「おはよう、耀介」
「……おはよう」
眠たげな耀介の髪を整えてやろうと手を伸ばす。ミサキが触れる直前で耀介は飛び退いたが、もう一度触れようとすると、受け入れてくれた。
「顔を洗った時に直せばいいのに。邪魔でしょう」
「ここでは、別に襲われないし……見た目が悪くても機嫌を損ねる人もいないし……」
「そう、寛げてるなら良かった」
野良猫が家に慣れてきたみたいな様子で、ミサキは心が暖かくなるのを感じる。このままこの屋敷に慣れて、自分の家みたいに暮らしてしまえばいいのに。耀介は先生役をやる以外の時間はいつも、律儀に自室に閉じこもっている。
「ミサキも、俺の前だと気を抜いてる」
「……駄目なの?」
「いや……意外だなとは思う。蜘蛛蛇の当主として、凛々しい感じだから。いつも」
「あれは、強いられてる訳じゃないから。私が気合を入れるためにやってるだけだし」
「そうなのか、てっきり……」
耀介は懐かしそうに何かを言いかけたが、口を噤んでしまった。
耀介と初めて会った時から、当主としてより素で接した時間の方が長い。だが、耀介はどうも、ミサキが威風堂々と振る舞っているときのほうがしっくりきている様子というか……逆に、普通の女学生らしく話すと、なんとなく物珍しいものを見る感じだった。
(……私のことを、何処かで見たことがあるのかな)
素性は詳しく知らないが、相当な殺し屋だろう。父母を殺したのは彼ではないが、ターゲットとして挙げられたことも、あったのかもしれない。
(でも、疑うにも疑えないというか……)
初めて出会った時、泣きだしそうな顔でミサキの依頼を断った耀介は、本当の本当に限界に見えた。心が擦り切れて、悲痛な内心の叫びが聞こえてきそうなほど。
今はそんな様子は少しも窺えない。ミサキが彼を信じると決め、その手を掴み取った日から、彼の張り詰めた雰囲気は和らいでいた。
きっかけも勿論分かっている。あの時……暗いどん底に陥っていた彼の黒い目が和らぎ、光を得た瞬間を、ミサキは一番近くで見つめていたのだから。
彼は多分、あの日ミサキと出会わなければ死んでいてもおかしくなかった。ミサキが彼を救うことを、彼は心の底から望んでいる。不器用ながらも、蜘蛛蛇に歓迎されては遠慮がちに受け入れている様子にも、彼の内心は現れているように思う。
教え手としても不足はなく、彼の実戦経験には蜘蛛蛇の大人たちも尊敬の念を抱いていた。人を殺してきた彼だからこそ、ミサキたちに、本気で「求める力」を与えてくれている。
「耀介〜、ミサキ様〜! 朝メシできたって! お腹空いたから早く来てくださいよ〜!!」
二棟先の広間から、サトヤが叫ぶ声が聞こえる。ここからは迂回路なのでまだまだ遠いが、待たせるのも可哀想だ。
「今行くよ!」
ミサキは叫ぶと、耀介に両手を差し出した。
「屋根の上までひとっ飛びで。お願いしてもいい?」
「いい、けど。……いいのかな? まあ、本人が言ってるしな……」
躊躇いつつも抱き上げられ、耀介の手が膝裏と背中に回る。体が密着すると、その精密な霊力のコントロールが読み取れて、ミサキは感嘆した。
「糸に乗って移動するなんて、蜘蛛蛇の人間でも難しい技なのに……耀介は本当にすごいね。しかもめちゃくちゃ速いし、どうやって覚えたの?」
「ん〜……。……一生懸命やってきたから?」
輝介の適当な言い訳を聞き流して、ミサキは彼の足や、糸を生み出した手と霊力の動きを見つめる。彼は何でもない顔をしているが、どれも高度な動きだった。
それにしても、これはどう見ても蜘蛛蛇の技だ。もしかすると彼は、一族の何処かの傍流の子なのだろうか? 以前大人たが話していたその仮説が、頭に浮かんで消えてくれない。
もしそれが当たっていたなら……耀介の家は、家族は、本当はこの屋敷なのではないだろうか?
彼がここに住まうことを、誰も拒否しない。その血すらも蜘蛛蛇のものなら、一族の誰かと番って、子供だって――。
「到着した。……どうした? 酔った?」
「いいや、問題ない」
当主らしく、指先から髪の先まで力を漲らせる。耀介の腕から降りて、胸を張り、襖を開く。
ずらりと並んだ蜘蛛蛇の視線がミサキに集まる。当たり前の光景だ。
なんの感慨もなくミサキが座る。輝介はたじろぎつつもそれに続く。
「待たせてしまったな。それでは、冷めない内に――いただきます」
「「「いただきます」」」
輝介が小さな声で「いただきます」と呟く。言い慣れない言葉と、どことなくぎこちない箸使いだった。
里芋の煮っころがしを一口食べて、美味しそうに小さく微笑みを浮かべている。
ミサキは――いや、蜘蛛蛇の者はみな、彼のその姿を見ることが大好きになっていた。
***
いよいよ、俺と女王蟻との会合の日がやってきた。晩ご飯は向こうで食べることになるだろうし、無駄にするのは嫌だ。
そう思い、廊下を歩いていたサトヤを捕まえて伝言を任せる。
「今日は帰るのが遅くなるから、晩ご飯はいらない。もしかすると、泊まりになるかもしれない」
それを聞くなり、サトヤは大声をあげた。
「ええ〜っ!? 嘘だろ? お前まさかカノジョ――」
「!? そ、んな訳ないだろ! 仕事の付き合いだ! ……というか、そもそもどこで出会って、いつ仲を深めるんだよ?」
「び、びっくりした……てっきり蜘蛛蛇の誰かとデキちゃったのかと……いや俺的には悪くはないんだけど、でも、明らかにさあ……! だって、なあ?」
何が「なあ?」なのかの、文脈がなさすぎる。
謎の同意を求められるも、適切な答えを返せず黙り込んでしまう。曖昧に頷くが、俺が言葉の意図を読めていないのは明らかで、サトヤは苦笑していた。
「まあ、なんてーの? 今のは忘れといてくれ! とりま伝言は承っとくから! 気を付けてな、行ってらっしゃい」
「わかった。伝言よろしく。……行ってきます」