F級の訓練所はどういうところだろう。僕がやっていける場所だろうか。
ティリオの脳裏には、先日の記憶が朧げに浮かぶ。コロッセオの砂場、観客の歓声、そして――何かが起こったのだろうが、肝心な部分が思い出せない。気がつくと魔狼は倒れていて、自分がF級への昇格を告げられていた。
記憶の空白が、不安を掻き立てる。職長に「伝説級の一撃」と言われたが、その記憶は霧の中だ。果たして自分に、F級という新たな地獄で生き抜く力があるのか。
「おい、聞いてるのか」
鋼のように低く重い声。振り返ると、看守らしき大男が腕を組んで立っていた。身長は優に二メートルを超え、太い腕には無数の古傷が走っている。その眼光は、まるで獲物を値踏みする肉食獣のようだった。
「ぼけっとしてる暇はない。こっちだ」
「あ、はい!」
ティリオは看守の後を追う。石畳に響く重い足音が、これから向かう場所の重苦しさを予感させた。
建物は古く、石材の隙間からは湿った空気が漂っている。壁には「規則違反者は即座に処刑」「私闘は死刑」といった血文字で書かれた警告が踊っている。
そこが、F級闘士の訓練棟兼宿舎だった。
入口には、分厚い鉄格子と錆び付いた錠前がぶら下がっている。まるで監獄だ。鉄格子の向こうから漂ってくる臭いが鼻を突く。汗と血と、何か腐ったような臭い。
「ここが……F級闘士の場所?」
問いかけるように呟いた次の瞬間、鉄格子の奥から狂気が噴き出した。
「へへへ、ケツの青いガキが来たぞ!」
「殺せ! ぶっ殺せ!」
「新入りの血の味を知りたいぜ!」
嘲笑と怒声。暴力に塗れた獣の咆哮。その全てが、ティリオの背筋を凍らせた。
ここは……人間の場所じゃない。
「なんにせよ拾った命だ。せいぜい頑張るんだな」
看守は肩を軽く叩いてから背を向け、無造作にその場を去っていった。ティリオは完全に一人きりになった。
──怖い。
正直に認めよう。恐ろしかった。膝が震えるのを必死にこらえながら、ティリオは鉄の扉に手をかけた。
「こ、こんにちは……」
声が震えているのが自分でもわかった。
中は思いのほか、静かだった。重苦しい沈黙に包まれ、数人の闘士たちが遠巻きにティリオを見ているだけだった。
薄暗い内部に木製のベッドが雑然と並び、壁には武器の手入れ道具や、過去の戦いの記録らしき紙切れが貼られていた。奥では数人の闘士が賭け事をしており、別の一角では筋肉質の男が腕立て伏せを繰り返している。
……意外と、平気なのかも。
緊張が少し緩んだ、その時──ぐぅぅ、と情けない音が腹の底から鳴った。
お腹すいた……
匂いを辿るように食堂へ向かう。そこでは、筋骨隆々の闘士たちが金属の器を手に、配膳台に並んでいた。皆、ティリオよりもはるかに大柄で、腕や背中には戦いの傷跡が無数に刻まれている。
順番が来て、器を差し出すと、肉の塊や湯通しした野菜が無造作に盛られていく。
端のテーブルに腰を下ろし、胸を撫で下ろした。
「……いただきます」
小さく手を合わせ、フォークで肉を刺し、一口──
……まずっ。
筋張った肉にぬめった脂。だが、G級時代の腐った芋の皮と水だけに比べれば、これでも「人間」として扱われている証拠だった。
必死に肉を噛み締めていると、突然影が差した。
「おい、寄こせ」
「えっ?」
見上げると、巨漢の男が立っていた。顔の半分に大きな傷があり、右耳が削がれている。身長は二メートル近く、腕の太さはティリオの太ももほどもある。
横から伸びた腕が、無造作に器を奪い取った。
「文句あるのか?」
睨まれた目は、まるで獣だった。応えることも、動くこともできず、ティリオはただ黙って座っていた。
周囲の闘士たちは、まるで何も起こっていないかのように食事を続けている。こんな光景は日常茶飯事なのだろう。
屈辱感が胸の奥で渦巻く。情けない。惨めだ。
男は器の中身を一気に飲み干すと、空の器をテーブルに叩きつけて去っていく。
やるせなさに歯を食いしばりながら、水桶へ向かおうとした──その時。
「こんにちはっす!」
突然響いた明るい声に、食堂の空気が凍りついた。
それまで騒がしくしていた闘士たちが、まるで雷に打たれたように一瞬で静まり返る。ざわめきが嘘のように消え、異様な静寂が支配した。先ほどティリオを威圧していた巨漢ですら、その場で固まってしまった。
耳に届いたのは、この地獄には似つかわしくない、鈴を転がすような少女の声だった。
ティリオも思わず振り返る。そして──息を呑んだ。
入口に立っていたのは、場違いなほどに華やかな笑顔の少女だった。銀髪を左右に分けてツインテールに束ね、首元にはレースのついた白いブラウス。短いプリーツスカートの裾からは、すらりと伸びた細い脚が覗いている。
どこから見ても、普通の町娘。
だが、違和感があった。
周囲の屈強な闘士たちが、まるで猛獣が調教師を見るような目で少女を見つめている。恐怖とも敬意ともつかない、複雑な感情を含んだ視線だった。
先ほどまで暴れていた連中が、今では借りてきた猫のように大人しくなっている。食事を奪った巨漢は、少女の姿を見ると明らかに身体を震わせている。
まるで、死神でも現れたかのような反応だった。
少女は食堂を見回しながら、軽やかな足取りで中へ入ってくる。その歩みには一切の迷いがなく、まるでここが自分の庭であるかのような堂々とした態度だった。
彼女が通る道筋で、闘士たちが自然と身を引く。誰もが視線を逸らし、呼吸すら静かにしている。
なんだ、この空気。
「あ、あの……」
ティリオが声をかけようとした瞬間、少女がくるりと振り返った。
「変な目で見なくても、正真正銘の女の子っすよ?」
にこりと微笑むその表情は完璧に無邪気だった。だが、まっすぐに見つめられた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
その視線は、まるで全てを見透かしているようだった。同時に、まるで捕食者が獲物を品定めしているような、本能的な危険を感じさせる何かがあった。
「女の子がどうしてここに……」
「私だけじゃないっすよ。ほら」
少女が指差す方向を見ると、確かに女性もいた。ただ、筋肉隆々で男性と変わらない見た目だ。皆、戦士としての風格を纏っている。
ただし、この子みたいな可憐な子はほかにいなかった。
「でも、あなたは……」
「違うっすか? 私の名はアセビ、私も他の闘士と変わらないっすよ」
少女は首を傾げる。その仕草も愛らしいが、なぜか背筋が寒くなる。
この少女は一体何者なのか。なぜ皆が彼女を恐れるのか。
だが、次の瞬間、彼女の言葉がティリオの疑問を別の方向へと導いた。
「さっきの、まずかったっす」
「え?」
少女の表情が一瞬だけ、鋭くなった。その変化は一秒にも満たなかったが、ティリオにははっきりと見えた。まるで仮面が外れたかのように、底知れない何かが顔を覗かせた。
「食事、奪われたまま黙ってたでしょ? 舐められるっす」
ふわりと笑ったまま、彼女は続けた。
「パンチの一発も入れないと、ここでは生きていけないっすよ?」
その言葉に、食堂全体がさらに静まり返った。闘士たちは皆、固唾を呑んで少女の言葉を聞いている。
「でも、僕は……」
「ここは弱肉強食の世界っす。弱さは死っす」
アセビの瞳の奥に宿る冷たい光を見つめながら、ティリオは心の奥底で理解した。
この場所で生き残るためには、自分も──変わらなければならない。