カッパドキア・ハゲリスクタイム   作:忘旗かんばせ

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 ◯

 

 ぼくは石を積んでいる。

 

 賀茂大橋の下。そこにある、ダンボールとビニールシートで作られた、見窄らしいねぐら。その前に、石を積んでいる。

 

 これは、師匠の墓だ。名も知らぬ浮浪者の、その生きた証を残すための、供養の塚だ。

 

「師匠……」

 

 口から、言葉がこぼれ落ちる。その呼びかけに応える人は、もうこの世にはいない。

 

 思い返せば、師匠との付き合いは短くも長いものだった。

 

 初めて彼と出会ったのは、中学二年生の頃である。

 ぼくは当時、健全な中学生男子として、性の目覚めを迎えていた。

 

 思春期、と言うものである。

 

 兎にも角にも、えっちなことに興味が湧いて仕方がなかった。興味津々だった。主にちんちんのあたりが、津々であった。

 

 しかし中学生というものは、世間では一般的に、まだ子供として扱われる。扱われてしまう。自認がどれだけ大人であろうと、十八歳を迎えるまでは、ビデオ屋さんの垂れ幕の向こうにも入れてもらえない。

 

 当時、ぼくは水泳という悪魔のスポーツに身を浸し、霊長類としての誇りを失っていた以外は、極めて健全な少年だった。その健全さは目を見張るものがあり、えっちなものにいかに興味津々であったとしても、年齢を偽ってえっちな本を買ったりという悪事には決して手を染められないほどに健全だった。

 

 当時の我が友にして、現在の不倶戴天の敵、水泳部の田中などは、脳味噌までもが水泳にやられてしまっていたのだろう。もうそれはそれは手のつけられないエロガキで、部室にまで平然とエロ本を持ち込み、顧問に頭の形が変わるまで殴られていたほどだった。

 

 それに対して、ぼくはいかにも健全な少年であったものだから、彼が見せびらかすそのエロ本からも必死に目を逸らし、一人部室の隅で般若心経を唱え心を律していた。

 

 しかし——そんな健全極まるぼくであっても、あるいは健全極まるぼくであるからこそ、やはり、性の目覚めというものはやってくるのである。

 

 当時とって、十四歳。ぼくは中学二年生だった。

 

 今でも、その蒸し暑い夏の夜を覚えている。

 

 ぼくは、むらむらしていた。

 

 もう、辛抱たまらんかった。

 

 己の内側から湧き散らかすえっちなものへの知的好奇心が、もはや堪え難いほどに肥大化していることを強く自覚していた。

 

 しかしながら、ぼくは未だ中学生。世間では子供として扱われる年頃であり、どれほどえっちなものに興味を抱こうとも、どれほどえっちなものを切望しようとも、本屋さんでもビデオ屋さんでも、えっちなコンテンツを売ってもらうことはできない年齢だった。

 

 だからこそ、ぼくは家を出た。

 

 真夜中のことである。

 

 耐え難いむらむらを抱えながら、ぼくは鴨川に向かった。

 決して、川に浸り、己を心頭滅却しようという心算ではなかった。

 

 ぼくは——エロ本を探しに出たのである。

 

 聞くに曰く。

 世間において、成人しきり、長く生き、エロに親しみ、エロに親しまれたエロ親父たちは、時として、エロに親しまぬ哀れな青少年たちへ、寄付を行うのだと聞いた。河原なぞにエロ本を喜捨し、エロ本弱者である青少年たちがそれを拾うのを良しとする、慈善事業を行なっているのだ、と。

 

 当時はまだ友人の、田中からの情報提供であった。

 

 純真無垢だったぼくは、その情報を信じ、河原へと向かったのである。

 

 目を皿にして、エロ本を探し歩いていた。

 今にして思えば、完全に不審者の行いであった。

 おそらくは、子供でなければ、逮捕されていただろうと思える。

 だがそれも、振り返ってみればの話であって、当時はそんなことを考える余裕もなく、ただひたすらに心の奥底のむらむらに突き動かされるまま、エロ本を探し続けていた。

 

 どれほど歩いたことだろうか? 今となっては覚えがない。

 それは数時間にも及ぶ長い長い道のりであったようにも思えるし、ほんの短い一瞬の道行だったようにも思える。いずれにせよ、ぼくは鴨川の縁を歩き回り——そして、ついにそれを見つけた。

 

 ビニールの紐で括られた、エロ本の束である。

 

 ぼくは感涙の涙を流した。この世に善人はいる。この世に救いはある。神はぼくを見ていてくださる。エロは——恵まれぬ青少年にも微笑むのである。

 

 奇跡の存在を確かにその身に感じ、全霊の感謝を捧げながら、ぼくはそのエロ本の束に手を伸ばし、そして——横から伸びて来たもう一つの手とぶつかった。

 

「——む、なんだ、クソガキめ。こりゃわしのだ、やらんぞ」

 

 小汚い爺であった。

 

 髪の毛は脂に塗れ、手足は汚く、歯は黄色。そのくせ、目だけはギラギラと輝いている。

 妖怪変化の類かと思った。

 

 だから——ぼくは。

 

「おい、なんとかいうたらどうだ——へぶっ!」

 

 彼を殴った。

 それはもう、めちゃくちゃに殴った。ボコボコにした。

 

「ええい、クソガキが! そっちがそのつもりなら容赦はせんぞ!」

 

 そして、殴り返された。

 栄養状態も悪い浮浪者のくせに、力は無駄に強かった。多分、大人と子供の差もあった。ぼくは殴り、殴り返され、そしてそのうち、一方的に殴られるだけになった。

 

「きゃっきゃっきゃ! クソガキめ、大人を舐めるな! 大人を舐めるな!」

 

 勝ち誇ったその叫びが、今でも耳にこびり付いている。

 だがそれでも。

 それでもぼくは、エロ本を諦めきれなかった。

 

「えっちなものが、見たい」

 

 ぼくは言いながら、彼の足に縋りついた。

 汚くて、臭かった。

 毛も生えていて、モサモサだった。

 それが汗でしっとりして、最悪だった。

 それでも。

 

「えっちなものが、見たいんだ」

 

 ぼこすかと殴られながらも、ぼくは決してその臭い足を、離すことはなかった。

 そして。

 

「……負けたわい」

 

 殴り疲れたのだろう。彼は肩で息をしながら、ついに地面に座り込んだ。

 ぼくはまだ——彼の足に縋りついたままだった。

 

「ふん、仕方がない。このエロ本はわしのだ。わしのだが——お前にも、分けてやるわ」

 

 そして——ぼくは師匠のねぐらに招待された。

 

 乾電池が電源の、薄暗い裸電球の下で、ぼくは師匠とエロ本を分かち合い、そして彼から、様々なエロ知識を授かった。その時からである。ぼくが彼を、師匠と呼び従うようになったのは。

 

 師匠は厳しくも優しかった。ぼくにエロのなんたるかを教え、同時に、紳士のなんたるかもまた教えてくれた。ぼくが今一人の紳士として童貞を守り貫いているのも、師匠の教えがあってこそのことである。

 

『男児たるもの、浮つくべからず。二十歳を過ぎるまでは童貞であるべし』

 

 なぜ、二十歳が基準なのか。

 それは教えてもらえなかった。

 でもなんとなく、童貞でいることが、かっこいいことみたいに思えた。

 今にして思えば、なんか、それもそれで間違いであるような気もしてくる。

 それでも、彼はぼくの師匠だった。

 間違いなく、師匠だったのだ。

 

「師匠……」

 

 彼の名を呼ぶ。

 

 ぼくがバイトを始めたのは、水泳部を辞めてからのことだった。

 

 ある時は、鴨川に捨てられたエロ本を夜な夜な拾い集め。

 ある時は、鴨川に放たれたワニガメを指を食いちぎられそうになりながら捕獲し。

 ある時は、六股を掛けて死にかけた屑男をその女たちから逃し。

 ある時は、師匠を追う借金取りと大立ち回りを演じ。

 ある時は、酔い潰れた師匠を介抱し。

 ある時は、警察に捕まり掛けた師匠の身元引受人となり。

 ある時は、ある時は、ある時は——

 

「ろくな思い出がねぇ」

 

 ぼくは泣きながら石を積んだ。

 嫌な思い出しかなかった。

 バイト代も、ピンハネされていた。

 よく考えたら、報酬一万円とか言っても、朝から晩まで駆けずり回ってそれだったら、大した金額でもなかった。

 こちらが仲介料を払うことを考えたら、むしろ安かった。

 労働力を、不当に搾取されていた。

 

「師匠……」

 

 石を積む手に、変な力が入る。

 思い返すと、ちょっとムカついて来た。

 文句の一つも、言ってやりたかった。

 だけど——

 それはもう、叶わないのだ。

 

「師匠——」

 

 どれだけ呼んでも、彼はもう帰ってこない。

 彼に文句を言うことも、出来ないのだ。

 

「う、う——」

 

 歯を食いしばる。涙が、こぼれ落ちた。

 ろくな思い出がない。

 くだらない、薄汚い、にちゃついた記憶しか無い。

 ろくな人間ではなかった。

 ろくな大人ではなかった。

 ろくな師匠では、なかった。

 だと言うのに、なぜだろう。

 涙が、止まらないのは——

 

「どうして——」

 

 涙を流しながら、ぼくは石を積み終える。

 不格好で、とても墓だなんて言い張れない、単なる石の塔だ。

 残せたものは、こんなものだけ。

 彼が生きていた証は、今や、ぼくの心の中にしか、無いのだ。

 

「ふ、う、うう——」

 

 溢れる涙を、必死に堪え、ぼくは前を向く。

 いつまでも、泣いてばかりではいられない。

 いられないのだ。

 

 ぼくは石塔の前で手を合わせ、師匠を偲んだ。

 師匠、師匠、あなたの仇は取りましたよ。

 どうか今後は、地獄からぼくを見守っていてください——

 

「——これ、勝手に人を地獄に落とすでないわ」

「いやでも、師匠は地獄行き以外にはありえないでしょう——って、え?」

 

 ぼく今、誰と話してるんだ?

 弾かれたように背後を振り向く。

 そこにいたのは——

 

「し、師匠!?」

 

 いつもより服がボロボロではあるが——そこにいた人物は確かに、ぼくの師匠たる浮浪者だった。

 彼は片手をあげてぼくに微笑む。汚らしい黄色い歯が見えた。

 

「やあ、伊江郎」

「化けて出られたのですか!?」

 

 ぼくは臨戦体制を取る。いくら師匠といえど、物の怪の類に成り果ててまでこの世に執着しようというのならば祓うしかない。

 

「阿呆、化けて出てたまるか。生きておるわ。足を見ろ足を、ちゃんと付いているであろう」

 

 ぼくは咄嗟に師匠の足元を見る。そこには確かに、いつから洗っていないのか、毛も生え放題の、汚らしい浮浪者の御御足があった。

 

「確かに、汚らわしい足が二本、ちゃんとあります」

「うむ、そうであろう」

 

 って、誰の足が汚らわしい足じゃ。

 ぺしん、と頭を叩かれる。

 その感触も——確かにあった。

 

「師匠——本当に、生きておいでなのですか」

「うむ。生きておるぞ、伊江郎よ」

「うう——ししょおおおお!」

 

 溢れる涙と感情のままに、ぼくは師匠に抱きつく。師匠は「ぐはっ」と歓喜の声をあげて、ぼくの抱擁を受け入れてくれた。

 

「師匠、ぼくはてっきり、あなたがあの濡れ女に食べられてしまったものと——!」

「うむ、食べられかけたのであるがな、なんとか逃げおおせたのだ」

 

 師匠はぼくの頭を水気のないカサカサと枯れた手で撫でながら言う。

 さすがは師匠だ。いやむしろ、師匠ならば当然だ、と弟子としては思うべきだったのだろう。海千山千の浮浪者である師匠にしてみせれば、濡れ女から生き残ることなんて、きっと朝飯前だったに違いない。ぼくは一度でも師匠が食べられて死んでしまったものだと思い込んだ自分を、深く恥じた。

 

「しかし——厄介なことになったな」

 

 師匠の服に涙と鼻水を擦り付けていたぼくをやんわりと引き剥がしつつ、師匠は言った。どうせもう襤褸なのだから、塵紙代わりにくらいしか使えぬだろうに、狭量なことである。

 

「お前の親父も、えらいことになってしもうた。連中、無茶苦茶しよるわ」

 

 どかり、と地面に座り込んで、師匠は言った。

 

「師匠、なんとかなりませんか?」

「なんとかとは?」

「こう、神通力か何かでえいやとやっつけるとか」

「んなもん、出来るなら一張羅がおじゃんにされる前にやっとるわい」

 

 師匠はふん、と鼻を鳴らす。

 

「では何か、鬼退治の方法を、思いつきはしませんか?」

 

 あの影鰐の時のように、せめて策を——倒す手段を、教えてもらえたなら。そう思ってぼくは問うが——師匠は首を傾げる。

 

「む? 鬼じゃと?」

 

 ああ、そうか、師匠はあらましを知らぬのであった。

 思えば昨夜から、あまりにも色々なことが急速に起こりすぎているのだ。

 ぼくは改めて、ことの次第を語ってみせた。

 

「——と言うわけで、敵の首魁は、石海椿なる鬼なのですよ」

 

 鬼の恐ろしさは、師匠ならば知っていることだろう。あらゆる妖怪の頂点にして、古き時代、神に挑んだ咎なる者どもの末裔。全ての妖魔の頂点にして、あらゆる怪力乱神の祖。怪力無双、妖力無限、不死不滅——

 

「うむ、それは知ってはいるがな——しかし」

 

 師匠は、顎に手をやった。

 生え散らかした髭を、もしゃりと撫で、口を開く。

 

「その女は——鬼ではないのではないか?」

 





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