初出:2025/08/08 あにまん掲示板
【SS:ターボ・マーチャン 「記憶のかけら、いのちの返歌」】
pixiv様にも置いています。
【起】第1節:ツインターボと古い歌集
空が、どこまでも、青い。
アスファルトを焼く陽射しがじりじりと音を立てて、世界ぜんぶが、大きな生き物みたいに息をしている。
七月の匂いがする。でもほんのすこしだけ、風向きが変わった。夕立が来る前の、あの特別な匂い。この夏、なにかが始まる、そういう予感がした。
トレーニング終わりの身体は、正直で、素直だ。汗が噴き出して、心臓がばっくんばっくんうるさくて、ターボのぜんぶが「生きてる!」って叫んでる。
気持ちいい。このままどこまでだって走れちゃいそうな、無敵の感覚。
でも、今日はまっすぐ寮には帰らない。タオルでごしごし顔を拭いて、向かうのは、部活終わりのカフェテリアでもトレーナー室でもなく。
ターボが向かう先は、図書室。
静かで、たくさんの本が息を殺している、あの場所。
ツインターボは走るのがいちばん好きだ。でも、それだけじゃない。
面白いマンガも、磨いたゲームの腕だって、ぜんぶ、ターボの大事なもの。そしてその中に、「書道」っていうのも、まあ、あったりする。
実直でまっすぐで、太い線で達筆を描く。あの、しいん、とした感じは嫌いじゃなかった。ターボの周りから、音が消える。墨の匂い。真っ白な半紙。
その静かな集中も、それはそれで悪くない。
一見すると、本とは無縁そうに見える快活な人物像かもしれない。でもターボは、必要だと思えばまっすぐに、図書館のドアだって開けるのだ。
自動ドアが開いて、ひやりとした空気が肌を撫でる。外の熱気が嘘みたいな別世界。本を傷つけないための、やさしい温度。
ターボは息を殺して、つま先で歩く。図書館ならではの、特別な静寂を壊さないように。
なんとなくの気まぐれで、書道の分野を扱った棚をめざしてみる。図書室の一番奥へ。
窓から差し込む西日が、床のワックスに反射して、きらきら光る道を照らしていた。
ほこりの粒が、その光の中で、まるで生き物みたいに踊っている。きれいだ、と、思った。
ずらり、と並んだ背表紙を指でなぞっていく。そのときだった。
ふと、近隣の棚が気になった。
文学、と書かれたプレート。小説とか、詩とか、ターボにはよくわからない本が並んでいる。その中に、一冊だけ。あった。
仲間外れみたいに、その本だけが、古かった。背表紙は太陽の光を吸いすぎて白く日焼けして、タイトルさえも掠れて読めない。
でも、なぜか、その本がターボを呼んでいるような気がする。おいでおいで、って。手招きしているような、そんな声が。
ターボは、自分の直感を信じることにしている。レースのときも、いつもそうだ。いまだ! って思ったら、もう身体が動いてる。
だから、ターボは、呼ばれるままに、その本をそっと棚から引き抜いた。
ざらり、とした表紙の感触。指先に、遠い時間の匂いがした。インクと、日に焼けた紙と、それから、知らない誰かの、すこしの汗。ページを開く。
そこに在ったのは、ターボが今まで見てきたどんなお手本とも、違っていた。
整ってはいない。むしろ、少し崩れている。でも、ひとつひとつの文字が、まるで心臓みたいに、どくどくと脈打っていた。これは、生きてる文字だ。そう思った。読めない文字もたくさんある。それでも、目で追える言葉を、ターボは夢中で拾い集めた。
誰ひとりターフの上じゃ追わせないこの足音だけ響かせてやる
一番でなければすべて無意味だとこの魂がそう叫んでいる
夕暮れの影をも追い抜きただ笑う光でさえも後ろ姿だ
「……えっ」
声が、漏れた。慌てて口を押さえる。静かにしなくちゃ。でも、無理だった。心臓が、うるさい。どっかーん、て、今にも破裂しそうなくらい、大きく鳴っている。なんだこれ。なんだこれ!
すごい、と思った。そして、とても、ふしぎだ、とも思った。
顔も知らない。名前も知らない。何百年も前に生きていた誰かなのかもしれない。なのに、その人は、ターボとまったく同じことを考えていた。
一番になりたい。誰にも負けたくない。光よりも速く。その、燃えるような気持ちが、三十一文字の言葉の中に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
くらくらした。これは、レースのスタート前に似ている。ゲートが開く、その瞬間の、世界がぎゅっと縮こまるような、あの感覚。
その本を見つめる眼差しに、力がこもる。
これは、挑戦状だ。
昔の誰かが、未来の誰かに叩きつけた、言葉のレース。
その、どうしようもない高揚感に、唇の端が、自然とつり上がっていく。
ターボは笑っていた。カウンターへ向かう足は、もう忍び足じゃなかった。わくわくして、心が走り出している。早く部屋に帰って、この本を、もっともっと読みたい。そして、いつか。
いつかターボも、この言葉のレースに参加してみたい。
ターボはまだ、この一冊が、もう一人のウマ娘と自分とを繋ぐ、運命の始まりになるなんて、知る由もなかった。ただ、新しくて、とんでもなく面白い「遊び」を見つけたことに、胸を躍らせていた。
そんな、夏の盛りの、ある日の出来事だった。
【起】第2節:アストンマーチャンと心の標本
アストンマーチャンには、この世界で起きるすべての一瞬を、かたちにして留めておきたい、と願う癖があった。
だから彼女は、たくさんの音や光で満ちている場所を、むしろ好んで訪れた。放課後のラウンジの、楽しそうな声と、甘いお菓子の匂い。カフェテリアの、トレーニングを終えたウマ娘たちの熱気と、にぎやかなおしゃべり。そこに満ちる、きらきらとした生命のぜんぶが、彼女にとっては、次の瞬間にはもう二度と戻らない、うつくしいものに見えた。
その消えゆく一瞬を、こぼれ落ちる光の粒を、どうにかして繋ぎ止めておきたい。その想いが彼女にペンを取らせる。
彼女が向かうのは、静かな場所というより、集中できる場所。図書室の窓際の席。誰もいない夕暮れの屋上。あるいは、ただ、自分の部屋のベッドの上。そこで、小さな黒い革表紙の手帳を、そっと開く。
その手帳に言葉を書きつける時間は、マーチャンにとって、かたちのないまま消えていく心の揺らぎに、「思い出」という、確かなかたちを与えるための、大切な儀式だった。
手帳に並ぶのは、三十一文字(みそひともじ)の言葉の連なり。誰に見せるためでもない、彼女だけの歌。
マーチャンはこの言葉たちを「心の標本」と、密かに呼んでいた。
母が医者を務める病院。そこを実家として育ったマーチャンにとっては、標本という言葉は物騒だったり、かなしい響きを持つものではなくて。
マーチャンの記憶の原風景は、いつだって、あの病院の、白い廊下だった。消毒液の、ツン、とした清潔な匂い。規則正しく時を刻む、どこかの機械の電子音。磨き上げられたリノリウムの床は、彼女の小さな足音を、どこまでも響かせた。
廊下を歩きながら目を巡らせる。壁の染み、窓から見える木の枝の形、そして、壁の掲示板。
そこには、患者さんたちが作った作品が、画鋲で留められていた。色とりどりの折り紙。墨で書かれた習字。クレヨンで描かれた家族の絵。
その中に、ぽつり、ぽつりと、言葉の作品が混じっている。詩、俳句、川柳。そして、短歌。
マーチャンは、その掲示板を飽きもせず眺めていた。
そこに並ぶ言葉たちには名前がなかった。名もなき誰かが、何を思って、この言葉をここに遺したのか。その人は、今もこの病院のどこかのベッドで、窓の外を見ているのだろうか。それとも、元気になって、もうここにはいないのだろうか。あるいは。
あるいは、もう、世界のどこにも。
考えても、マーチャンには知りようがない。ただ、遺された言葉だけがそこに在る。その事実が、マーチャンの心を、ふしぎと掴んで離さなかった。
例えば、五・七・五の、短い言葉たち。
俳句を見て、思った。
(夏の雲、たしかに、あの窓から見える雲のかたちです。きれい。でも、これを書いた人がどんな人だったのか、想像する材料がありません)
川柳を見て、思った。
(『また痩せたと先生は言う肉よこせ』。ふふっ、と看護師さんたちは笑うけれど。でも、本当に言いたかったのは、これだけだったのでしょうか)
だれだって、ほんとうは病院でなんて過ごしたくはない。それでも、日々の移ろいをここで心に留める人たちが居る。
この言葉を紡いだ裏で、ほんとうは、泣いていたりはしなかっただろうか。
マーチャンは、言葉の奥にある、その人の心の「かたち」そのものに、触れたくなったのだと思う。
そんなある日、彼女は一枚の、少し黄ばんだ短冊を見つけた。そこには、震えるような、細い筆文字があった。
退院の日を指折りてひとりきり窓の木洩れ日やさしくそそぐ
その三十一文字を読んだ瞬間、マーチャンの見ていた世界に、「心」という名前の、新しい奥行きが生まれた。
その風景を見ていた「わたし」の心が、そこに現れている。退院を待つ、長い時間。希望と不安が入り混じった切実な気持ち。その人の見ていた時間の流れ、その人のベッドでひとりきりの孤独。その人の「物語」のすべてが、このみそひともじの言葉の中に、凝縮されていた。
これは、事実の記録じゃない。心の、記録だとマーチャンは感じた。
病院で、静かに時間を過ごす人たちが、最後に遺したいと願うもの。それは、客観的な風景でも、誰かを笑わせるユーモアでもない。「わたしは、ここにいた。そして、こんなにも、世界を愛しく思っていた」。そう叫ぶ、魂の、ほとんどわがままに近しい、純粋な祈りなのだと。
だから、彼女もまた、言葉を書き留めるようになった。俳句よりも、川柳よりも、短歌がたまたま彼女の性に合っていた。
黒い手帳の、空白のページ。そこに、どんな「心」を標本にして、残しておこうか。
窓の外に目をやる。夕暮れのグラウンドを、たくさんのウマ娘が走っている。その中に、一つだけ、違う光が見えた。まるで、夕闇そのものを切り裂いて進むような、青いツーテールの束。他の誰とも違う、めちゃくちゃで、まっすぐな、いのちの塊。
「ターボさん師匠は、今日もがんばっていますね」
ペース配分なんて考えない、目一杯大きなストライドで楽しそうに走る姿。マーチャンのしゅたたなピッチ走法とは主義が違うけれど、だからこそおもしろい。
自分にはないもの。自分が持てなかったものを持っている、まぶしい光。その青い光の尾を見ていると、胸の奥がすこしだけ、ちり、と痛む。
この感情に、まだ名前はない。
マーチャンは、ペンを取った。そして、生まれたばかりのその感情が消えてしまわないうちに、そっと手帳に書き留める。
夕闇を切り裂いてゆく光の束(たば) わたしの知らないいのちのかたち
誰にも見せることのない、秘密の歌。
この手帳は、彼女が世界から集めてきた、うつくしいものたちの唯一のすみか。マーチャンは静かに手帳を閉じる。明日もまた、世界はたくさんの光で満ちている。その中で、自分だけの光を探し続けるのだろう。
そう、思っていた。
彼女のまぶしい光と、自分の世界が交わる日が来るなんて、まだ、夢にも思わずに。
【起】第3節:ふたつの歌と七夕の邂逅
その日のターボは、なんだか身体がすごく軽かった。地面を蹴れば、そのまま空まで飛んでいけちゃいそうな、そんな感じ。
なんでかなって考えたけど、すぐにわかった。そうだ、今日は七夕だ。一年に一度だけ、星と星が会える、特別な日。
そんな日に、ターボの調子がいいのは当たり前。きっと夜空の星が、ターボに「いけー!」って、力を貸してくれてるんだ。
そう思ったら、もっと、身体が軽くなった気がした。胸の奥から、わくわくする気持ちが、しゅわしゅわのソーダみたいにあふれてくる。
その大きくて、あったかい気持ちを、ターボはすごく好きだと思った。
放課後。ターボは、寮の自室で、一冊の本を広げていた。
あの日、図書室で見つけた、古い歌集。
もう、何回読んだかわからない。表紙はぼろぼろで、ページをめくるたびに、古い紙の匂いがする。
でも、そこに並んだ三十一文字の言葉たちは、いつ読んでも、ターボの心を震わせた。
中庭に、大きな笹が立てられている、と誰かが話していたのを思い出した。短冊に願い事を書くと、叶うんだって。
「それだ!」
ターボは、歌集をぱたん、と閉じて、勢いよく立ち上がった。
願い事。ターボの願い事なんて、決まっている。一番になること。誰よりも速く走ること。でも、それをただの言葉で書くのは、今のターボには違う気がした。
あの歌集の言葉たちみたいに。
三十一文字に、ターボのぜんぶを込めて、星に届けてやるんだ。
そう決めたら、もうじっとしていられなかった。
中庭は、たくさんのウマ娘たちで、すごく、にぎやかだった。
大きな笹には、もう、色とりどりの短冊がたくさん結びつけられている。風が吹くたびに、さらさら、と笹の葉と短冊が擦れ合って、まるでたくさんの人がひそひそ話をしているみたいに聞こえる。
「G1制覇できますように!」
「にんじんスイーツ、毎日食べたい!」
「次のレースで、あの娘に勝ちたい…!」
みんな、それぞれの願い事を、それぞれの言葉で、星に託している。ターボは、そのひとつひとつを眺めながら、うんうん、と頷いた。
わかる。わかるぞその気持ち。みんな、必死で、全力で、ここにいるんだ。
ターボも、負けてられない。
少し離れた場所に設置された長机には、短冊と筆記用具が用意されていた。ターボは、たくさんの生徒が使う共有の筆ペンを手に取って。
「む~、ターボの筆、持ってくればよかったかなあ」
心の中で、ちょっぴり後悔する。自分の筆なら、もっと、びゅん! って、魂のこもった線が書けるのに。
でも、と、ターボはすぐに気持ちを切り替えた。ここで道具のせいにするのは、ターボの流儀じゃない。大事なのは、気持ちだ。
机の上で、ターボは短冊に向き直る。心が、しいん、と澄んでいく。よし。
さあ、書くぞ。
――でも、書き始められない。ターボは、真っ白な短冊を前にして、うーん、と唸った。
いざ書くとなると、言葉が出てこない。ただ「一番になりたい」じゃだめだ。もっと、こう、ターボらしい言葉。あの歌集の言葉みたいに、魂が燃えてるような、そんな言葉。
目を閉じる。思い浮かべるのは、レースの風景。ゲートが開く瞬間の爆発。地面を蹴る足の感触。風を切る音。ライバルたちの息遣い。そして、ゴールだけを目指して、まっすぐに伸びる、光の道。
そうだ。あの、誰よりも先に駆け抜ける、ただひとつの光。ターボは、あの光景の、真ん中に立ちたいんだ。
言葉が、少しずつ形になっていく。五、七、五、七、七。指を折りながら、リズムを確かめる。
リズムに合ってれば字余りも字足らずもOK。うん、これなら、いけるかもしれない。
ターボは、すぅ、とひと呼吸。短冊に走らせる、一文字、一文字の想い。ターボのぜんぶを、この小さな紙の上に、残していくように。
先頭はターボがなるんだ見てろよな! 誰にもぜったい追いつかせない!
よしできた!
自分の書いた短冊を見て、ターボは満足げに頷いた。気持ちが、ぜんぶ、ここにある。
ターボはその短冊を持って笹飾りに向かう。どうせなら、一番高いところ……はむりだけど、ぐっと背伸びをして、すこしでも高い枝に手を伸ばす。
そのときだった。
隣に、静かな気配を感じた。
そっと横を見ると、ターボと同じように短冊を結ぼうとしていたひとりのウマ娘がいた。
アストンマーチャン。
ターボは、彼女のことをよく知らなかった。そりゃ話したことは何度もあるけれど、いつもやわらかく笑っていて、いろんなところでみんなのことをやさしく眺めている印象。でも、彼女がどんなことを願うひとなのかなんて、ターボにはまったく想像がつかなくて。
夜にさしかかる夕暮れの光が、彼女の横顔を照らしている。色素の薄い髪がきらきら光って、きれいだ、と思った。
白い指先が、大事そうに短冊を持っている。そのひとつひとつの仕草が、まるでスローモーションみたいにゆっくりと見えた。
ふわり、と、風が吹いた。
笹の葉が、さらさらと鳴る。マーチャンの持っていた短冊が、風を受けてひらりと裏返る。
そこに書かれた文字が、ターボの目に飛び込んでくる。
ターボの強くて真っ直ぐな文字とは、ぜんぜん違う、やわらかくて、繊細で、まるで宝石を並べたみたいなやさしい文字。
短冊に書けない願い星に投げ 夜空に揺れてわたしのしるし
その歌を読んだ瞬間、ターボの心臓が、また、どっかーん、と、大きく跳ねた。
なんだ、これ。
なんだ、この感じ。
あの日、図書室で、古い歌集を見つけたときと、同じだ。いや、それよりも、もっと、強い。
目の前にいる、このはかなげな少女が書いた、たった三十一文字の言葉が、ターボの胸にまっすぐに突き刺さってくる。
悲しい歌じゃない。むしろ、すごく、すごく、あたたかい歌だ。なのに、なぜか、泣きたくなるくらい胸がぎゅっとなる。
ターボは、もう、考えるより先に、口を開いていた。
「マーチャン!」
大きな声に、マーチャンの肩がびくっ、と小さく震えた。ゆっくりとターボの方を振り返る。その大きな瞳が、少しだけ見開かれている。
「マーチャンの、その歌、なんかすごいね……!」
もっとうまい言い方があるだろうとターボは思う。でも、もう、言葉は口から出てしまっていた。
ターボは自分の短冊とマーチャンの短冊を、交互に見ながら。
「なんていうか、こう、きれーで、あったかくて、でも、すごく切ないっていうか……とにかく、すごい!」
自分でも何を言っているのかよくわからない。でも、そうとしか言えなかった。
マーチャンは、ぱちぱち、と、数回まばたきをした。ターボの顔と、ターボが持っている、まっすぐな文字で書かれた短冊を、じっと見つめる。
その眼差しに、ターボはなんだか、自分がはじめて書いた短歌が、とても拙いようなモノに思えてきて、恥ずかしくなってきたそのとき。
マーチャンが、ふ、と、ほんの少しだけ、笑った。
口元が、ほんのわずかに、緩んだだけ。マーチャンのいつもの表情なんて見慣れている。
でもターボには、それが今まで見たどんな笑顔よりも、綺麗に見えた。
「……ありがとうございます」
鈴が鳴るような、静かな声。
「ターボさんも、短歌を?」
そう言って、マーチャンは、ターボの短歌を指して。
「まっすぐで、ひかり、みたいです。とても、ターボさんらしい、歌です」
ひかり。
その言葉に、ターボの心臓がまた鳴った。なんだろう。この感じ。褒められてうれしい。でもそれだけじゃない。もっと、別のなにか。
「マーチャンも好きなの!? 短歌!」
ターボが尋ねると、マーチャンは、こくり、と小さく頷いた。
「はい、すこしだけ」
「ターボも! ターボもね? 最近、すごい面白い歌集を見つけたの!」
ターボは、興奮して、あの日見つけた歌集の話をした。昔の誰かが書いた、魂のレースみたいな歌の話。
マーチャンは、それを静かに、相槌を打ちながら頷いていく。その大きな瞳は、ずっとターボを、やさしげに見つめていた。
ひとしきり話した後、ターボははっとして、自分の短冊を笹に結びつけた。マーチャンもその隣に、そっと自分の短歌を結ぶ。
元気すぎるターボの歌と、静かで美しいマーチャンの歌。
ぜんぜん違う二つの歌が風に揺られて並んでいる。ターボには、それはなんだか不思議な光景にみえた。
「ね、ね、ね」
ターボは、もう一度、マーチャンに話しかけた。
「また、話、してもいい? 短歌のこと!」
マーチャンは、すこしだけ、驚いたような顔をした。そして、笑顔を綻ばせて。
「もちろんです。喜んで」
その瞬間、ターボは、確信した。
今日この日、この場所で、ターボの世界は、また新しくなったんだ、と。
夏の盛りの、七夕の夜。 二つの星が出会う夜。
ふたつの世界が、確かに、交わった。
空には、宵の明星がまたたき始めていた。これから始まる、新しい物語の始まりを告げるように。きらきらと、光っていた。
【承】交換日記と秘密の手帳
七夕の、あの不思議な夜に。たくさんの星が瞬く下でまた明日と約束をした。
たったそれだけのことを思い出すたび、ターボの足は、地面の歩き方をすこしだけ忘れてしまう。
一歩ごと、心がスキップしたがってしまうのがおさまらなかった。
次の日の放課後。
ターボからのメッセージを受け取って、マーチャンは約束の場所へ向かう。
カフェテリアは、トレーニングを終えたウマ娘たちの熱気と、にぎやかなおしゃべりで、いつも通り、活気に満ちている。マーチャンが窓際の席を見つけると、ターボはすでにそこにいて、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
「マーチャン! こっちこっち!」
天真爛漫なその笑顔は、マーチャンのまんなかをほんのすこしだけあたためる小さな太陽のようにも思えて。
その光に向かって、マーチャンの足はすこしだけ、歩みが速まる。
「おまたせしました、ターボさん」
「うん! 待ってた!」
そして、「これ!」とターボはかざす。夜空みたいな、深い青色の表紙のリングノート。
「交換日記をしよう、短歌の!」
その、あまりにもまっすぐな言葉に、マーチャンの胸が、ちいさな鳥みたいに、きゅっと鳴いた。
「こうかん、にっき」
「ターボは、マーチャンといっしょに短歌をしたいんだ」
「いっしょに、たんか」
自分のこれまでの日常にはないターボの発想に目を丸くして、マーチャンはターボの言を繰り返しながら、そのかたちをゆっくり、たしかめる。
たしかにわたしも短歌は好きだ。でも、短歌は、もっと静かなものだと思っていた。ひそやかにこころのかたちを留めておく、わたしだけの標本。
それがこんなにも、まぶしい光と、大きな音を立てて、目の前に現れるなんて。
太陽と月。轟音と静寂。駆けるひとと留めるひと。
なにもかもが違うはずの、あなたとわたし。七夕の夜をきっかけに、世界がすこしだけ、不思議なかたちに変わってしまったみたいだとマーチャンは思う。
「……わたしでよければ、ぜひ」
「ほんと!?」
「ターボさんと歌を詠む。それはぜったい、すてきなおもいでになるって、マーちゃんも楽しみですから」
やったあ!と 太陽みたいに喜ぶターボのとなりで、月は、ただ静かに、その光を受けとめる。
マーチャンの唇は、ターボのこれからを見守るような、やさしいかたちに、そっと綻んだ。
ターボは、宝物のありかを示す地図みたいに、わくわくした手つきで、ノートの最初のページを開いていく。
――こうして、ふたりだけの時間が、始まった。
その日から、ふたりの間には、あたらしい約束が生まれた。
トレーニングが終わると、カフェテリアのいつもの席で会う。汗の匂いの残る身体で、つめたいジュースのグラスを指でなぞる。そして、夜空みたいな青いノートの、あたらしいページを開く。
同じグラウンドを走り、同じ空を見ていたはずの一日。それなのに、ノートの上に生まれる三十一文字は、まるで、ちがう星で生まれたみたいに、いつも、ぜんぜん違うものになった。
――例えば、走ること。
「どう?! 今日のターボの、全力の歌!」
グラウンドを蹴りだす足が好きだ! と心臓がどっかんどっかん歌う
「ふふっ」
マーチャンは、その歌を、まるで、あたたかい生き物みたいに、指でそっと撫でた。
「ターボさんの歌は、いつも、音がしますね。どっかんどっかん、て。わたしの心臓まで、すこしだけ、元気になる音です」
「だろー! じゃあ、マーチャンのは?」
「わたしのは、これです」
マーチャンが、ノートの次のページを指さす。そこには、彼女の、静かで美しい文字が並んでいた。
あなたの背を追うわたしの眼差しが夕陽に焼かれてとけてしまいそう
「……とけて、しまいそう?」
ターボは、その言葉を、はじめて食べるお菓子みたいに、口の中で、そっと転がした。
とけて、しまいそう。夕陽に、焼かれて。
自分が見ていた世界と、マーチャンが見ている世界。同じはずなのに、ぜんぜん違う。
七夕のときから同じことをなんども思っているけれど。なんかいみても飽きないし、なんかいだって同じように、すごいな、と思う。
「ターボさんを見ていると、歌が、生まれるんです。わたしの中から、勝手に」
微笑むマーチャンがいう難しいことは、ターボにはよくわからない。
でも、ターボが、ただ全力で走ること。それが、マーチャンのこんなにも綺麗な歌になる。
その事実は、レースで一番になるのとはまたぜんぜん違う種類の「宝物」みたいに思えて。
ターボは、へへへ、と、どうしようもなく、照れくさそうに笑うのだった。
――例えば、猫のこと。
マーチャンは、いつも小さなインスタントカメラを持ち歩くようになった。
そして、心に留まった、なんてことのない風景を、切り取っていく。
「なんでインスタント?」
マーチャンが、いつもスマホでいろいろなものを撮影していることを知っているターボは、そうふしぎにおもった。
マーチャンは答える。
「ターボさんが用意したのは手書きのノートなので。これなら、写真をそのまま貼り付けられます」
「あ、そうかそれならノートに貼れるんだ! マーチャンすごい!」
ふふん、とマーチャンは自慢げに笑って。
「ふたりでたくさん撮っていけたらいいですね」
「うん! ターボのカッコいいところ、好きなだけ撮っていいよ!」
「ふふ。かっこいいところも、そうじゃないところも、ぜんぶです」
そう言って、マーチャンは、息を殺して、ファインダーを覗き込む。
中庭のベンチで、ひだまりに溶けている、一匹の三毛猫。
猫を中心に、世界のぜんぶから切り取られた、しずかで、四角い空間をみつめて。
ぱしゃり。
出てきたフィルムが、じー、という音を立てて、ゆっくりと、世界のかたちを思い出していく。
マーチャンは、その写真を、ノートに丁寧に貼り付けた。
「さあ、ターボさん。この子の歌を、詠みましょう」
「ええ!? ねこの歌……?」
「はい。この子は、今、どんな夢を、見ているんでしょうね」
ターボは、うーん、と唸りながら、すやすやと眠る猫を見て、頭を悩ませる。そして、ノートに、こう書いた。
あったかいコンクリの上ねこがいるターボもとなりで寝ちゃおうかなあ
マーチャンは、ターボの実直で達筆な筆跡を、ゆっくりと目でなぞる。
猫がいて、暖かい。だから自分もそこにいたい。なんてまっすぐな歌なんだろうと思う。
ターボそのものの、素直な歌。
「ターボさんらしい、すてきな歌ですね」
ターボにとってはどこがすてきなのかわからないけれど。
マーチャンは、笑って語りかける。
「……ターボさんのぜんぶが、この歌のなかに詰まっている。ちゃんと、存在してる。これは、すごい、歌です」
「そ、そう……?」
いつも褒められたら単純に喜ぶターボだけれど、こればかりは、すごいと言われても。と思わないでもないけれど
けれども、こうしてマーチャンがやさしく笑っているのなら、それは嘘ではないのだろうとも、複雑に思う。
「こんなのむずかしいよ、マーチャンが書いたらどうなるの?」
マーチャンは、すこしだけ考えて、ターボの歌の隣に、自分の歌を書き添えた。
あなたには聞こえますかこの静寂(しじま)猫の寝息にひそむ物語
「ものがたり…?」
「ええ。この子が見ている夢も、この子が生まれてから今日まで生きてきた時間のすべてが、物語です」
マーチャンのことばは、ターボにとってはいつも難しい。でも、それでよかった。
マーチャンの隣で、同じものを見て、違う歌を詠む。そうすると、ターボの世界は、ひとりでいるときより、ずっと、広くて、深くて、うつくしい色をしているように見えたから。
青いノートは、二人の「宝物」で、ページが増えるたびに、ほんのすこしだけ、重くなっていく。その、確かな重さが、ターボは、大好きだった。
――そんな日々が続いたある日、いつものカフェテリア。
ターボが少し遅れて着くと、マーチャンは、もう、窓際の席に座っていた。
ターボに気づいていないのか、視線をあげることなく、テーブルの上にある一点をじっと見つめている。
その姿が、いつもより、ほんのすこしだけ、儚げに見えた。
ターボは声をかけようとして、やっぱり飲み込んだ。なにか、特別な時間が、彼女の周りだけを流れているような気がしたから。
賑やかなカフェテリアの、たくさんの音や、光や、匂い。そのすべてが、マーチャンのいるテーブルの数センチ手前で、ふわりと避けて通っているみたいに。
それを壊さないように、ゆっくりと、彼女の席へと近づいていく。図書館で、音を出さないようにするみたいな歩き方で。
マーチャンは、一杯のメロンソーダを見つめている。
透き通った、うつくしい緑色の液体。生まれては昇り、水面で弾けて消えて行く小さな小さな銀色の泡。ただ、それだけのなんてことのない情景。
なのに、マーチャンの眼差しは、ただ涼しげな飲み物を見ている、というのとは、まったく違っていて。
まるで、大切な、二度と会えない誰かを見送るような、真剣で、切実な色。
ターボは、その姿から、目が離せなかった。
やがて、マーチャンは、すっと目を伏せて、鞄の中からノートを取り出す。でも、それはターボが知っている、夜空みたいな青いノートではなかった。
もっと、ずっと小さい。
なんてことのない、黒い革表紙の手帳。
ターボが、一度も見たことのない、ノート。
マーチャンは、その黒い手帳のページを開くと、何かを、こまやかな文字で、書き留め始めた。
まるで、こぼれ落ちる光の粒を、言葉で、必死に、すくい上げているみたいに。
その姿は、ターボの知らない、アストンマーチャンだった。
彼女は、歌を書き終えると、ぱたん、と、静かに手帳を閉じた。そして、まるで、長い夢から覚めたみたいに、ふう、と、小さなため息をついた。
そのときだった。すぐそばにターボが立っていることに、マーチャンはようやく気づく。ふぁ、と彼女の口から驚きの息が漏れる。
「……ターボさん。いつから、そこに?」
その声は、ほんの少し、沈んでいたのかもしれない。
「あ、う、うん!」
心臓が、どきん、と、ひとつ、大きく跳ねる。見てはいけないものを、見てしまった、という気持ち。
ターボはそれを隠すように、口角を、ぐいっと、無理やり持ち上げて。
「ターボもいま来たとこ! その、 マーチャン、いまは話しかけられたくないかも、って思っちゃって」
「……すみません。ぼうっとしてて」
マーチャンは、すこしだけ、驚いた。この、太陽みたいにまっすぐな子が、わたしだけの小さな静寂を、ちゃんと見つけて、守ってくれようとしたことが。
胸の奥に、ぽつり、と、あたたかいインクが染みたような、不思議な気持ちがひろがっていく。
「その手帳にも、短歌を書いてるの?」
「……これは、だめです」
マーチャンの声は、静かだったけれど、絶対に譲らない、という強い意志がこもっていた。
やさしいあなたにも、話せない、と。
「えー、なんで!? ずるい」
「ふふ。ずるい、のもしれませんね」
やわらかく微笑むマーチャンの表情はもう見慣れているけれど、でもそれは、すりガラスみたいだとターボは思う。
触れられるのに、その向こう側は、決して見えないような。
マーチャンはターボに告げる。これは、わがままなんです、と。
「これは、わたしの、わがままが、詰まっているので。だれにも、見せられません」
わがまま、という言葉に、ターボは、ますます、不思議そうな顔をした。
「じゃあ、じゃあ、メロンソーダの何を見てたのか教えてよ!」
ターボは、あたらしい作戦を思いついたみたいに、努めて明るい声で、話題の方向を変える。
さっきまで、マーチャンがいた、静かで、誰も入れない世界の名前を知りたくて。
「泡、です」
「え? 泡?」
「はい。綺麗だから。……消えてしまうものは、どうしようもなく、綺麗だから」
その言葉は、ターボにとっては何の答えにもなっていない、またあたらしい謎で。
それはターボの胸の、まだ、名前のない空っぽの場所に、ぽつんと落ちて、小さな波紋を作る。
ふーん、と、納得出来たようなできないような曖昧なまま、ターボは、頬杖をついた。
それ以上、深く聞こうとは思わなかった。聞いちゃいけないような、気がしたから。
ただ、メロンソーダの、すぐに消えてしまう泡を、永遠の宝物みたいに見つめていたマーチャンの横顔と、あの、黒い手帳のことが、なぜか、強く、強く、心に焼き付いて離れなかった。
ターボは、知らない。
あの黒い手帳に、どんな歌が綴られているのか。
ターボとの、光に満ちた日々への感謝と、それと同時に、日に日に濃くなっていく、影の歌。
しゅわしゅわと話してるきみのそのとなりわたしは泡のいのち見つめる
ターボは、知らない。
マーチャンが、ターボとの思い出を、どれほどひとつひとつ祈るように、その胸の奥にある、冷たい海に沈めていってるのかを。
季節は、夏から秋へと、ゆっくりと移り変わっていく。
青いノートのページは、楽しい歌と写真で、もうすぐいっぱいになる。
ターボはときどき、マーチャンが見せる一瞬の翳りや、遠くを見るような眼差しに、気づくことがあったけれど。
「たのしいね」言葉にするとすこしだけ 喉奥に居座るさみしい味
でも、マーチャンはすぐに、いつもの静かな笑顔に戻って、ターボの名前を呼ぶものだから。
だから、ターボも笑顔を返した。
あなたの笑った声の粒きらきらとわたしの明日にすこしください
この、宝物みたいな時間が、永遠に続くと、信じて。
楽しい、と笑うあなたの隣に住む明日もわたしでありますように
終わりが来る、その日を、まだ、何も知らずに。
【転】第1節:青いノートと知らない涙
夏が、秋へと姿を変えようとしていたある日のこと。 アストンマーチャンは消えた。
海に溶けるように、朝霧が晴れるように、はじめから、そこに存在していなかったかのように。
彼女が使っていたベッドは、寮の部屋で持ち主のいないベッドとしてただそこに在った。
机の上に置かれたままの愛用の小さなカメラは、誰のものでもなく静かに埃をかぶっていく。
世界の誰の記憶からも、アストンマーチャンというウマ娘がいたという事実は、綺麗に消去されていた。
――もちろん、ツインターボの記憶からも。
そのまま季節は秋に移っていった。
空は高く、澄み渡り、風はすこしだけ、肌寒い。ターボの日常は何も変わらなかった。
朝のトレーニングで誰よりも速く走り、模擬レースで誰よりも先にバテて失速する。
カフェテリアでは、山盛りのご飯をかきこんで、放課後は、また、日が暮れるまでグラウンドを駆け回る。
いつも通り、いつも通りの、ターボの毎日。
なのに、なにかがおかしかった。
胸の真ん中に、ぽっかりと大きな穴が空いている。その穴に、秋の冷たい風がひゅうひゅうと吹き込んでくる。
なにをしてもその穴は埋まらない。どれだけ速く走っても、どれだけ笑っても、どれだけお腹いっぱいご飯を食べても。
理由がわからない。理由がわからないことが、ターボを、じわじわと、息苦しくさせた。
カフェテリアで、無意識に向かい合わせの席にトレーをふたつ置こうとしてはっとする。
誰と食べるつもりだったんだっけ。
図書室へ向かう廊下で、誰かを待っているような気がして、何度も、後ろを振り返ってしまう。
誰が、来るはずだったんだっけ。
空っぽの時間を埋めるように、ターボはがむしゃらに走った。走って、走って、走り続けて、くたくたに疲れ果てて、寮のベッドに倒れ込む。そうすれば、余計なことを考えなくて済むから。
でも、夢を見る。
誰かの、夢を見る。
顔も、声も、名前もわからない、誰か。その誰かと、ふたりで、笑っている夢。メロンソーダの泡を、一緒に見つめている夢。カメラの、シャッターを押す夢。
目が覚めると、頬が、濡れている。
「……なんだよ、もう……」
ターボは、わけのわからない涙を、服の袖で乱暴に拭った。
胸の穴は、毎日朝を迎える度、昨日よりもすこしずつ、大きくなっていっている。
そんな日々の中で、ターボは、ぷつりと糸が切れたみたいに行き詰まってしまう。
短歌が、作れなくなった
図書館で見つけた古い歌集。気持ちを言葉にして定型詩にぶつけるレース。
トレーニングと同じくらい、楽しくて大事なことを、『いつもと変わらず』やってきたはずなのに。
なのに、今は言葉がひとつも出てこなくなった。
机の上に、一枚のルーズリーフを置く。愛用の筆ペンのキャップを、かちりと外す。そこまではいつも通り。
でも、白い紙を前にして、ぴたりと手が止まってしまう。
何を書けばいい?
「一番」「全力」「光」。かつて、自分の心を占めていた、きらきらした言葉たちが、今は、ひどく色褪せて、空っぽに感じた。何を書こうとしても、心が、少しも、動かない。まるで、乾いたスポンジみたいに、何の感動も、吸い上げてくれない。
「あれ……? ターボ、どうしちゃったんだ…?」
焦りと苛立ちがこみ上げてくる。言葉が出てこない。イメージが浮かばない。あの、歌集を読んでいたときの、胸が熱くなるような感覚が、どこかへ、行ってしまった。
なんでだ? なんで書けないんだ?
わからない。わからないことばかりだ。
ターボは、ぐしゃり、と、書き損じの紙を丸めた。もう、何枚目かもわからない、紙の塊。
「……そうだ」
ターボは、顔を上げた。
「前に書いてたノートでも見直せば、何か、思いつくかも!」
以前の自分が、どんな歌を詠んでいたのか。どんなことに心を動かされていたのか。それを見直せばこのスランプを打開できるかも。
ターボは、部屋の中を探し始めた。本棚、机の引き出し、クローゼットの奥。自分が昔使っていた、練習用のノート。どこにしまったんだっけな。
部屋を、ひっくり返すようにして、探す。ガサゴソと、大きな音が響く。
そして、机の、一番奥。教科書やプリントの山に埋もれるようにして、それは、あった。
深い青色の、リングノート。
「……これ、だっけ……?」
ターボは首を傾げた。自分で買ったノートのはずなのに、なぜか記憶が曖昧だ。
こんなに綺麗なノートを、わざわざ自分のために買ったのだろうか。
その色を見ていたら、なんだかこめかみの奥で、記憶の火花がチリチリと走る。
存在するはずのない記憶の感触だけが、そこにある。
とても、とても、大事なものだった、気がする。
でも、思い出せない。
誰と、何を、大事にしていたのか。
表紙を開くことに、ほんのすこしの、恐怖を感じた。でも、それ以上に知りたいという気持ちが強かった。
この胸の穴の正体が、このノートの中にあるような気がして。
ターボは、意を決して、ノートを開いた。
最初のページを見た瞬間にターボは息を呑む。
そこには、自分のまっすぐな筆跡が確かにあった。
そして、その隣に。
知らない誰かの、細くてやわらかい字が、まるで星の軌道みたいに並んでいた。
「……は?」
ページをめくる指が震える。
次のページもその次のページも同じだった。自分の歌。知らない誰かの歌。自分の歌。知らない誰かの歌。
そこに綴られていたのは、誰かがここに、たいせつに置いてった、宝物みたいな日々のかけらだった。
――例えば、走ること。
きみの走るリズムはすごいんだぜんぜん乱れないメトロノーム
風さえも置き去りに青い残像 今日もあなたは無敵なのです
――例えば、猫のこと。
ふわふわの毛皮はきっときもちいい撫でてみたいなでも起こせない
太陽の匂いがするね毛皮から あたたかい夢ここで一緒に
――例えば、ソーダのこと。
しゅわしゅわのソーダの泡が弾けてくターボの心も弾けてる!
グラスの中ちいさな銀河消えてゆくいのちの名前ぜんぶおしえて
――例えば、雨のこと。
雨の日はターボの脚がさびしがるグラウンド蹴りたいよいますぐ
つーっと走る滴はレースみたいだわたしの知らないゴールに流れて
――例えば、かたちのこと。
夕焼けの匂いがするねその髪はすこし焦げたお砂糖みたいな
その瞳のぞけば宇宙が二つある あなただけの持つ左と右の
――例えば、こころのこと。
きみの声きくと心臓がスタートの合図みたいに大きく鳴るの
ふたりいるのにひとりみたいねわたしたちおなじこころで見ている、世界。
トレーニングのこと。ソーダのこと。雨のこと。お互いの、なんてことのない、ささやかなこと。
忘れてしまったはずの、たくさんの感情が、紙の上で、きらきら、きらきらと、弾けていた。
ノートに貼られている写真にだって、こんなに楽しそうに笑う自分がいる。その隣に、必ず、もうひとりの誰かがいて。
でも、その子の顔だけがなぜか、強い光で白く飛んでしまっている。輪郭が滲んで、霞んで、どうしても見えない。
「誰……? 誰と……? ターボ、こんなこと、した覚え、ない……?」
混乱する頭で、それでも、ターボは、ページをめくる手を止められなかった。
そして、あるページを境に、ぷっつりとターボの筆跡が途絶えた。
そこから先はもう、自分の歌はなかった。でも、ノートはそこで終わってはいなくて。
その先のページからは、やわらかな文字で書かれた歌だけが、何首も何首も続いていた。
まるであたたかい夏の日々が、一枚のページを隔てて、急に冷たい冬の夜になったみたいに。
それは、誰かのこころからこぼれ落ちた、涙の染みのような。
光のぜんぶが届かない、夜の海の底から届けられた声なき声のよう。
ふたりぶんの未来の話きみがするわたしは静かに相槌を打つ
「またあした」あなたの声のあたたかさ嘘つきの胸ちくりと痛んだ
この涙たぶん真水でできている海の塩辛さに混ざれないまま
ターボは、言葉を失った。
記憶にない。この歌も、この歌を詠んだ誰かも、なにひとつ、思い出せない。
なのに、この誰かの心のため息が、直接、胸にすとんと落ちてくる。
顔も知らない誰かが泣いている。ただ、それは助けてと取り乱している涙ではなく。
涙が頬を伝うままに、ただどうしようもなく、さみしい、ざんねんだ、と。
近く海に溶けて消える運命を、ただあきらめて、受け入れている。
この胸の穴の正体。幻肢痛のような痛みは、これだ。
この、忘れられた誰かの、涙の痕だ。
ターボは、やわらかくて頼りない筆跡を、壊さないようにそっと指でなぞった。
ノートのこれまでがそうであるように。
この涙のそばにターボのことばを置いて、寄り添ってあげたい。
孤独に凍える誰かの肩に、そっと毛布をかけてあげるみたいに。
返歌。相手の歌に、歌で応える言葉のやり取り。短歌を学ぶうちに、ターボはその存在を知っていたけれど。
でも、今の自分にそんなことができるのだろうか。こんなにも、うつくしくて、かなしい歌に。
単純なことばしか出てこないターボの歌で、ちゃんとした応答になるのだろうか。
自信なんて、ない。でも、それでも。
この声をひとりぼっちのままにしておくなんて、絶対にできない。
最後まで、ふたつのことばが並ぶノートに、してあげたい。
ターボは悩んで悩んで、震える手で筆を取る。涙で滲む視界の中、最初の返歌を綴った。
ひとりぶんの未来にターボはいるんだね ふたりぶんのノートに言葉さがすよ
忘れられた誰かを探すための、ターボの孤独な戦いが、静かに、始まった。
【転】第2節:幻肢痛の返歌(ラブレター)
その日からターボの世界は、一冊の青いノートを中心に回り始めた。
食事も、眠る時間も惜しかった。トレーニングが終わると、まっすぐ寮の部屋に帰り机にかじりつく。
ノートを開き、知らない誰かの、あの、ガラス細工みたいに儚くて、胸が張り裂けそうになる歌と向き合う。
一首、一首、何度も何度も読んでみる。
意味なんて、わからない。この歌が、どんな場所で、どんな気持ちで詠まれたのかなんて、想像もつかない。
海に溶けて、誰からも忘れ去られる孤独なんてターボには想像のしようがない。
わからない。わからないことだらけだけれど。
でも、読めば、胸が痛む。この歌を詠んだ誰かが、ひどく、さみしい場所に、たったひとりでいることだけはわかるから。
だから、応えなくちゃいけない。
最初のうちは、そんなふうに怒りに似たエネルギーがターボを支えていた。
ノートに残された、知らない誰かの歌。
あなたがくれたこの日々ぜんぶ抱きしめてわたしは海の底へ沈むの
ターボは、その歌の隣に、インクが滲むのも構わずに、自分の言葉を叩きつけた。
海の底? だめだよターボが行くから 息継ぎなしで迎えに行くから
勝手にいなくならないで。勝手に諦めないで。そんな、叫びにも似た想いが、ターボの歌の原動力だった。
ノートのページを、一ページ、また一ページと、自分の言葉で埋めていく。それが、忘れられた誰かへ続く、唯一の道だと信じて。
ひとつの歌に返歌を考えることは、一日ですぐ終わると限らなかった。
納得いくまで考えて、書き直して、書き直して、それもまた気に食わなくて、何度でも、やり直す。
誰かの言葉に答えていく進みは遅々としたまま。季節はゆっくりと、その色を変えていく。
あれほど賑やかだった蝉の声は、いつの間にか秋の虫の涼やかな音色に変わっていた。
グラウンドを吹き抜ける風は、火照った肌に、心地いいどころか、少し肌寒くって。
息継ぎをしない覚悟はそのまま呼吸苦の日々。ターボは、痩せた。
周りのみんなが、心配そうな顔で、彼女を見るようになった。
「ターボ、最近元気ないね。ちゃんと食べてる?」
「……食べてるよ!」
ターボはそう言って、無理やり笑ってみせた。でも本当は、何を食べても、砂を噛んでいるみたいに味がしなかった。胸の穴が、ぜんぶ飲み込んでしまうから。
トレーニングにも、前みたいに身が入らない。全力で走れば苦しくなって、胸の穴のことなんて忘れられると思っていた。
でも、違った。走れば走るほど、その穴は存在を主張するように、大きく、そして、冷たくなっていく。
ただ、がむしゃらに走るだけでは、もうこの穴は埋まらない。そう、歯を食い縛る。
忘れられた誰かのことなんて、誰にも相談しようがない。だってみんな忘れ去ってしまって。そしてターボ本人にだって、その誰かのことがわからないのだから。
でも。でも。でも。だからこそ、ターボにしかできないんだ。そう思うと、歌を返すことを止められない。
夜。部屋に戻ったターボはまた、青いノートを開く。
知らない誰かの、さみしい歌が、ターボの帰りを待ち続けている。
心電図みたいな文字で「またあした」あした、わたしは居ないかもしれない
ターボの目から、ぽろり、と涙がこぼれて、ノートの上に小さな染みを作った。
最初の頃の、怒りのような感情は、もうどこかへ消えてしまっていた。代わりに胸を満たすのは、どうしようもない悲しみだった。
その文字が止まりそうならターボのね、心臓の音分けてあげるよ
次のページも、その次のページも、彼女の歌は、まるで許しを乞うように、謝罪の言葉を紡いでいた。
楽しいと笑うあなたの隣で思うごめんねわたしはもうすぐ嘘になる
オマエが謝ることなんてない。ターボは、そう思った。悪いのは、オマエじゃなくて。オマエのこと、忘れてしまったターボのほうだ。
ターボの、頭の、心の、ぜんぶが、悪いんだ。
嘘じゃないきみが隣で笑ってたそれだけほんと。明日の約束、しようよ
返歌を、書き続ける。
一首、また一首と自分の言葉を紡ぐたび、ターボの心は、やすりで削られるようにすり減っていった。でも、やめるわけには、いかなかった。
冬が来る。
空は鉛色に曇り、吐く息は白く凍る。トレセン学園の木々は、すっかり葉を落として、寒々しい枝を空に向けて伸ばしていた。
ターボの心も、まるで冬の景色みたいに、色を失っていた。
眠りが、浅くなる。
ベッドに入っても、なかなか寝付けない。うとうとと、浅い眠りに落ちると、決まって、夢を見る。
顔の霞んだ、知らない誰かとの、夢。
――ターボさん。見てください、猫が、眠っています。
――ふふ。この子の見ている夢は、きっと、あたたかい物語ですね。
カフェテリアで、メロンソーダの泡を見つめていた、誰かの横顔。
――この泡が、消えてしまう前に、覚えておきたくて。
――……消えてしまうものは、どうしようもなく、綺麗だから。
楽しい思い出の、断片。声も、温度も、匂いも。
夢の中ではこんなに鮮やかに映っているのに。
目が覚めると、そこには、なにもない。
残るのは、頬を伝う冷たい涙の感触と、いっそう深くなった喪失感だけ。
もう、夢と現実の境目が曖昧だった。ノートに返歌を書きつけることだけがかろうじて、ターボをこの世界に繋ぎ止めている唯一の行為だった。
返歌の言葉もいつしか変わっていった。
叫ぶような怒りの言葉は、もう出てこない。ただひたすらに、懇願するような、弱々しい歌ばかりが生まれてくる。
ぜんぶ嘘だよって言って抱きしめて泡になるまえのさいごのわがまま
このわがままどうしてターボにくれなかったの ターボの願いと交換しようよ
青いノートのページが、ターボの返歌で、埋められていく。
ターボが心をすり減らしてきた、戦いの記録そのものが連なっていく。
さよなら、と書いた手紙をボトルシップに乗せて流したあなたのいない海
その瓶をどうやって拾えばいいのかな海は広くてターボはちいさいよ
忘れてねわたしの声もその響きもあなたの耳が静かであるよう
忘れてないよ耳をすませばまだ響く 幻だってわかってるけど
青いノートの楽しい文字が増えるたび黒い手帳に「ごめん」と書いた
黒い「ごめん」に青いノートを重ねてく あなたの色、青になれ、って
「おやすみ」と鍵をかけるのこの気持ち夜の海の底わたしは眠る
鍵のかかったドアにひたいをつけているおやすみなんて言えないままで
――そして、ついに、たどり着いてしまった。
■■■■■が残した歌の、最後のページ。
そこにはたった一首だけ、ぽつんと遺されていた。
これを読めば、終わる。
この、長くて、苦しい、戦いが。
でも、最後の歌を読んでも、返歌を考えつくことができなかったら? 返歌を詠んでも、何も変わらなかったら?
この誰かが、永遠に見つからなかったとしたら?
最後の一枚の紙が、まるで分厚い鉄の扉みたいに思えた。この扉を開けて、その先にもしなにもなかったとしたら。
そう思うと、怖くて、もう、ページをめくることができなかった。
ターボは、もう、限界だった。
ペンを握る指に、もう、自分のものじゃないみたいに力が入らない。
あれほど好きだったはずの、インクの匂いが、今は、ただ、気持ちが悪い。世界から、すうっと、色が抜けていく。音も、匂いも、ぜんぶが、遠くなっていく。
「……もう、無理なのかな……」
初めて、声に出して、呟いてしまった。
諦める、という言葉がすぐそこまで、来ている。手を伸ばせば届いてしまう。そうすればきっと、楽になれる。
この、胸の痛みからも、解放される。
ターボは力なく、机の上に突っ伏した。
冷たい机の表面が、熱くなった頬に心地よかった。
世界が、しいん、と静かになった。
もう、この、痛いところを、探さなくてもいいんだって思ってしまう。
もう、いいかな。
ターボは、がんばった。
もう、充分だ。
そう、目を閉じようとした、その瞬間だった。
その、諦めの、いちばん、深い底のところで。
ぽつり、と。
『――あなたを見ていると、歌が、生まれるんです』
幻聴だ。
でも、胸の穴のいちばん奥で直接響いた、あたたかい言葉だった。
その声はたしかに、ターボの心を、掴んだ。
ターボはゆっくりと顔を上げた。
机の上には、青いノート。ターボが書き続けた、返歌の山。
そしてまだ、めくられていない最後のページ。
止まりかけていたターボの心臓に、もう一度血が巡る。指先に、すこしだけ熱が戻ってくる。
ターボはまだ、諦めていない。
この指が動く限り。この心臓が鳴っている限り。
ターボは震える手で、最後のページへと指をかけた。
【結】これが、諦めないってことだ
青いノート最後のページに「ありがとう」書いたら海へ行くと決めてた
歌を読んだ瞬間、ターボの心臓は、どくん、と一度だけ、大きく鳴って、そして、しいん、と静まり返った。
ノートの最後のページの前で、ぼうっと固まってしまった。
言葉が、出なかった。
どんな言葉を返せばいい?
「ふざけるな」という怒りも、「どこにも行くな」という懇願も、もう、出し尽くしてしまった。残っているのは、ただ、途方もない、無力感だけ。
だって、さよならと言われれば引き留めることができる。嘘をついたと言われれば許してあげられる。
でも、「ありがとう」って言われたら何を言えばいいの?
この歌を詠んだあなたは、もう、いないのに。
ターボはまだ、あなたの名前さえ呼べないでいるのに。
それなのにあなたはもう、暗い海の底で眠ることを自分から選んでしまっていた。
もう、届かない。
どんなに叫んでも、どんなに泣いても、この声は、もう。
ターボは、力なく、ノートの上でまた俯いてしまった。せっかく決意を込めて、最後のページを開いたのに。
涙さえもう出なかった。心がからっぽになってしまったから。
胸の穴が、大きくなりすぎて、もう、ターボのぜんぶを飲み込んでしまったから。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、顔を上げたターボは無意識に立ち上がっていた。身体が勝手に動いていた。
コートを羽織り、マフラーを巻く。青いノートを大事に大事に携えて、部屋を飛び出した。
行き先なんてわからない。
でも、足は勝手に進んでいく。
ノートに残されたたくさんの歌が、ターボを導いているようだった。
『海の底』『波の音』『潮風』。
そうだ。海だ。
この、忘れられた誰かが、還っていったという、海へ。
電車を何度か乗り継いだ。窓の外の景色がどんどん寂しくなっていく。終点の駅で降りると、潮の匂いがツンと鼻を刺す。
冬の海。
夏の、あのきらきらした青さはどこにもない。空も、海も、砂浜も、ぜんぶ同じ冷たい灰色をしていた。
打ち寄せる波の音だけが、ざあ、ざあ、と、やけに大きく響いている。
寒い。
冷たい風が、容赦なく、ターボの頬を打つ。マフラーに顔をうずめても、震えが、止まらない。
ターボは、砂浜にぺたんと座り込んだ。手にしていた、青いノートを開く。
最初のページから、もう一度、ゆっくりと、読み返していく。
自分の、元気で、少しめちゃくちゃな歌。
知らない誰かの、静かで、綺麗な歌。
ふたつの歌が、楽しそうに会話をしている。
グラウンドを蹴りだす足が好きだ! と心臓がどっかんどっかん歌う
あなたの背を追うわたしの眼差しが夕陽に焼かれてとけてしまいそう
写真が、貼ってある。昼寝する猫。雨上がりの水たまり。儚い泡を抱くメロンソーダ。
楽しそうに笑うツインターボ。
そして隣で、同じように笑っているはずの、顔の霞んだ、誰か。
ページをめくる。
自分の字が消えて、知らない誰かの、独白が、始まる。
『さようなら』『ごめんね』『嘘になる』。
悲しい言葉の数々。最後のページの、絶望的にやさしい別れの歌。
ターボは、ノートを最後まで読み終えた。静かに、閉じる。
灰色の海を、ただ、じっと、見つめる。
そのとき、ターボの心の中に、ひとつの、とてもシンプルな感情が生まれていく。
それは、怒りでも、悲しみでも、無力感でもなかった。
ただ、純粋な。
――待つよ。
ノートの中の、あなたが。
顔も、名前も、声も思い出せない、あなたが。
いつか戻ってくるまで。
とてもあたたかくてやさしくて、そして、ほんの少しだけ寂しそうな笑顔をするあなたがここにいるというのなら。
じっとしていることが苦手なターボにできることは、たったひとつで。
「会いたいから、戻ってくるまで、待ってるよ」
その、たったひとつの純粋な想いが、最後の言葉をターボに教えてくれた。
諦めじゃない。別れじゃない。
約束だ。
ターボはもう一度、ノートの最後のページを開いた。
震える手で、最後の返歌を書きつける。これまでのどの歌よりも、それは不器用で、でも力強い、未来への約束の歌。
あの子が大好きだと言ってくれた、ターボのまっすぐな歌。
そのノート抱いてここで待ってるあたらしいページふたりで始めよう
返歌を、書き終えた、その、瞬間だった。
ふっ、と、ターボの頭の中で、なにかが、変わった。
今まで、陽の光で白く飛んでいた写真の顔が、まるで、ピントが合うように、鮮明になる。
少しだけ、大人びていて。
どこか、儚げで。
でも、芯の強さを感じさせる、大きな瞳。
静かな、微笑み。
忘れていた、その顔。
「……アストンマーチャン……」
忘れていた名前を、ターボはごく自然に呟いた。
その名前を口にした瞬間、せきを切ったように、記憶が、溢れ出す。
七夕の夜の、出会い。
カフェテリアでの、交換日記。トレーニング後の他愛ないおしゃべり。メロンソーダの泡を見つめていた、真剣な横顔。秘密の、黒い手帳。
ぜんぶ、ぜんぶ、思い出した。
マーチャンが、ここにいた。ターボの、隣に。
当たり前の記憶として、すべてがあっけないほどに戻ってきた。どうして忘れていたのか。そのこと自体がもう不思議なくらいに。
その上で、ターボはすべてを理解する。マーチャンの孤独を。彼女の覚悟を。
そして、ターボに向けられていた、どうしようもないほどの愛情を。
思い出した、思い出せたよ。やっと。
涙が、溢れて、止まらない。
でも、それはもう、悲しみの涙じゃなかった。
愛しくて、愛しくて、たまらない。
絶対に、取り戻す。
ターボは砂浜に、力強く立ち上がる。息を乱して、海へと駆け寄る。
これが、諦めないってことだ――――
目の前に広がる、灰色の海に向かって、力の限り、その名前を、叫んだ。
――――アストンマーチャン!
ターボの声が、風にかき消されることなく、海を渡り、空に、響き渡る。
その声に応えるように。穏やかだった波が、ざわ、と大きく、一度だけ揺らめいた。
波打ち際の、水と砂の境界線。その空間が、まるでピントの合わない写真みたいに、おぼろげに滲み始める。
その姿はまだ曖昧だった。顔も表情もよくわからないあの子のまま。
でも、ターボはわかった。魂が、わかっていた。
見つけた。やっと、つかまえた。
先頭の先みたいに。ずっとずっと追いかけていた、ただひとつのひかり。
もう、絶対に、離さない。
この手からも、この記憶からも、この世界のどこにあなたが行ったって、離さない。
祈りにも似たターボの決意に応えるように。
陽炎みたいに揺れていた輪郭が、すうっと澄んでいく。
ピントが、合う。世界に、少女の形が留まる。
忘れてしまっていた、少女。砂浜に立つ、アストンマーチャン。
彼女は、少しだけ、驚いたように、目を見開いて。
泣き出しそうな笑顔で、ターボを、見つめていた。
「ターボさん……」
か細い、でも、確かな、声。
「マーチャン……!」
ターボは、叫んだ。
次の瞬間、ターボは、もう一度、全力で走っていた。
ゴールを駆け抜けるみたいに、マーチャンの胸に、そのまま飛び込んだ。
子供みたいに、わんわんと、声を上げて泣きじゃくる。その嗚咽が、マーチャンの薄い肩を、何度も何度も震わせた。
「あ、まーちゃっ、うあ、ああああん……!」
マーチャンは、エンジン全開の激しい感情のぜんぶを、ただやさしく受けとめる。
小さな子供をあやすように、その背中を、ゆっくりと、撫でていた。
彼女の白い頬を、ひとすじだけ、音もなく涙が伝っていく。顎の先で一粒の光になって、ぽつりと海へ還っていった。
ふたりが再び出会えたことを祝福するように、世界のぜんぶが、やさしい波の音だけになる。
それはいつまでも、いつまでも、続いていた。
あたらしい海の名前を決めようよ「ふたり」はどうかな 光が笑う
【余】つづく
どれくらいの時間、そうしていただろう。
灰色の海が、東の空からゆっくりと白み始めていた。
夜の闇が、朝の光にその場所を譲っていく。世界が、新しく生まれ変わろうとしている。
マーチャンは、腕の中でしゃくりあげているターボのちいさな身体を、そっと抱きしめていた。
このあたたかいいのちのかたまり。暗い海の底で、ずっとずっと、夢に見ていた光。
それが今、確かにここにある。その奇跡をただ、確かめるように。
やがて、ターボが、おそるおそる顔を上げた。見上げたマーチャンの大きな瞳が、涙で濡れてきらきらと、朝の光を反射する。
泣きじゃくっていたターボの目のほうが、もっともっと潤んでいただろうけど。
「ターボさん……」
「……うん」
やっと、ちゃんと言葉になった。その声を聞いて、ターボは、ただ頷くことしかできなかった。
「……ぜんぶ、聞こえていました。ターボさんの、歌」
マーチャンは困ったように、でも、どうしようもなく愛おしそうに、そう言って微笑んだ。
「え……?」
「わたしの名前を呼ぶあなたの声は、ちゃんと届いていました」
その言葉に、ターボの目から、また涙がこぼれ落ちる。
自分がやってきた苦しい返歌の日々が、無駄ではなかったのだと救われたような気がして。
「マーチャン、ごめんね、ごめんね……! ターボ、忘れちゃってて……!」
マーチャンは、そっと、首を横に振った。小さな子供をあやすみたいに、泣きじゃくるターボの頭を、やさしく撫でた。
いいえ、とマーチャンは続ける。
「あなたが、たったひとりで、わたしの歌に応え続けてくれたこと。わたしのために、ずっと涙を流してくれていたこと、知っています。
ごめんなさい。……でも、ありがとう、ターボさんは、こうしてわたしのことを見つけてくれました」
マーチャンは、ゆっくりと、語り始める。自分がいた、世界のことを。
それは、本当に、夜の海みたいに冷たくて、暗くて、なにもない場所だったこと。
音も、光も、温度もなにもない。ただ、自分の意識だけがぷかぷかと浮かんでいるような、永遠の孤独。
でも、あるときから、遠くで光が、またたくようになった。ターボの、返歌。
一首、また一首とターボが歌を詠むたび、その光は強く、そして近くなった。
その遠い遠い、灯台の光に向かって流れていたら、自然と、あなたのところに戻って来れたのだと。
「ターボさんの声が、聞こえました。歌が、聞こえました。だから、わたしは、ここに、戻ってこれたんです」
マーチャンの話を聞きながら、ターボは、ただ黙って頷いていた。難しいことは、相変わらずよくわからない。
でも、自分の言葉が、ちゃんと、マーチャンに届いていた。
その事実が、胸の真ん中に空いていた、あの大きくて冷たい穴を、ゆっくりと満たしていく。
それだけで、もう、充分だった。
マーチャンのいない、ひとりぶんの世界で過ごすことが、どれほどつらかったか。もう、こりごりだった。
その想いのすべてを、たった一言に込めて。ターボは祈るように言った。
「……もう、どこにもいかないでね、マーチャン」
マーチャンは、夜が明けるみたいに、ゆっくりと微笑んで答える。
「はい。もう、どこにも、行きません。あなたの、そばにいます」
その言葉は、約束、というよりも。
ターボの冷え切った指先に、そっと絡められた、マーチャンの指のあたたかさそのものだった。
――季節は巡り。冷たく長かった冬は、終わりを告げた。
空の色が、昨日よりもほんのすこしだけ、やさしい青色に変わる。
風は肌を刺すような冷たさを持たずに、どこか気の抜けたみたいに、ぬるくてやさしい。
ターフの緑が、日に日に鮮やかになっていく。ウマ娘たちの吐く息はもう、白くない。
重たい冬用のジャージを脱ぎ捨てて、軽やかなシャツで駆け抜けていく。その足音さえ、どこか楽しげに聞こえた。
トレセン学園に、また、春が来た。
ふたりがあたらしい物語を始めるための、うつくしい春が。
マーチャンがターボの隣にいることは、もう、誰にとっても、当たり前の風景になっていた。
まるで、彼女が一日だけ風邪で学校を休んでいただけみたいに。世界の歪みはいつの間にか、春の雪みたいに綺麗に溶けてなくなっていた。
春の、やわらかな日差しが差し込む、カフェテリア。
分厚くなった青いノートを、机の真ん中に広げている。
ぱらぱらと、マーチャンが、いとおしそうにページをめくっていく。
そこに並んでいるのは、秋から冬にかけて、ターボがたったひとりで書き殴った、たくさんの必死な返歌。
見直せば、不格好で不器用な言葉の連続に、ターボは、うわ、と声を上げた。
「恥ずかしいんだけど……!」
ターボは顔を真っ赤にして、ばたんとノートを閉じようとする。
でも、その手を、マーチャンが、そっと、指先で制した。
「ダメです、わたしは、うれしいんですから」
マーチャンは、ターボの達筆を指でなぞっていく。
「この、ターボさんが詰まった歌に、わたしは救われたんですから。わたしの、宝物です」
「たからもの」
「はい。宝物です」
マーチャンがきっぱりと、そう言って微笑む。
その、あまりにもやさしくてうつくしい笑顔に、ターボは何も言えなくなってしまう。
ただどうしようもなく、照れくさそうに目を逸らすしかできなかった。
こころを落ち着けるように大きく息をついて。
ターボは、ノートの最後のページを開いた。あの冬の海で、ターボが祈るようにして詠んだ最後の返歌。
そのノート抱いてここで待ってるあたらしいページふたりで始めよう
「ターボ、この約束、守りたくなくなってきたんだけど」
「ほほう、それは一大事です」
わざとらしく目を丸くするマーチャンの相槌を聞きながら、ターボはページをめくってペンを取る。
まだ何も書かれていない、真っ白な、本当の最後のページ。
マーチャンが隣から、そっと、それを覗き込んでくる。
そこに、どんなあたらしい歌を詠むのだろう。マーチャンがじっと見つめる前で。
ターボはまっすぐな文字で、たった三文字だけ、力強く書きつけた。
――つづく
「ターボもう短歌やめる! もうこれでいいじゃん!」
マーチャンは、そのあまりにもターボらしい、最強の「返歌」に、思わず頬が綻んでしまう。
ただ、胸の奥が、あたたかくて、あたたかくて、どうしようもなかった。
アストンマーチャンは、ツインターボが書いたまっすぐな三文字の隣に、微笑みの色を乗せて、そっと最後の歌を書き添えた。
――「つづく」ってきみが書いたね青いノート 最後のページは春のにおいだ
END.
【古い歌集】
1. 誰ひとりターフの上じゃ追わせないこの足音だけ響かせてやる
2. 一番でなければすべて無意味だとこの魂がそう叫んでいる
3. 夕暮れの影をも追い抜きただ笑う光でさえも後ろ姿だ
【病院の掲示板・マーチャンの手帳】
4. 退院の日を指折りてひとりきり窓の木洩れ日やさしくそそぐ
5. 夕闇を切り裂いてゆく光の束(たば) わたしの知らないいのちのかたち
【七夕の短冊】
6. 先頭はターボがなるんだ見てろよな! 誰にもぜったい追いつかせない!
7. 短冊に書けない願い星に投げ 夜空に揺れてわたしのしるし
【交換日記:初期】
8. グラウンドを蹴りだす足が好きだ! と心臓がどっかんどっかん歌う
9. あなたの背を追うわたしの眼差しが夕陽に焼かれてとけてしまいそう
10. あったかいコンクリの上ねこがいるターボもとなりで寝ちゃおうかなあ
11. あなたには聞こえますかこの静寂(しじま)猫の寝息にひそむ物語
【秘密:マーチャンの独白】
12. しゅわしゅわと話してるきみのそのとなりわたしは泡のいのち見つめる
13. 「たのしいね」言葉にするとすこしだけ 喉奥に居座るさみしい味
14. あなたの笑った声の粒きらきらとわたしの明日にすこしください
15. 楽しい、と笑うあなたの隣に住む明日もわたしでありますように
【交換日記:いつまでもこんな時間が続くと思っていた】
16. きみの走るリズムはすごいんだぜんぜん乱れないメトロノーム
17. 風さえも置き去りに青い残像 今日もあなたは無敵なのです
18. ふわふわの毛皮はきっときもちいい撫でてみたいなでも起こせない
19. 太陽の匂いがするね毛皮から あたたかい夢ここで一緒に
20. しゅわしゅわのソーダの泡が弾けてくターボの心も弾けてる!
21. グラスの中ちいさな銀河消えてゆくいのちの名前ぜんぶおしえて
22. 雨の日はターボの脚がさびしがるグラウンド蹴りたいよいますぐ
23. つーっと走る滴はレースみたいだわたしの知らないゴールに流れて
24. 夕焼けの匂いがするねその髪はすこし焦げたお砂糖みたいな
25. その瞳のぞけば宇宙が二つある あなただけの持つ左と右の
26. きみの声きくと心臓がスタートの合図みたいに大きく鳴るの
27. ふたりいるのにひとりみたいねわたしたちおなじこころで見ている、世界。
【交換日記:消失へのグラデーション】
28. ふたりぶんの未来の話きみがするわたしは静かに相槌を打つ
29. 「またあした」あなたの声のあたたかさ嘘つきの胸ちくりと痛んだ
30. この涙たぶん真水でできている海の塩辛さに混ざれないまま
【交換日記:いのちの返歌】
31. ひとりぶんの未来にターボはいるんだね ふたりぶんのノートに言葉さがすよ
32. あなたがくれたこの日々ぜんぶ抱きしめてわたしは海の底へ沈むの
33. 海の底? だめだよターボが行くから 息継ぎなしで迎えに行くから
34. 心電図みたいな文字で「またあした」あした、わたしは居ないかもしれない
35. その文字が止まりそうならターボのね、心臓の音分けてあげるよ
36. 楽しいと笑うあなたの隣で思うごめんねわたしはもうすぐ嘘になる
37. 嘘じゃないきみが隣で笑ってたそれだけほんと。明日の約束、しようよ
38. ぜんぶ嘘だよって言って抱きしめて泡になるまえのさいごのわがまま
39. このわがままどうしてターボにくれなかったの ターボの願いと交換しようよ
40. さよなら、と書いた手紙をボトルシップに乗せて流したあなたのいない海
41. その瓶をどうやって拾えばいいのかな海は広くてターボはちいさいよ
42. 忘れてねわたしの声もその響きもあなたの耳が静かであるよう
43. 忘れてないよ耳をすませばまだ響く 幻だってわかってるけど
44. 青いノートの楽しい文字が増えるたび黒い手帳に「ごめん」と書いた
45. 黒い「ごめん」に青いノートを重ねてく あなたの色、青になれ、って
46. 「おやすみ」と鍵をかけるのこの気持ち夜の海の底わたしは眠る
47. 鍵のかかったドアにひたいをつけているおやすみなんて言えないままで
【交換日記:結末】
48. 青いノート最後のページに「ありがとう」書いたら海へ行くと決めてた
49. そのノート抱いてここで待ってるあたらしいページふたりで始めよう
50. あたらしい海の名前を決めようよ「ふたり」はどうかな 光が笑う
【交換日記:つづく】
51. つづく
52. 「つづく」ってきみが書いたね青いノート 最後のページは春のにおいだ