脳波の安定を示すグラフを横目に、助手のエリシアは手術台に眠るティリオを見つめていた。
穏やかな寝顔。無垢で、愚直で、他者を助けることを恐れない──その優しさは、生まれついてのものだった。
──ティリオ。
記憶の底から、あの日のことが鮮明によみがえる。
☆★
それは、自分がまだ幼かった頃のこと。
シルヴァン族というだけで狩られ、追われ、逃げ惑っていた頃。
シルヴァン族──かつては森の薬草師として敬われた一族。だが、三十年前の《血の夜明け》以降、すべてが変わった。時の国王が「シルヴァン族は悪魔の血を引く異端者」と宣言し、王国全土に殲滅令を下したのだ。
一夜にして、我々は「悪魔の手先」「国家の敵」とされ、見つけ次第殺害される存在となった。高額な懸賞金がかけられ、金に目が眩んだ者たちが血眼になって我々を探し回った。
母と私は、それから五年間も逃げ続けた。森から森へ、廃村から廃村へ。母は日に日に痩せ細り、咳が止まらなくなっていた。
雨の降る夜だった。母の身体は熱に浮かされ、まともに歩くことすらできなかった。私は十歳にもならない子供で、母を支えるのがやっとだった。
すぐ背後には、我々を狩る追手の足音が迫っていた。松明の明かりが闇を切り裂き、猟犬の鳴き声が響いてくる。
もうだめだ。ここで終わりだ。
そんな絶望に支配されそうになったとき──
茂みの隙間から、幼い少年と目が合った。
ティリオ──あの少年は、こちらに気づいていた。
七つか八つほどの年頃。丸い顔に大きな瞳、好奇心に満ちた表情。普通の子どもなら、正体不明の怪しい人影を見つければ恐怖で逃げ出すはずだ。
だが彼は違った。
私たちの惨めな姿を見つめ、一瞬だけ驚いた後、理解したような表情を浮かべた。そして何のためらいもなく、父のもとへ駆け寄ると言った。
「とうさん、あそこに人がいる。追われてるみたい。……助けてあげて」
父親──アヴェンハート氏は、一瞬だけ表情を曇らせた。
この国で"シルヴァン族"を助ける行為が何を意味するのか、わかっていたはずだ。家族もろとも処刑される可能性もある。商売上の信用も失い、財産も没収されるかもしれない。
それでも、ほんの息の間の沈黙の後──彼は静かに言った。
「……よし。すぐに毛布を持っていこう」
背後の森では、追手が灯火を手に捜索していた。見つかれば家ごと罰せられる。それでも、その父親は当たり前のことをするかのように、私たちを隠し部屋へ招き入れた。
濡れた体を拭き、温かいスープを差し出してくれた。何日もまともな食事をしていなかった私たちには、まさに命の水だった。
ティリオは焚き火のそばで笑っていた。母の手を握り、私の肩に手を置いて、まるで家族のように接してくれた。
「だいじょうぶ。ぼくたちが隠してあげる。……こわい人たちは、お父さんが追い返すよ」
その時、まさに追手が屋敷の門を叩いた。
だが、アヴェンハート氏の巧妙な対応と、商人として築いた信頼のおかげで、私たちは難を逃れた。
三日間匿われた後、安全な隠れ家への案内を手配してくれた。見送る際、アヴェンハート氏はこう言った。
「また困ったことがあったら、いつでも頼ってください。この世界に住む人間として、当然のことをしただけですから」
ティリオも涙を浮かべながら手を振ってくれた。
「また会えるよね? 約束だよ」
──命を、拾ったのだ。
もしこの親子がいなければ、自分も母も、あの夜に殺されていた。
☆★
その後、母を看取り、一人になった私が出会ったのが、ゼイド様だった。
ゼイド様は、シルヴァン族の血を引く自分を、能力のみで判断してくださった。出自も過去も問わず、ただ私の持つ知識と技術を評価してくれた。
「過去は問わない。君の力が必要だ」
その言葉で、自分は初めて人として認められたのだ。
ゼイド様もまた、この腐敗した世界の犠牲者だった。偉大な祖父の功績を奪われ、天才でありながら身分の低さゆえに蔑まれ続けている。私たちは同じ痛みを知る者同士だった。
だからこそ、私はゼイド様についていくと決めたのだ。この方ならば、きっと世界を変えられる。
善人が苦しみ、悪人が栄える世界など、私は認めない。ゼイド様の技術と知性があれば、本当の正義を実現できる。
なのに──
エリシアは唇を噛みしめる。手術台のティリオを見下ろしながら、胸の奥で激しい葛藤が渦巻く。
知らなかった。
ティリオが奴隷として売られ、闘技場に送られるほどに追い詰められていたことを。彼の父も、事故で亡くなったと聞いた。
──あれほど尊い人が、なぜ。
商売敵の陰謀、政治家の腐敗、民衆の無関心──すべてが重なって、善良な人々を苦しめている。アヴェンハート家のような人たちこそが報われるべきなのに、現実は逆だ。
そして今、私は──
あなたを救うために、あなたを"被検体"として、この場に寝かせている。
脳に青晶核を埋め込み、精神共鳴装置とリンクさせ、闘技場での死闘に向かわせる。それが生き残る唯一の道だと、頭では理解している。
ゼイド様の技術によって、ティリオは普通では考えられない力を得る。魔狼すら倒せる力を。
……けれど、心が割れるように痛む。
私の手には、ティリオの頭部に埋め込まれた青晶核の制御装置がある。この小さな機械一つで、彼の意識は完全にゼイド様の支配下に置かれる。
彼はもう、自分の意志で動くことはできない。戦闘中、彼の身体は精密な機械のように動き、敵を倒していく。だが、それは彼自身の力ではない。
これは救済なのか? それとも──
「ごめんね……ティリオ……」
声にならない囁きが、手術室の無音に消えていく。
彼がどれほど恐ろしい目にあい、どれほど傷ついてきたかを思えば、胸が裂けるようだった。
それでも、あなたには生きていてほしい。
この地獄のような世界で、それでも、生き残ってほしい。
あなたが勝ち続けさえすれば──生きて、証明してくれさえすれば──この世界は、必ず変わると信じられるから。
エリシアは深く息を吸い込み、再び器具を手に取った。ゼイド様から託された任務を、完璧にこなさなければならない。
私はゼイド様の助手として、あなたを"戦える身体"に整える。
それが、今の私にできる、唯一の祈りだ。
恩人を利用することの罪悪感と、世界を変えるという使命感。その両方を胸に抱きながら、エリシアは静かに作業を続けた。
──待ってて、ティリオ。
その決意だけが、彼女の心を支えていた。