◯
「猫ちゃ〜ん。出ておいで〜」
蓋を開けた猫缶を片手に、道端で積んだ猫じゃらしを振り回しながら、反吐が出そうな猫撫で声を必死になって張り上げる、無様な不審者がそこにはいた。
ぼくである。
「怖くないよ〜?」
嘘である。
齢十六を超え、声変わりも仕切った大の男が、可愛こぶった猫撫で声を張り上げながら、生臭い匂いの缶詰を片手に、草穂をぶんぶんと振り回しながら街を練り歩く。その状況を恐怖と言わずなんと言おうか。
すでに、一時間が経過していた。
街中には通勤途中のサラリーマンや、生真面目な学生どもがうろつき始め、その尽くがぼくとすれ違うたび、ギョッとした顔を向けてはそそくさと早足で立ち去ろうとする。
悲しい気持ちになった。
ああ、ぼくはどうしてこんな目に遭わなければいけないのだろうか? 迷い猫を飼い主の元に届けるという社会貢献をしている最中だというのに、誰もがぼくを狂人か何かのように見る。おかしい、何かが間違っている。心の奥底で涙を流しながら、ぼくは街中を練り歩いていた。
迷い猫の姿は見えない。それどころか、野良猫の姿さえも全く見えない。
猫。ああ猫。どうして探し求める時に限って、こうも姿を隠すのだ。呼んでもいない時には毎日飽きもせず我が家に訪れ、花壇に糞を放り捨てては御母堂の眦を吊り上げさせている癖に、どうして呼びかける今この時には、影も形も見せぬというのか。今ならば怒り狂った母の箒の一撃ではなく、一時間外気にさらされてやや乾燥したこの猫缶をくれてやれるというのに。
「にゃあ〜ん。にゃあああ〜ん?」
人間の声であるからいかんのだ。猫を呼ぶに人語で話しかけてなんとするか。畜生に人の言葉などわかろうはずもない。そう、あの全裸のけだものに人の言葉が通じぬように。畜生には畜生の言葉というものがあるのである。
ぼくは猫になりきった。人のステージから畜生のステージへと駆け下り、周囲の目が一層厳しく、また深い哀れみを帯びるのにも構わずに、必死になって鳴いてみせた。
「にゃああん! にゃおおおおん!」
人の心が涙を流そうとするのをじっと堪え、獣心となって声を上げる。それもこれも、福沢諭吉と見えるためだ。天は人の上に人を作らず。しかして人の下に獣を作った。ぼくは今この時、間違いなく人の下に潜り込んでいた。それでも良い。彼の大先生と再び見え、学びを授かることができれば、また人に戻れる機会もあろうというもの。プライドなど捨てよ。お前は人ではない。猫なのだ!
言い聞かせているうちに、ぼくはいつのまにか、再びふらふらと鴨川の川辺に引き寄せられて行った。そう、元は家猫といえど、猫としての本能がある。せっかく家出をしたのなら、文明の中よりも大自然に帰ってみたい。そんな本能がむくむくと顔を出してしまうのも、仕方のないことではないか。
ぼくは川の土手からさらに逸れて、茂みの中へと入り込んでいく。草葉が腕や顔に擦れ、わさわさと肌を撫でる。その上に纏わる文明の残り香を拭い去るようだ。
「にゃぁ〜ん?」
草むらの中をゆっくりと移動しながら、呼びかける。今やぼくは一匹の猫。同胞を探しお散歩中だ。へい、そこのお嬢ちゃん。ぼくと一緒に遊んで行かない? いいうんこスポット、知ってるよ。
「にゃおん」
その時。
響いた鳴き声は、ぼく自身のそれではなかった。
鈴を転がすような高い鳴き声。鼓膜がピンと張るのを感じる。間違いない。
これは、これは同胞の声だ。
逸る心を抑え、ことさらに心掛けて気配を消す。これこそ猫の礼儀作法。闇雲に気配を誇示し、他者のテリトリーに土足で踏み込むのは田舎猫のやることだ。
「にゃぁ〜ん……」
か細く声を返しながら、ゆっくりと声が聞こえた方に移動していく。かさかさ、と微かに草葉の揺れる音。それが聞こえたのは、ぼくの足音ではないところから。どこだ。どこにいる?
「にゃおん」
鳴き声。先ほどよりも大きく聞こえた。近い。距離はもう、十メートルもないのではないか?
どくりどくりと、心臓の鼓動がうるさいほどに大きくなっていた。かさかさ、がさがさ。こちらもまた草をかき分け、相手を探す。
「にゃーん」
「にゃーん」
声の応酬。そこに逃げの気配は感じられなかった。間違いない。向こうもまた、こちらを探しているのだ。
手に汗を握る。ここで焦って驚かせては本末転倒。ことさらにゆっくりと動きながら、言葉によるコミュニケーションを試みる。
「にゃぁーん」
猫ちゃん猫ちゃん、出ておいで。怖くないよ。本当だよ。
「にゃおん」
返事が聞こえたのはすぐそこからだ。もはや、距離は五歩もない。
慎重に辺りを見回す。視界の裾で、揺れる草の影。それは断じて風に遊ばれたものではない。いる。そこに、いるのだ。
「にゃーん……」
猫撫で声を出しつつも、ぼくはしたり顔でそちらへ踏み込む。ここまで来れば、もはや遠慮は不要。何が同胞だ、猫畜生め。鳴き真似になどまんまと騙されおって。なかなかに手強かったが、所詮は家猫。猫と人の区別もつかぬお前に、野生は向いていない。大人しく捕まり、そして諭吉に変わるがいい。
ぼくは枝葉をかき分け、一気呵成に草むらから飛び出した。
「「にゃっ……」」
声が詰まったのは、ぼく一人ではなかった。
そこには鏡があった。
右手には猫缶。左手には猫じゃらし。
奇しくも同じ構え。
違うのは、草枝の破片で汚れた制服が、男性向けであるか、女性向けであるかの、その一点だけだった。
「……何をやっているんだ、お前は」
気恥ずかしさにか、頬が赤くなる少女に、ぼくはいう。おそらくは同じ表情になっているのだろうなという自覚を、努めて棚の上に押し上げながら。
「いや、それはこっちのセリフなんだけど〜……」
スカートの裾を払いながら、彼女は唇を尖らせてしゃがんだ姿勢から立ち上がった。
対面したのは、人間二人。
茂みの向こうに、猫の姿など影も形もありはせず。代わりにそこにあったのは。
低い背、ない胸、童顔、糸目。
それを探しにやって来た、ぼくのクラスメイトにして幼馴染の、
感想、評価、お気に入り登録、ここすきなどなど、して頂けると励みになります!
よろしくお願いします!