精神共鳴装置で操られる傀儡闘士   作:里奈使徒

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プロローグ「コロシアムの餌」

 獣の息遣いが、肌を刺した。

 十歩と離れていない。生温かい吐息が、風に乗って頬を撫でる。

 

 魔狼が涎を垂らしながら、こちらを見据えている。

 でかい。とにかくでかい。灰色の剛毛に覆われた四肢は、僕の胴体よりも太い。血走った瞳が、じっとこちらを見つめている。

 

 首を繋ぐロープが軋む。獣は縄が喉元に食い込むのも構わず、前傾姿勢で地面を爪で掻いていた。鉤爪が石畳を抉るたび、耳障りな音が闘技場に響く。

 よほど飢えているのだ。

 そして、僕たちがその餌だった。

 

「グルルル……ガウッ! ガウッ!」

 

 唸り声が腹の底を震わせる。空気そのものが怯えているような、そんな錯覚に囚われた。

 観客席からは興奮した歓声が降り注ぐ。

 

「殺せ! 殺せ!」

「新入りの血を見せろ!」

「どいつが最初に喰われるか賭けようぜ!」

 

 野次馬たちの下品な笑い声が、石造りのコロッセウムに響き渡る。

 彼らにとって、僕たちは人間ではない。娯楽の道具。血を流すための肉塊。

 

 逃げ場のない、檻の中だった。

 真昼の陽光が容赦なく降り注ぎ、砂地から立ち昇る熱気が視界を揺らめかせている。周囲は高い壁で囲まれ、壁の上方には鉄格子があり、その向こうに観客席が広がっている。

 どこにも出口はない。

 

 恐怖に歯が鳴った。止めようとしても止まらない。喉が渇いて唾も飲み込めず、手のひらは汗でびっしょりと濡れている。

 

 ここで死ぬのか。

 ここで、僕の人生は終わるのか。

 

 周囲には、僕と同じ奴隷闘士たちが十数人。魔狼を囲むように弧を描いて並ばされ、僕はその端にいた。

 誰もが絶望の色を浮かべていた。立ちすくむ者。祈りを捧げる者。泣き叫ぶ者。

 

 この人たちと、言葉を交わしたことはほとんどない。みんな体が大きくて、目つきが鋭くて、僕みたいな人間とは別の世界の住人だった。

 

 剣を握る手から、力が抜けていく。

 陽に焼かれた砂地から熱が這い上がり、素足の裏を焦がしている。

 剣は僕には重すぎた。先端が地面を擦り、まともに構えることすらできない。

 こんなもので、あの化け物と戦えるはずがない。

 

 場違いだった。

 

 半年前まで、僕は商家の息子だった。

 毎晩、家族三人で食卓を囲んでいた。母さんの作る煮込み料理が好きだった。セリアはいつも僕の隣に座って、くだらない話をしては笑っていた。

 

 当たり前だと思っていた。あの温かい時間が、永遠に続くものだと。

 

 父が死んで、すべてが変わった。

 

 僕は若すぎた。何がいけないのかもわからないまま、店は傾き、借金だけが膨らんでいった。気づいた時にはもう手遅れで、母と妹のセリアは夜逃げし、僕だけが借金取りに捕まって奴隷商人に売られた。

 

 母さんとセリアは、今頃どこにいるのだろう。無事でいてくれるだろうか。

 

 魔狼が、動いた。

 

 思考が断ち切られる。

 獣が一歩踏み出すたび、地面が震えた。石畳に爪が食い込み、ぎちり、と嫌な音を立てる。

 

 こっちを見ている。

 

 心臓が跳ね上がる。

 全身の血が凍りついたような感覚。

 

 逃げなければ。

 でも、足が動かない。

 

 試合開始の銅鑼が鳴った。

 その音が、僕の心臓を貫いた。

 

「始めっ!」

 

 号令とともに、魔狼が解き放たれた。

 

 咆哮が空気を裂く。

 巨体が地を蹴った。砂埃が舞い上がり、視界が霞む。その霞の中から、灰色の塊が突進してきた。

 

 速い。

 あまりにも、速い。

 

 最初の犠牲者は、僕の三人隣にいた男だった。

 悲鳴を上げる暇すらなかった。魔狼の前足が振り下ろされ──赤いものが飛び散った。

 

 嘘だ。

 

 頭が真っ白になった。人が死ぬところを、生まれて初めて見た。目の前で、ついさっきまで生きていた人間が、肉の塊になった。

 

 胃の奥から何かがせり上がってくる。口を押さえた。

 

 魔狼は止まらなかった。次の男に飛びかかり、喉笛を食い破る。血が噴き出し、男はくぐもった音を立てて崩れ落ちた。

 

 逃げ惑う闘士たち。壁に向かって散り散りに走るが、どこまで行っても同じ壁がそびえているだけだった。

 壁に背中をぶつけ、立ちすくむ者。這いつくばって命乞いをする者。剣を振り回して抵抗しようとする者。

 すべてが無駄だった。

 

 一人、また一人と倒れていく。

 

 血の海が広がっていく。

 死体が転がっていく。

 悲鳴が途切れ、やがて静寂が訪れる。

 

 そして、魔狼の視線が僕を捉えた。

 

 動けなかった。

 恐怖で、完全に凍りついていた。

 

 魔狼がゆっくりと近づいてくる。

 一歩。また一歩。

 爪が石畳を擦る音。荒い息遣い。血に濡れた牙が、陽光を受けて白く光っている。

 

 影が覆いかぶさった。

 魔狼の口が開かれる。暗い。その口の中が、真っ暗だった。

 

 ああ、死ぬんだ。

 

 セリアの笑い声が聞こえた気がした。食卓で、くだらない話をして笑っていたあの声。母さんが「もう、セリアったら」と言いながら微笑んでいた、あの夕暮れ。

 

 もう会えない。

 

 目を閉じた。

 

 その時だった。

 

 チクリ、と首筋に痛みが走った。

 

 なんだろう、と思う間もなかった。

 視界がぐにゃりと歪んで、音が遠のいていく。体の感覚が薄れて、手も足もわからなくなって──

 

 意識が、糸が切れるように途切れた。

 

 死んだ。

 

 それが、最後の思考だった。

 

 

 

★☆

 

 

 

 目を開ける。

 

 ……あれ?

 

 生きてる?

 

 膝をついていた。両手が砂地についている。三歩ほど先に、魔狼の巨体が横たわっていた。

 

 なんだか体がへんだった。手足がぴりぴりする。長い間正座してて、痺れが取れかけてるみたいな感覚。

 

 周囲が騒がしい。

 歓声が耳を打つ。その歓声は先ほどとは違っていた。興奮ではなく、畏怖に満ちていた。

 

 目を凝らすと、闘技場の中央に魔狼の死体があった。

 腹にぽっかりと空いた大穴。そこから腸が飛び出し、血が地を染めている。

 

 ……え?

 

 自分の手を見た。

 血まみれだった。

 

 痛くない。傷一つない。

 僕の血じゃない。

 

 ……魔狼の、血?

 

 手のひらを見つめる。

 なんで僕の手が血まみれなんだろう。

 

 さっきまで何してたっけ。

 魔狼が来て、目を閉じて、それから……それから?

 

 覚えてない。

 何も覚えてない。

 

 周りには誰もいない。

 僕以外は皆、死んでいる。

 

 地面は血の海。鉄錆の臭いが肺を焼く。

 

 うげぇ……!

 

 胃から込み上げてくるものを必死に耐える。何も食べていなかったのが幸いした。

 

 はぁ、はぁ、はぁ……

 

 生きている闘士は、僕しかいない。

 

 観客席がざわめいている。驚嘆の声、恐怖の声、興奮の声が入り混じっていた。

 

「あの小僧、何をしたんだ?」

「魔狼が一瞬で……」

「今まで見たことがない……」

 

 観客たちも困惑している。僕と同じだ。

 

「勝者、十九番ッ!」

 

 審判の声が、震えていた。

 

 勝った?

 僕が?

 

 気がついたら、すべてが終わっていた。

 

 観客席の歓声が次第に大きくなっていく。

 

「魔狼殺し!」

「新星の誕生だ!」

「一体何者だ、あの少年は!」

 

 興奮した声が、石造りのコロッセウムに響き渡る。

 

 何者って言われても。僕だって知りたいよ、何が起きたのか。

 

 そんなことを考えながら、僕は血に染まった闘技場をゆっくりと歩いた。壁の一角に、闘士を出し入れする鉄格子の門が見える。そこへ向かって、一歩ずつ。

 

 よくわからないけど、生きてる。

 それだけは確かだった。

 

 母さん、セリア。

 僕は生きてるよ。なんでかわからないけど、生きてる。

 だから、きっといつか会いに行くね。

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