元を離れているありすの保護者としても日々を見守る中で、向上心や独立心の強い娘だとは常々思っていた。あらゆるものに興味を示して学び、己の糧として活かそうとする姿には感心させられるものがある。多少意固地であったり内心を隠したがったり反発したがる節もあるが、それを差し引いても、普通の少女としてもアイドルとしても、そのポテンシャルは一線級だと思っていた。だがその上でまさかロビンにまでなりたがるとは。実の所、ナイトウィングは、ありすにかつての自分を重ねて見ている部分があった。彼も同じように、少年期は好奇心に任せて学びたがったし、それを活かす事に喜びを感じていた。でも何もクライムファイターのサイドキックになろうとする部分まで似なくてもいいのに。
ナイトウィング――ディックにとってのロビンとは、復讐の始まりでもあったが、人生の学びを得る為の冒険でもあった。ありすにとってのロビンは、弱く幼い自分への反逆とか、成長の為の足掛けの一つと言った所だろうか。そう考えると、ますます似通っている部分があるように思えて、ナイトウィングはもう苦笑いするしかなくなっていた。
彼女の頼みを断る? ナイトウィングは自問する。あぁ、本気で断りたい。だって危険だからさ。まだ幼い内から人の悪意に満ちた暗闇に乗り出すだなんて、誰が勧めたいよ? 自分ですら嫌になった時があったのに。それに、折角可愛らしくてアイドルとしてもやって行けそうなのに、その強みを台無しにするような怪我を負うかも知れない世界に飛び込ませるだなんてのは、正直看過出来ない。
けれどもその一方で、無碍に切り捨てたくはないと言う思いも強くあった。そうされた時の痛みや辛さを誰よりも知っているのが、紛れもなくナイトウィングだったからだ。望んでいても叩き伏せられるように無視され、望まぬ形を押し付けられるのが、どれほど苦しい事か。自分が思い描いて向かおうとしている理想や夢を否定されるのが、どれほど寂しい事か。背中を押して支えてほしい時に何もしてもらえず、もたらされる言葉の全てが嘲笑や侮蔑に聞こえるようになり、どこまでも満たされぬ孤独感と怒りに苛まれ続け、ずっと恨みを抱いて生きる事になるのだ。そしてそれは、きっと今の彼女の内に巣食うものがもたらす以上に、大きく深い傷跡を残すだろう。そう思うと、本人が望むのなら出来得る限り叶えさせてあげたいと思えた。それこそがより良い学びと成長に繋がるのだから。
「しかもその上、自分自身を人質に取ってるんだもんなぁ……」ナイトウィングは路地へ曲がりながら参ったように呟いた。ありすは自らの幼い無謀さを自覚したからこそ、時にはそれを武器にするようになったのだろう。捨て鉢とも言えるが、護りたいと思っているほうにとってはたまったもんじゃあない。誰か導き手が傍について、行く先が致命的な危険に繋がらぬようにしなければならない。
「プロデューサーとしてだけでも、充分だと思ってたんだけどな」隠しておいたナイトサイクルに跨り、ナイトウィングは溜息を吐いた。どうやらそうも行かないのかも知れない。ヘルメットを被り、その内で唸る。
ふと、ナイトウィングはバットマンの事を思い出した。無茶や無謀を繰り返して闇の世界へと飛び込もうとする子供を相手に、あの大男も参ったように唸ってかぶりを振っていたような記憶がある。彼もロビンを生み出した時は、こんな気持ちだったのだろうか。そう苦笑いして、ナイトウィングはマシンを走らせた。息子はいずれ父親の気持ちを理解する時が来ると言う。全てではないにせよ、それは正しく今の事なのかも知れない。ただ、同じ道をなぞるべきかどうかは、まだ上手く分かっていないままだった。
※
あれから三日経った。ナイトウィングからの連絡はまだ無い。近い内にって言ったろうに。ありすは少し苛立ちを抱いていた。
一層の事、今夜にでも自室のクローゼットに隠したスーツを纏って、街に繰り出してやろうか。そうすればあの男だってすぐに答えを出さざるを得ないだろう。問題は、それを聞く前に悪党に殺されでもしたら洒落にもならないと言う所だが。そう思ってありすはまだ踏み止まった。以前は幼稚な無謀さのままに突き進んで大変な目に遭った訳だ。その際に、一人前がどう言うものなのか、他ならぬナイトウィングから少し聞けてもいる。同じ過ちを繰り返したり、折角の助言を聞かないほど、彼女は幼稚すぎてはいないつもりだった。
だがその事を、ナイトウィングは知る由もないだろう。故に脅しとしては充分に働くし、断れないはずだ。ありすは思った。これまで人を守って生きてきたのだから、こんな危なっかしい子供をみすみす見捨てるなんて真似は出来ないはずだ。なのに、どうしてこんなに待たせる必要があるのだろう。
その日、ありすはヒーロー職員による護身術のレッスンをこなした後、自主練の為にレッスンルームに残って柔軟を行っていた。翌日は休みの為、苛立ちをトレーニングにぶつけてやろうと思ったのだ。疲労の残る体を解すと、課題曲の動画を携帯に流して確認しながら、振り付けを繰り返して踊る。ステップが思うように上手く行かない。まるで今の目論見のようだ。余計にもどかしさが募り、表情が険しくなる。
「ありす、いるかい?」レッスンルームの扉が開いて、男の声がした。ありすは振り返って見やる。ディックが顔を覗かせていた。「ちょっと話があるんだけど」
「なんですか、ディックさん? もしかして、共通の友人についてですか?」ありすは駆け寄りながら、期待を込めて尋ねた。
「あぁ、うん、そうだね……彼の事だ」ディックは頷いて苦笑いした。「待たせてすまない。そう簡単に済む話ではないからさ」
「で、どうでした? 彼は……」
「その話をするには、ここは少々適さないし、足りないものもあるかな」ディックが首を振る。「屋敷で話そう。君には寮から、例の服を持ってきてもらいたい」
「スーツの事、聞いたんですか」ありすはヒヤリと冷たいものを感じながら尋ねた。ナイトウィングめ、結局告げ口しているではないか。
「あぁ、まぁね」ディックは頷く。だが特段怒っていたり不機嫌になっているような様子はない。彼は穏やかに続けた。「大丈夫、別に咎めたりはしないさ」
「そ、そうですか」
「それで、いいかい?」
「はい、すぐに支度します」ありすは手早く荷物を纏めて更衣室のほうに向かった。それから、ふと思う。「あの、その前に……汗だけ流させてもらっても……?」
「あぁ、勿論さ。こっちのほうが待たせたんだ。それくらい全然待つよ」ディックは微笑んで答えた。
軽くシャワーを浴びて身支度を整え、寮の自室からスーツを回収した後、ありすはディックの運転する車に揺られて、彼の借り受けているウェイン家の別荘にまでやって来た。もう既に何度か訪れた事はあるが、小高い山の上に建つそれは、付近に他の住宅が無いのも相まって、少し淋しげに見える。住まう者が今はディック一人しかいない事も拍車をかけているのかも知れない、とありすは思った。
ガレージで車から降り、ありすはディックに続いて屋敷に上がった。またリビングにでも行くのだろうか、そこでナイトウィングの答えを聞くのか、などと思っていると、ディックはふと書斎の前で足を止めた。
「ディックさん、どうしたんですか?」
「……正直僕も悩んだんだけど、こうするのが一番なのかも知れないと思ってね」ディックはそう言い、扉を開ける。壁一面の本棚が目に映った。前に使わせてもらった時は、時間も忘れて読み耽ってしまったっけなと、ありすは思い出す。古臭い匂いの漂うその中をディックは進み、そして棚と棚との間に掛けられた額縁に向かい立った。ヘイリーズサーカスのフラインググレイソンズと言うアクロバットを宣伝するポスターが飾られている。今は亡き彼の家族を示す一枚だったかとありすは思い返した。
「あの、今は本を読みに来た訳じゃないんですけど」ありすは訝しんで言った。「ナイトウィングからの答えを聞きたいんです」
「うん。それを今から聞かせるよ」ディックは額縁の隅に手を触れ、カチリと音を立てた。スイッチか何かを押し込んだように聞こえた。途端に、光が彼の頭からつま先にかけてを読み取るように走り、ポスターに描かれた三人のシルエットが光る。ディックが子供のシルエットに触れると、次の瞬間には本棚の一角が開き、地下へと続く階段が姿を現していた。「じゃあ、行こう」
「え!?」ありすは思わず声を上げていた。「いや、行こうってこれ……!?」
「まぁ、驚くのはまだ早い」ディックは迷いもなくそれを降りていく。少し遅れて、ありすもその後を追った。
数分程降りると、ひんやりとした空気の中に眩い光が満ちているのが見えた。それは冷たい色の照明の下に広がる、一目で高度なテクノロジーで出来ていると分かる施設だった。
「すごい……これは……」ありすは辺りを見回しながらその中を歩く。大きなモニターがいくつも設置されたコンソールや、手術台や作業台のような設備、遠くにはバイクや大型の乗り物が停められている駐機場らしき広間もある。屋敷の下、あの山の中に、まさかこんなものが広がっていたとは。
と言う事はまさか……?
「ようこそ、ケイヴへ」とボイスチェンジャー越しの声が聞こえた。ナイトウィングの声だ。ありすは振り返り、ディックの姿を見やる。
「ちょっと覚悟が必要だったんだよ。だから、少し待たせてしまったね」ドミノマスクを片手に持ち、髪型を変えながら、ディックは微笑んだ。「そうだ……僕がナイトウィングだ」
※
「うん、いい出来だな」ディックはホロテーブルの上に広げられたロビン型のスーツを見ながら、ありすに言った。先程バットコンピュータのスキャンで調べた結果、彼の予想していた以上に実用性があると分かったのだ。アイドルとして働いているとは言え、手の届く範囲で安く仕上げたにしては、充分過ぎると言えた。
「あの、それで……」ありすが待ち切れないと言った表情で問い掛けてくる。「結果のほうを聞かせてもらえませんか?」
「そうだな」ディックは頷いて、それからスーツを手渡して続けた。「いいよ」
「え?」
「ロビンと言うか、サイドキック候補生として傍に置くよ。基本は訓練だが、時には後方から僕の補佐にも回ってもらう」
「ホントですか!?」ありすの顔が一気に明るくなる。その様に、ディックは少し申し訳無い気持ちになった。そう喜ぶ話ばかりでもないだろうからだ。彼はなるべく穏やかに伝えられるよう心掛けて返した。
「だけど、直接現場に乗り込んでの捜査や、戦闘……実戦に関しては、少し距離を置いてもらうよ」
「え? ど、どうしてですか!」一転して、ありすが驚きを浮かべて問い返す。「折角学んでも活かす場所がないなら、意味も無いじゃないですか!」
「確かに、そうかも知れないな」ディックは頷いて返す。「だが、大人として、またプロデューサーとしては、怪我だの事故だので君の未来を台無しにしたくはないんだよ。折角アイドルとしてやっていけそうなのに、その可能性を潰すだなんてごめんだからさ。これが精一杯の妥協だよ」
「そんなの……!」ありすは険しい顔で答える。「納得……そうです、納得出来ません!」
「本当に?」ディックは問い掛けた。聡いこの子の事だから、本心では理解しているはずだろう。ただ、それを認めないようにしているだけで。「君も分かっているんじゃあないか?」
「うぐ……!」ありすはつっかえるように唸りながら睨み付けてきた。どうやら図星のようだった。「で、でも……!」
それから、ふと思い付いたのか、表情を変えながら続ける。
「そ、それじゃあ、実戦に連れてってくれないなら、正体を世間に公表しますよ!」
「いいけど、そうしたら二度と僕に会えなくなるだけだぞ」ディックはサラリと答える。「僕から学びたかったんだろう? それじゃあ都合が悪くないか?」
「それは……!」ありすは歯噛みするように顔を険しくし、言い淀んだ。「そう、ですけど……」
「まぁ、落ち着いて。ここはアイドルと同じさ。何も無い内からいきなりライブには出られないよ。だろう? レッスンだけだからって腐らずに、まずはこなしてみよう」
ありすはしかめた顔を上気させながら睨み付けていたが、ややあって深い溜息をついて項垂れた。
「……分かりました、取り敢えず今はそれでいいです」
「ご理解感謝するよ、ありす」ディックは微笑むと、ケイヴの片隅にある部屋を指差しながら続けた。「さぁ、向こうにスーツルームがある。片付けておいで。君のもそこで管理するとしよう」
※
自分にあてがわれたスーツルームに入りながら、ありすは嬉しさと悔しさの同居した複雑な気持ちになった。ようやっと目指す一人前に向けて進んでいけると思えたのに、共に戦う事は許されないと言われれば、そりゃあがっかりもするものだ。落胆して溜息を吐き、トルソーにスーツを着せようと見やると、ふと、横に並ぶヘッドマネキン部分とラック部分に違和感を抱いて手を止める。ヘッドマネキンにはもうマスクが掛かっているし、ラック部分には、何か身の丈程の長さのロッドとタブレット端末のような物が置かれているではないか。
「ディックさん、あの……」スーツを脇に置くと、それらを手にして部屋の外に立つ彼に向けて呼び掛ける。
「なんだい?」ディックが顔を覗かせた。
「これ、もうマスクが……それにタブレットと、ロッドもあるんですけど」
「あぁ、それらはプレゼントだよ。マスクにはバットコンピュータへのアクセス機能と通信機、それからボイスチェンジャーがついてる。バットタブレットは防弾仕様の堅牢さの他に、バットコンピュータへのアクセスとガジェットの遠隔操作が出来る。ロッドは昔僕が使っていた奴のお下がりだけど、高耐久に加えて伸縮自在で、持ち運びにも便利だ」
「でも、ここで訓練すらだけなら、そんなにも特殊な機能はいらないんじゃ……?」ありすは訝しんで首を傾げた。通信だとか持ち運びだとか耐久性だとか、どうせケイヴの中から出ないで訓練するのなら無用の長物にしか思えない。
「後方から補佐もしてもらう、って言ったろう?」ディックは微笑んだ。「時には車で待機していてもらう事もあるかも知れないからね。偵察用にバットドローンを稼働するにしても、トランクから展開しないといけないし。そうなったら、正体を隠すにも通信するにも……そして、最悪身を守るにも、これらは必要になるだろう?」
ありすは唖然とした。てっきり現場には一切近付けないものだとばかり思っていた。だけど、彼は連れて行ってくれるつもりはあるようだ。つまり、まるっきりチャンスがないと言う訳ではないのだ。間近でクライムファイトを経験して、自分に活かす事も出来るだろう。
「まぁ、急遽だったから、用意するのにも時間が掛かってね。それが待たせた理由の一つだよ」ディックは苦笑いして言った。「そうだ、使用するには最初に認証が必要になる。マスクは装着して、バットタブレットは起動すれば開始されるよ」
ありすは言われた通りに身に着け、画面に火を入れた。
『音声認証に入ります。お名前をどうぞ』と、電子音声が聞こえてくる。マスクのレンズ内の視界と画面の端には、確認中を示すインジケータが映っている。
「橘……ありす」
ありすが名乗ると、ややあってインジケータに変化が現れた。
『認証完了。ようこそバットコンピュータへ、橘ありすサイドキック候補生』完了の文字が光ると、電子音声が返答した。
その響きを聞いた瞬間、ありすは複雑な心境を脇に置いて、ようやく始まったと感じられた。候補生とは言え、サイドキックとして認められた感があったからだ。当初の予想していた展開とは異なり、多少難のあるスタートとなりそうな点はあるものの、ありすは期待に胸を膨らませ、口元に笑みを浮かべた。これから何を教わるのだろうか。どう動いていくのだろうか。分からない部分は多くあるが、それらを全て学んで強くなるのだ。いずれ一人で生きる時に、これまで支えてくれた人々を守れるように。
「ディックさん……いえ、ナイトウィング。私、早速始めてみたいです」ありすは再びスーツを手にして言った。
「やる気はあるようだな。じゃあ、少しやってみるか」
「はい!」ありすは頷いて答えた。
間もなく、師弟となった二人がケイヴのトレーニングスペースにて相対し、最初のレッスンが始まった。