──チュンチュン。
耳元で雀の鳴き声。目を開けると、木造の天井が視界に入る。ところどころに染みがあり、節の部分が黒ずんで腐りかけている箇所もあった。
小さな窓から朝の光が差し込み、埃が白く舞っている。背中の下には、薄い藁の敷布団があった。
……知らない天井。
息を吸い込むと、肺がじわりと広がった。空気が冷たくて、喉が少し痛い。でも、その痛みがなんだか嬉しかった。
生きてる。僕、まだ生きてるんだ。
ゆっくりと身を起こすと、全身の関節がギシギシと音を立てた。左肩と右脇腹に鈍い痛み。右の拳は皮膚が剥がれ、赤く腫れ上がっている。
……あれ? 火傷?
拳を見つめる。焦げたような臭いが漂っていた。
なんでだろう。僕、何かしたっけ。
記憶を辿ろうとするけれど、霧がかかったように何も思い出せない。魔狼が来て、目を閉じて、それから──真っ白だ。
気がついたら魔狼は倒れていて、僕だけが立っていた。
どうして僕だけ生き残れたんだろう。
一緒に闘技場に立った人たちは、みんな僕よりずっと体が大きくて、強そうだった。それなのに、全員死んで、僕だけがこうして目を覚ましている。
わからない。考えても、答えは出てこない。
……母さん、セリア。
ふと、二人の顔が浮かんだ。
元気でいてくれるだろうか。ちゃんと食べているだろうか。セリアは寒がりだったから、ちゃんと暖かい場所にいるといいな。
会いたい。
ただ、それだけが胸の中にあった。
「おい、聞いてるのか」
鋼のように低い声。振り返ると、開け放たれた扉の前に看守らしき大男が腕を組んで立っていた。
「ぼけっとしてる暇はない。こっちだ」
「あ、はい!」
慌てて藁の寝床から立ち上がり、看守の後を追って部屋を出た。石畳の廊下に響く重い足音が、どこか不穏だった。
☆★
松明の煤で黒ずんだ石壁が左右に続く、薄暗い通路だ。湿った空気に、どこか錆びたような臭いが混じっている。
事務棟へ向かうその廊下で、おかしなことに気がついた。
すれ違う職員たちが、みんな僕を見て足を止めるのだ。慌てたように道を空け、目を逸らす。清掃夫の老人はモップを取り落とし、配膳係の女性は壁に背中を押し付けて固まった。
昨日までは、透明人間みたいに扱われていたのに。
一番驚いたのは、門番の衛兵だった。いつもは「奴隷風情が」と睨んでいた大男が、今日は背筋を伸ばしてこう言った。
「おはようございます、ティリオ様」
……様?
何が起こっているのか、さっぱりわからない。
☆★
事務棟の受付は、木製のカウンターが一つ置かれただけの狭い部屋だった。壁際に長椅子が並んでいる。
カウンター越しに声をかけると、女性職員がピクリと体を震わせた。
「ひっ……すぐに、担当をお呼びしますっ!」
まるで化け物でも見るような目で、慌てて奥へ消えていく。
待っている間、職員たちのひそひそ話が聞こえた。
「本当にあの子が……」
「魔狼を一撃で……」
「三メートル超えてた……あんなのに一人で勝つなんて」
……え? 一人で?
何のことだかわからなかった。
数分後、ドスンドスンと重い足音が近づいてきた。
長椅子で待っていた僕の横を、巨大な影が通り過ぎた。現れたのは、あの男──僕を奴隷として売った張本人、ガロンだった。
二メートルを超える巨体。顔には無数の傷跡があり、鼻は曲がっている。移送中の馬車で、僕を散々殴りつけた男だ。
「お前、生きてたのか? もしかして……出場すらさせてもらえなかったか?」
口元に浮かぶ残酷な笑み。きっと僕が惨めに逃げ出したとでも思っているんだろう。
「はは……」
愛想笑いで返すしかなかった。自分でも昨夜のことがわからないのに、説明のしようがない。
「それより職長様はまだか? こっちは何時間も待ってんだぞ!」
ガロンが受付のカウンターを拳で叩いた。木が軋む音が響く。
その時──廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。軍靴の音だ。
僕は長椅子から腰を浮かせた。
「ティリオ様、お待たせしました!」
現れたのは、職長と呼ばれる男だった。五十代前半、高価そうな服を身に纏い、指には宝石のついた指輪を複数はめている。
彼は息を切らせながら深々と頭を下げた。昨日までの横柄な態度は微塵もない。背後には、鎧に身を包んだ護衛の兵士たちが六人。
「昨日のご活躍、拝見いたしました。まさに……伝説級の一撃」
職長の言葉に、ガロンが割って入った。
「は? ……こいつが、伝説?」
嘲るような声だった。
次の瞬間、職長の拳がガロンの顔面を打ち抜いた。
「へぶっ!?」
鈍い音。ガロンの巨体がよろめき、鼻から血が流れ始めた。
「愚か者……ティリオ様に不敬な!」
職長の声は氷のように冷たかった。
「この男の言は虚偽。我らを惑わせ、ティリオ様を侮らせた大罪人です」
あっという間にガロンは兵士たちに取り押さえられ、地面に叩きつけられた。
「て、てめぇら、何を……! こいつはマジでただのガキだって!」
ガロンが叫ぶ。
「『ただのガキ』がどうやって、あの巨大魔狼を素手で倒せるのか説明してもらおうか」
ガロンが何か言い返そうとした。だけど、兵士の篭手をはめた拳が腹に沈んで、声は途切れた。
「うぐっ……!」
僕は、目を逸らした。
見ていられなかった。殴られるたびにガロンの体が跳ねて、血が床に飛び散る。あの大きな体が、どんどん小さくなっていく。
ガロンは僕をひどく扱った。殴られたし、蹴られたし、ひどいことも言われた。だけど──。
だけど、こんなの、見ていたくない。
何か言わなきゃ、と思った。「やめてください」って、一言だけでいいから。でも、口が開かない。声が出てこない。兵士たちの目が怖くて、職長の冷たい顔が怖くて、結局、僕はうつむいたまま黙っていた。
やがて、ガロンはうめき声すらあげられなくなった。兵士たちに引きずられるようにして姿を消す。床に血の跡だけが残された。
「ティリオ様、こやつは念入りに処罰いたします。どうか、お許しを」
職長が深々と頭を下げる。
「あ、はい……」
声が震えていた。足元の血の跡を見ないように、視線を上げた。
☆★
受付の奥にある小部屋に通された。窓のない部屋で、机を挟んで職長と向かい合っている。
職長が口を開いた。
「これからの予定を説明させていただきます」
「数日後、ティリオ様には《F級訓練施設》への入所が命じられております」
「F級訓練施設?」
「最下層の闘士階級です。まともな装備も与えられず、食事も粗末なものしか支給されません。多くの闘士がここで命を落としていきます」
……命を落とす。
その言葉が、ずしりと重かった。
「ただし、月に一度の昇格試験に合格すれば、上の階級に進めます。F級からS級まで七つの階級があり、上がるほど待遇は改善されていきます。ティリオ様のご実力なら、いずれは頂点も──」
「あの」
思わず口を挟んでいた。
「昇格試験に、失敗したらどうなるんですか」
職長の顔が一瞬こわばった。
「……死、です」
やっぱり、そうなんだ。
「ティリオ様のご実力なら、闘技王の座も夢ではありません。その際は、ぜひ私どもにもご配慮を」
媚びた笑みの奥で、何かを計算している目をしていた。
闘技王。そんな大層なもの、僕には想像もつかない。
職長の話は続いた。昨夜の戦いについて、観客席からの目撃証言があるのだという。
「元軍人の証言によりますと、あなたの動きは『達人級の武術』だったそうです」
達人級の武術……僕が?
そんなわけない。走るのだって遅いし、腕相撲だって一度も勝ったことがないのに。
「あの巨大魔狼を素手で倒すなど、前代未聞です」
職長がまだ何か言っていたけれど、頭に入ってこなかった。
伝説だとか、達人だとか、言われるほどに怖くなる。あれが本当に僕なら、僕は一体何なんだろう。
ただ、生きている。それだけは確かだ。
これから何が待っているのかもわからない。F級訓練施設がどんな場所なのかも。
でも、生きている限りは前に進むしかない。
母さんとセリアに、もう一度会うために。