◯
ジョセフィーヌは老婆に抱かれ喉を鳴らしていた。
「見つけてくれてありがとうございます」
涙を流しながら、深々と頭を下げ、老婆は帰っていった。
「本当に、無事見つかって良かったよ」
彼女はほっと胸を撫で下ろす。自分のことではないだろうに、感情移入の上手いやつだ。
「だってさ、ここ最近、色々と物騒な話があるじゃない? もし見つからなくて、最悪の事態になってたら、と思うとさ」
本当、無事に見つかって良かった、と、彼女は真剣な表情で繰り返す。
「物騒な話とはなんだ。猫を殺して回る殺猫鬼でも出ているのか?」
ぼくが冗談めかして聞けば、彼女はけれど笑うこともなく、表情を変えずに答えた。
「猫を殺して回る殺猫鬼はいないけれど——人を殺して回る殺人鬼なら、出てるじゃない」
そう言われて——ぼくは首を傾げる。
「殺人鬼?」
「あれ、知らないの? 朝のニュースでもやってたでしょ?」
なんて言われて、そういえばと思い出す。天気予報目的で見ていたニュース番組で、殺人事件についてのニュースが出ていたはずだ。確かそれは——京都市内の話で——
「今朝の事件で、三件目、だってさ」
どのような事情があって断定されたのかは知らないが、同一犯。被害者は、今日までに三人。京都市内、都市部での犯行だ。
怖いよね——と、彼女は言う。
「人殺しと混同しちゃダメかもだけど、もしもジョセフィーヌちゃんが、って思ったらさ」
怖いよ、と彼女は言った。
「だからこそ、心の底から、無事で見つかって良かったねって」
そんな不安を本気で抱えていたのならば——そりゃあ身を粉にしてまで探そうとする訳だ。
「お人よしだな、お前も」
ぼくは言った。彼女は「そんなんじゃないよ」というが、彼女がお人よしでなかったのなら世の大半の人間は極悪人だ。
彼女は何かを誤魔化すように頬を掻いて、「あ、そうだ」とわざとらしく手を叩く。
「頑張ってくれた君にも、お礼しないとね」
彼女は言って、己の財布を取り出した。
「はい、これ、依頼料」
「いらんよ。同級生から金をむしろうというほど強欲ではない」
ぼくは言って、差し出された三万円を突き返した。
……三万円?
「えっ? あのおじさんに聞いたら、その値段だって言ってたけどー?」
あの爺、二万もピンハネするつもりだったのか。
こちらからも仲介料としてイカをせしめておきながら、なんと業突く張りな爺であるのだろう。
ぼくは密かに怒りを燃やしつつも、彼女の差し出すそれを務めて固辞した。
「もう受け取らないと決めたのだ。ぼくに一度吐いた言葉を嘘にさせないでくれ」
ぼくは言った。いかにも格好のいい台詞で、我ながら惚れ惚れしたが、彼女のとってはそうでもなかったようで、「そこまでいうなら……」と渋々財布に金をしまっていた。ぼくはそれを見て密かに暗い笑みを浮かべる。これでぼくの給金はゼロになったが、同時に師匠の元へ流れる金も無かったことになった。死なば諸共。師匠を不当に儲けさせるくらいならば、己が損をする方がマシである。ざまを見ろ。人を都合よく利用しようとするからこういう目に遭うのだ。搾取反対。悪銭身につかずこそ世の法則であるべきだ。これに懲りたら、次からはせめて折半を限度とすべきである。
ぼくが悪どく笑っているのを不思議そうに眺めつつ、潤果は「それじゃあ……」と鞄の中をガサゴソと漁った。
「代わりに、って言ったら見劣りしちゃうけど——お昼ご飯、一緒にどう?」
なんて言って、彼女は鞄の中から大きな重箱を取り出した。
「お前……どれだけ食う気だったんだ?」
かつて水泳部として全力で肉体を行使していたぼくでさえ躊躇う量のその弁当に、ぼくは密かに震える。お前そんなに食太い方だったか? ぼくが知る限りでは、その四分の一も食べられないだろう、お前。
「うるさいな。いいでしょ! ちょっと作りすぎちゃったの! とにかく、食べるの? 食べないの?」
彼女に聞かれて——ぼくは素直に、その好意を受け取ることにする。
「同級生から金をむしるほど落ちぶれちゃいないが——同級生の飯の誘いを拒むほど、狭量でもないつもりだ」
ありがたくいただくよ、と言えば、彼女はにへらと笑った。
「良かったー。それじゃあお昼、楽しみにしててね」
イタズラっぽく言って、彼女は満面の笑みを浮かべる。
ぼくは期せずして浮いた昼食代にほくそ笑みつつも、彼女の弁当に期待を馳せる。瀬来目潤果という少女は、これでいて料理上手なのだ。彼女の作った飯は、ともすれば我が御母堂の料理にさえ匹敵する。
今日の昼飯は豪勢になった。それがどんな意味を持つかもわからずに、ぼくはただ、それだけを思っていた。
◯
教師の唱える念仏のような授業内容は、睡眠導入にいかにも適していた。迫り来る眠気の荒波に必死に抗いながら、ぼくはなんとか午前の授業を乗り切った。人間たるもの、勉学には励むべきである。別段、福沢諭吉のフォロワーというわけではないが、しかし水泳という曲がりなりにも運動部として認められ、あるいは進学の際には推薦の理由ともなりうる(どう考えても、これは社会的な過ちであると指摘せざるを得ない)活動を止めてしまったこのぼくにとって、すがれる縁はもはや勉学しかないのである。そこで結果を残せなければ、哀れ水底に逆戻りだ。我が足を引き摺り込まんと目を光らせている半裸の変態の手から逃れるためにも、ぼくは成績を落とすわけにはいかないのである。
そんな切実極まる事情もあって、石に齧り付くがごとき根性で必死に落ち掛ける意識を約四時間に渡り繋ぎ止め続けたぼくには、待ち望んだご褒美の時間がやってきた。
すなわち、昼食である。
「待ってたよ〜」
なんて呑気に手を振るのは、我が幼馴染、瀬来目潤果。朝の約束をすっかり忘れたなんてことはないようで(そんなことがあったら泣き叫んでいる)、彼女はぼくと共に昼食を取るべく、この屋上を待ち合わせ場所に指定した。
私立新神海岬学園は今時の学校としては本当に珍しく、屋上が一般生徒に開放されているのである。
風が吹き晒す、頑丈なフェンスに囲われた屋上。他の生徒がぽつりぽつりと小規模なグループを作っては昼食をとっている様に紛れ、ぼくらもまたその一角に腰を据える。
小さなベンチまでをも完備したそこであるが、ベンチの絶対数が少ないため、流石にそれを抑えることはできなかった。ぼくらは負け犬らしく床に直接這いつくばり、潤果の持ってきたお弁当を広げる。
「今日はね、伊江郎くんの好きなものをたくさん作ってきたよ〜」
なんてにやにやと笑う彼女に、ぼくは何を作ってきてくれたんだろうと首を傾げる。唐揚げか、ハンバーグか、あるいはカツ丼が弁当になっているということはあるまいが——
なんて楽観極まる考えをしていたぼくの目の前で。
「ほら」
と、重箱の蓋が開けられる。
そこには——
きゅうり。
所狭しときゅうりが——詰められている。
「きゅうりの浅漬け、大好物だもんね!」
なんて彼女は微笑むが——
「ちがう」
ぼくは否定する。
ぼくの好物がきゅうりだと? 冗談はよしてくれ。
「きゅうりなど、人間の食べるものではない」
「いや人間の食べるものだよ」
彼女は冷静に否定するが、しかし考えてもみてほしい。
この飽食の時代、食品廃棄が社会問題になるほどに、栄養満点な食料がそれこそ腐るほど溢れている現代社会で、何故きゅうりなどという栄養のかけらもない貧弱な食品をわざわざ口にする必要があるであろうか?
水分がその九十五パーセント以上を占め、世界一栄養がないとさえ謳われる究極の低栄養食だ。そんなもの、人間様の食べるものではない。織田家の家紋を彩るがせいぜいの観葉植物だ。この長っちょろく、刺刺と偉そばり、緑腐った太々しい様を見よ。まるで魔界の植物だ。こんなものを常食していれば、そのうち色素が肌に浮き出て、全身が緑色になってしまう。
「君はカービィか何かなの?」
彼女は首を傾げて言った。
「それにきゅうりに栄養がないってデマだし。カロリーは少ないけど、栄養はちゃんとあるんだよ?」
何よりも——
「伊江郎くん、
その言葉に——ぼくは喉を詰まらせる。
そう、それは苦い過ちの記憶だ。
かつてぼくは——このきゅうりという不気味極まる植物を、悍ましくも好んで口にしていたのである。
間違いなく、恥ずべき過ちだ。きゅうりなんてものを毎日のように貪り、あまつさえ美味い美味いと叫んでいたのである。
きゅうりなぞ人間様の喰らうものではなく、所詮は——
そう。
河童は、きゅうりを喰らうもの。
その伝承の発祥が果たしてどこであるのかなど知ったことではないが——しかしそれが真実であることは、我が父を見ていればわかるというものだ。
三度の飯よりきゅうりが好き。
職場への弁当として、きゅうりの浅漬け十本を鞄にぶち込み出かけるような有り様である。
当然——その血が半分も流れてしまっているこのぼくが、きゅうりなんてものを食べた日には。
つまり、平たく言えば。
ぼくはきゅうりを食べると——禿げるのである。
「食べない」
箸で摘まれ、口元にまで差し出されたきゅうりの浅漬けを、ぼくは断固として拒絶する。
「そんなこと言ってー、よだれ垂れてるよ」
「垂れてない」
嘘だった。
ああ、ぼくの体、ぼくの口よ、どうしてお前はそうも節操がないのだ。人としての誇りを、一体どこに捨ててきた。
鼻腔を芳しく爽やかな草葉の香りが誘う。これを青臭いと表現するものもいるが、ぼくにはまるで理解できない。臭さ、などかけらもない、食欲をそそる最上の匂いだ。それを目の前にちらつかされれば、ああ否応もなく、よだれが口から溢れてしまう。
なんと卑劣な罠だろう。甘い毒も良いところだ。こうも品性下劣に人を誘い、その食欲を掻き立てる植物など聞いたことがない。いわんや食べられるのが役目の果実でさえ、こうも赤裸々に人を誘い、恥じぬことなどありはしないだろう。そう、きゅうりとは、まるで淫乱なのだ。
淫靡極まるきゅうりが、ぼくの目の前で踊っている。一度食めば、まずその食感が歯を楽しませるのだろう。ぱきりとした歯切れの良い食感は、地上のどんな食物にも勝る黄金の食感だ。その次には舌の上で緑が踊る。適切に塩で揉まれ、出汁に漬け込まれたそれは、きっと味が良くしゅんでいる。きゅうり本来の鮮やかな瓜の滋味が、塩と出汁によって引き立たされ、喉奥に落ちるその瞬間まで、口内を幸福で満たし続けるに違いない。
それがわかっているからこそ、憎らしい。ああ、許せない。お前はどうしてこうも美味しく生まれついた。どうしてそうもうまくありながら——人の身を蝕む猛毒なのだ。
「……食べて、くれないの?」
歯を食いしばって耐えていれば、潤果は不安そうな顔でこちらを見上げた。
ああ、卑怯だ。ずるい。憎らしい。
ぼくは。
ぼくは——
「どーお?」
「……美味い」
パリパリと、しゃくしゃくと、口の中で緑が踊っている。
負けた。
誘惑に。憐憫に。友情に。
ぼくは負けて——きゅうりを口に、迎え入れた。
美味い。
ああ、美味い。
噛み締めるほどに、どれだけ拒絶しようとも、腹の底から幸福感が湧き上がる。
「美味いよ、潤果」
毛根が死にゆくその断末魔を幻聴のように聞きながら、ぼくは言った。
彼女の作ってくれた、そのきゅうりの浅漬けは——涙が出るほど、美味かった。
感想、評価、お気に入り登録、ここすきなどなど、して頂けると励みになります!
よろしくお願いします!