勝負が終わって、熊倉先生はいつもの様子に戻っていた。お茶をのんびりと入れて、一口啜って一息、時計の針はすでに夜の一時を回ったくらいか、十七歩を始める前の時間を確認してはいなかったが、軽く一時間以上の時間が過ぎていた。
すでに答えない理由も無い様子の先生は、私が声を掛けるのを静かに待っているようだった。
「なんで、こんなことしたんです?」
「単純に試しただけよ。条件のために考えられるかどうか、もしくは純粋に私より強いかをね」
「あの宣言、正直舐めプもいいところですよ」
「それは気づけたから言えること、気づけなかったら、涙に濡れて布団に入ってたでしょ」
「そうですね。まぁ、私は一矢報いることができて満足ですけど」
「まさかね、あんな形で一回和了られるなんて思わなかったわ」
熊倉先生は愚痴を零しながらそんな事を言っている、その悔しそうな表情を見れただけでも私は大いに満足している。そう満足は終わった。
でも、本当の話はここからだということを思い出して、私は切りだした。
「で、私はそれをした理由が聞きたいんですけど」
「ええ、それが約束だからね。まず、私が実家に帰るって話だけど、それは間違いないわ。一週間後に私は実家に帰ることになる、といっても少しの間だけね」
「結婚とか、そういう話?」
「アッハッハッハ、そんなこと思われてたなんて、私もまだまだ若いってことかしら。残念だけど見当外れよ。残念なことにね」
先生の顔が一気に曇った。どうやら、不安の種の中身は杞憂ではなく、まさしく不安であるらしい。
嫌な予感ほどよく当たると言うが、人はそういうものに関して大なり小なり感じ取れる生物なんだろうと思う。
「私が宮守に来たのは確かに赴任だけど、同時に将来性のある娘を見つけて育成することでもあったわけ、これはあの子たちを見てればわかるわよね」
それはわかる。ここにいるみんなは一癖二癖、それぞれに色がある。異名とか二つ名みたいなものが付いてもいいくらいに、特殊な打ち方ができる。
そう、これは実際にみんなのデータを吟味して、一緒に麻雀を打った私の感想だ。ここには将来的に見て、輝かしい原石といってもいい人たちが多く存在している。
「ただ、この宮守に目を付けたのは私の実家なの。私はそれに従ってこの地に来た。でも、その前に一つ試してみたいことがあったのよ」
「試したいこと?」
「そう、私も自分で決めること、それをしたかった。宮守に来る前にこの岩手で可能性を探してね。それで、一人見つけた。将来性、多くの技を持った逸材をね」
それが誰であるかは、すぐに予想できる。この条件をクリアする人物を私は一人しか知らない、それは本人から聞いたことがある。ここ、宮守に来たという理由だ。
「色々と手回ししてね。仕来りといったもの、その全てをクリアする条件を提示して、ようやく連れて来れるようになった。実家の後ろ盾があってこそだったのが、正直今回の失敗の原因だったのかもしれないわね」
多分、その人物というのは姉帯のことだ。
姉帯は来るのが遅れたと熊倉先生が話していた時がある。遅れてくる間に、この人は何かをしたということだ。
その土地の縛り、それをどうにかする何か秘策、そしてそれは実家の後ろ盾があって初めて成立したというのを予想できた。
「交換条件は単純でね、今回の全国団体戦でベスト8を通過っていうもの、それを簡単だなんて一瞬でも考えてしまったことへのツケが回ってきたのよ」
「どんな……どんなこと頼んだんですか?」
その言葉に熊倉先生は頭を垂れて、静かに細々と呟くだけ、それは少しばかり予想していたが故に……
「土地の縛り、それに対する圧力。それが風化するまで続けてくれるという約束、山女という妖怪の伝承が根付いてる地域でね。豊音はその山女の末裔だと言われていたのよ」
その言葉に、私は自身の眉間に不快を示す皺が浮かんだのをすぐのことだ。当然だ、友人のことを妖怪やらなにやら、そんな目で見ている奴等がいるということに対しての自然な感情だとさえ思う。そんなことで姉帯のことを縛っていた連中がいるというだけでも、頭に血が上りそうになる事実といえる。
気づけば敬語が無くなっていた。
「なんや、それ、アホや。妖怪なんておるわけない、姉帯はただの女の子や、私たちとなんらかわらんやないか」
「普通はそう考えるものよ。それが通用しないのが、根付いた風土、信仰というものなのよ、困ったことにね。順調だった、順調だったけど最後の最後で躓いちゃってね。監督失格よ、私は……。教え子一人、守ってやることもできないんだから」
呼吸、私自身の呼吸が大きく胸の内で反響するような、そんな感想を浮かべた。
ここまで話が進んで、わからないわけじゃない。この不安の種、その正体。
私はできる限り否定していたい気にはなる、気にはなるけどそれは目を逸らしているだけで、結局何れ認めなくてはならないことになる。
それが今だということを……私は理解しなくてはいけない。
「豊音は来年になってすぐ……村に戻されることになるわ……」
その時だった。戸の奥から大きな音がして、私と熊倉先生は廊下へと出た。
対面には開かれた扉、姉帯が眠っていたはずの部屋で、そのまま目を向ければ玄関の戸が開いているのがわかった。
誰が出ていったかなんてもう考えるまでもなかった。すぐに居間に掛けておいた上着を着込む。
「こんな夜にどこ行くんやあいつは!」
一気に飛び出して廊下を走る。軋む音よりも大きいドタドタという音が響く。こんな夜に近所迷惑だ、そんなことを言われそうだけど今は気にしている暇もなかった。
靴に足を入れて靴紐を手早く結び、遅れてきた熊倉先生を止める。
「熊倉先生はみんなに連絡頼んます」
熊倉先生の探しに行きたい気持ちはわかった、わかったけど今は探しに行かせるわけにもいかなかった。
「……すまないね。みんなへの連絡は任せて頂戴」
少し、苦しそうな表情を浮かべてから熊倉先生は部屋へと反転する。
私は暗闇広がる外へと飛び出す。
思った以上に外は寒くて、寝間着だけで出て行った姉帯のことがとても心配になる。
「まったく、約束守ってちゃんと寝ててほしかったんやけど、しゃーないわ」
両足に力を入れて、私は暗闇の中へとその身を投げ入れた。
○
暗い世界を、彼女はとても我武者羅に走っていた。わずかに見えるぼやけた世界の中、記憶を辿りにしながらの疾走劇、観客のいないその劇の中で、彼女の心は大きく跳ね続けている。
それは走り続けていることによる心拍の上昇と、外気の寒さと、同時に先ほど耳にしたその話のためだった。
帰る、あの村に帰ることになる?
それはかつて住んでいた場所を否定するような問いかけであったが、この宮守での生活が彼女の中で前まで住んでいた場所を大いに否定させていた。
あんなテレビとだけ睨めっこする日々、最低限の会話だけが人との繋がりのあの生活に戻るということ、それが姉帯豊音にとってどんな意味を持っているのか?
これほどに楽しい生活を続けてきた彼女がまたあの生活に戻る、それは実質、檻に入れられるのとなんら変わらなかった。
暗いわけじゃない、狭いわけじゃない、生きられないわけじゃない。飲食住、全てが揃っている場所だ。生きることには何ら苦労もしない。
ただ、それは苦労しないだけで、生きているとはまるで違う。生かされているだけの人生だ。
最初、その生活に疑問を持ったことなどなかった。テレビ、麻雀は手元にあったけど、テレビで見ていた世界を彼女は羨ましいと思うことはなかった。
ここはここ、向こうは向こう。交わることも近づくこともない世界だと、割り切っていたからだ。
だから、毎日は満ち足りていた。満ち足りていた世界に新しい風が吹いたのは、彼女の元に熊倉が現れた時だった。
それを思い出して、彼女の足は更に速度を上げようと力を込める。込めて、込めて、込めて、地を蹴り、息を上げて走ることを続ける。
【ねぇ、姉帯さん。外の世界でその遊び、やってみたくないかしら?】
遊びというのは麻雀のことで、彼女は最初それに興味を示すことはあまりなかった。だから、初めて熊倉と遊んだ十七歩の衝撃というものは凄まじいものだった。
相手がいるということはどういう意味か、自身の行動に相手が何らかのリアクションを取ることがどれほどに刺激となるのか、姉帯はその時それを初めて知った。
そして、熊倉が来る日が楽しくなった。
十七歩という遊びはひとりじゃできない、そしてテレビの中で麻雀を打つ同い年だという女の子たちは、いつも四人で打っていた。相手の打ち出す牌や、その仕草、一喜一憂、仮面のような姿勢。十人十色に乱れ咲くその光景はとても楽しそうで……
それが、とても羨ましく思えた。
【麻雀、四人でやりたいよ……】
鍵を開ける。上気し切った体が冷えるのを防ぐように、近くに置いてある毛布に体を包んで、部屋の隅に腰を下ろす。
まだストーブが使われる気配はなく、どんどん寒くなっていく中、彼女は一人だ。
突然与えられた外へと出られる権利は彼女の中の興味を大いに広げていた。バスと電車を乗り継いでの旅は感動的なものだ。
彼女の世界は狭い、村の歩ける場所も限られていたこともあって、見える景色に味気や新鮮味はなく、セピアではなくグレースケールと言ってもいい色彩だった。もう見慣れた景色を再確認する必要性はないと、彼女の脳が判断したからだ。
だが、熊倉に連れられた地は全てが新しかった。
すべてが新しく、そして全てが興味の対象だった。建物、人、食べ物、そして麻雀の自動卓、自動的に牌が並べられて出てくるというのがとてもかっこよく見えたようで、彼女は十回ほど崩しては出し、崩しては出しを繰り返したほどだった。
それが最初の外の世界の探検だった。その探検はとても楽しく脳裏に焼きつくほどに、彼女の価値観を粉砕した。
【初めて会った時の話だけど……豊音、外の世界で麻雀、やってみたくないかしら?】
改まった熊倉の質問に彼女は、元気いっぱいに頷いていた。頷いて、この先に始まるだろう新しい日々を予見した。
そして、それは現実のものとなった。
今はみんながいる。毎日がみんなと一緒にいて彩られる。同じ日々は一つもない。毎日が変化の連続、同じでも朝食べた物が違う、空を飛ぶ鳥の数が違うとか、そういった些細な違いさえ、彼女には飛びきりの新しい日々だった。
全国大会という彼女にとっての一番のイベント、それが高校生最後にして一番の思い出となったのは言うまでもなかった。多くの人からサインをもらった、海に遊びに行った。涙もあった笑いもあった。全力で麻雀を楽しめた、そして末原恭子という友達を得た。
こんなにすごいことがずっとずっと、とは彼女もさすがに思ってもいない。けれど、楽しいであろう日々がこの先もあると思っていたのだ。
そんな矢先のことだった。彼女は全てから逃げ出す様に家を飛び出して、今ここにいる。
昼間の賑やかだったその場所は、今はひっそりと静まり返っていて、それが前までいた場所を思い起こさせる。
小瀬川がかったるそうに座っている椅子、エイスリンがよく使っているボード、鹿倉が容赦なくきついことを言って、それに臼沢が困ったように表情を崩す。そして途中で入ってきた熊倉がにぎやかねと言葉を零して、彼女はそれを見てとても幸せになれる。
今日はその中に末原もいて、時々慌てたりとかしながらもみんなの中で笑っている。そういったものを思い出して……
「帰りたくないよ」
自然と言葉が漏れ出した。
「嫌だよ。ここから離れたくなんてないよ」
膝を抱えて、ただただ零す。
「みんなと、みんなと一緒にいたい。これから先も、一緒に……」
思い描いていた世界、その可能性が萎んでいく。明日から何を思って過ごせばいいのか、その見当さえ彼女には思い浮かばなかった。
タイムリミットの存在する日常、そんな物がある。そんなことも知らない彼女に、この現実は些か厳し過ぎた。
でもどこかでそれがどうにもできないものだと理解している心もあった。
だから、今だけいっぱい泣いてしまおう。
「仕方ないよ…ね…」
目尻に溜まった水、それを急き止めることもできずにボロボロと零れ落ち始めて、過ぎ去ってしまう生活を姉帯は思い浮かべて、いきなり暗く染まった視界にそういうのが一瞬だけ止まった。
視界を遮った物、それを手で手繰り寄せる。チェック柄のコート、誰のだろうなんてことを考えた所で上から声が掛った。
「風邪引くで」
部室の中は昼間と比べてとても暗い、そんな場所の隅に大きな影がぽつねんとあって、私はその横に腰を下していた。
姉帯はさっきまで泣いていた。その原因がなんであるかなんてことは私が一番分かっている。いや、わからなくてはいけない立場だ。
大きな体を小さくして震える彼女のことを、支えなくてはいけないとこのばかりは思う。
「落ち着いたんか?」
「う、うん。ありがとー」
そう言葉を掛けてくる姉帯は、見てわかるくらいに無理をしているようだった。精神が泣くっていう方に舵切りしたのを強制的に私が止めたからかもしれない。
白い寝巻きの上に羽織っている私のコートは、いささか姉帯には小さすぎるようで、もう少し大きな物を持ってきた方がいいかなとかそんなことを思う。大きな体を若干震わせているのを見ていられず、部屋に常備している毛布を勝手に一枚拝借して二人で使う。
肩越しに感じる姉帯の体温と、私の体温で温かさが増すと自然と姉帯の顔がやんわりとし始める。
「暖かい……」
「そうやな、ポカポカや」
当たり触りなく私は答える。今、私から言葉を掛けることはできなかった。どうやって切りだせばいいのか、それがまったくわからない。
姉帯からの言葉を待つことしか、今の私にはできない。
そして少しばかりの時間が過ぎる。過ぎて、過ぎて、体が温まって来た頃合いで。
「……末原さん。熊倉先生の話って……」
姉帯が口を開いてくれた。
「あの人があんな性質の悪い嘘吐くわけないやろ……だから事実なんやろうな」
思ったことをそのまま告げる。熊倉先生の話し方とか、そういったものを統合すると嘘をついているようには見えなかった。
そもそも、それだとここまで遠まわしなことをする必要もないし、もしもこれが熊倉先生一世一代の大嘘なのだとしたら趣味が悪いというものじゃない。
だけど、あの時、家を出る時に見た熊倉先生の顔は遣る瀬無いものだった。今、姉帯を安心させてやりたいと思いながらも、今彼女の目の前に自身が立つことの意味を理解して足を止めていた。
あれが芝居だなんて思いたくもない。
「そうだよね。熊倉先生が、あんな嘘吐くはずなないもん。仕方ないよー」
でも、熊倉先生の嘘であってほしいという希望もあった。
こうして未来に恐怖しながら健気に振る舞う姉帯の姿、それその物が一種の杞憂であってほしいとも思う。
「……」
(アホか、そんな希望を信じてどないするんや?そんなもん、現実を見られんだけの逃げ口実、私がそれを受け入れられないのならここまで足を踏み入れる必要なんてなかった)
私は手に力を込める。その手は自然と姉帯の手を握っていた。
姉帯の手はまだ冷たい、震えてさえいる。そんな手を私は強く握っている。
「うちが……何とかしたる」
決意表明だ。
「……末原さん?」
「姉帯はええんか? ここで泣いて待ってるだけでええんか? うちは嫌や」
熊倉先生が試したことも、みんなが私を頼ってくれたこと、それらすべてを受け入れてここまで入り込んで、全てに目を瞑って逃げ出すなんてこと、私にはできるはずもない。
体中から熱意とやる気が沸々と込み上がって来るのを感じる。指針は出来上った、あとは姉帯次第だった。
「姉帯は、ほんまにこれでええんか? 終わってまうんや、これから先の数年間が終わるんや、それでもええんか?」
ここで姉帯が、このことを仕方ないというならばそれで終わり、抗うこともできないと匙を投げるのなら、私にできることはもう何もない。
わたしにはそれを、帰りたくないことを強制なんてできない。それで終わり。日々を消化していつか村へと帰る現実を待つだけだ。
でも、もしも。
もしも、それを否定する気があるのなら……
「……やだよ」
「姉帯」
「わたし、まだみんなと一緒にいたいよ。まだまだ、いっぱい、いっぱいみんなといっしょに過ごしたい、来年も再来年も、一緒にいたいよぉ……」
私は姉帯のために全力を尽くそう。
それが、ここまで足を踏み入れた私が背負うべき責任なのだから。
○
「みんな、すまないねぇ。言いだせないばかりに」
到着した小瀬川と鹿倉が手早くストーブを動かして温かくなった部室の中、熊倉先生の開口はそれであった。
話の内容を聞いたみんなは少しばかり言葉を失っていたけれど、すぐに舵を切りかえす。すでに目の前に迫っている危機に対する対処を考え始めているのだと感心する。
「まさか、トヨネの実家がそんな迷信に踊らされてる場所とはねぇ」
「こわいね……なんか儀式とかやってそう」
「クレイジー」
「狂ってる!」
前言撤回である。
「でも、そこにみすみすトヨネを帰すなんてこと、できるわけないけど」
「同感だね、トヨネがいないと高いところに物が置けなくなるし」
「トヨネトマダイッショニイタイデス!」
「みんな揃って卒業したいし」
何だかんだ言ってみんな姉帯がそこに帰るということには大反対の様で、それはとても良いことだった。私も自然とホッとしていて、姉帯は嬉しそうに笑っている。
「みんな、ありがとー」
みんな姉帯のことが大好きなんだというのがすごくわかる。守りたいこの笑顔という発言があるけど、多分それなんだろうな思った。部屋の中が十分に温まったところで、臼沢は一番の疑問点を口にした。
「とりあえず、熊倉先生。なにか打開策はないんですか?」
それはそうだ、ここまで話が進んではいるが、具体的にどうすればいいかという事は全く分からないままだ。どんな方法があるのだろうと考えてみる。
実際姉帯が外に出られたのは熊倉先生の実家が加えている圧力が背景にあるわけだ。つまり、この圧力が再び復活するようにするのが得策なのかもしれない。
流石に姉帯を連れてどこかにしばらく身を眩ますなんてこと現実的ではないわけだし、それだと結局この宮守を離れなくちゃいけないし、なにより隠れて過ごすというのはある意味檻に入れられてるのと変わらない。そんな行為に意味はないとすぐに切り捨てる。
あとは、熊倉先生のその威厳という物、つまりは結果をもう一度もたらすという行為があるが、こればかりは何か手があるのだろうかと考えても、想像ができなかった。
やがて顔を上げると、熊倉先生が一枚のチラシを机の上に置いていた。結構煌びやかな物で、何だろうとみんなが見ている中で、私は遠目にそれを見て見覚えがあるなと思った。
それは確信に変わる。私の記憶の中では見たことのある紙で、姫松の部室にも張ってあったものだ。
「これって、若手プロ認定大会のチラシ?」
「熊倉先生、これって?」
小瀬川と臼沢が首をかしげつつ、マジマジとそのチラシを覗きこんでいた。
それは若手プロ認定大会のチラシに間違いはない。
「コノタイカイデユウショウスル?」
「でも、エントリー条件に見合った人、宮守にいないし」
エイスリンと鹿倉も首をかしげる。
エントリー条件はベスト8以内に入った全国大会高校から二名と、予選上位16名となっている。すでに予選は終わりを迎えているわけだし、宮守は残念ながらそのベスト8に含まれていない。
そして私は若干だけ察する。いや、ここまで試されてきた私がとぼけられるわけもない。
でも、本当にこれしかないのかと、思ってしまう自分もいたのも事実だ。
「恭子」
「そう言うことですよね。でも、これと熊倉先生の関係って?」
「実はね、ここの大会運営の一人が実家の人間なの。それも結果を出せば認めてくれる実力主義者、あとは言わなくても分かるでしょう?」
熊倉先生の目は本気で、私を強く希望している瞳だった。
そして、ここまで入り込んだ私がそれを拒否する事はない。私は姉帯の為に全力を尽くすと先ほど決意表明したばかりなのだ。それをまるで掌返す様に撤回することなどできるわけも無い。
みんなの視線が私に向いているのがわかる。
鹿倉、臼沢、小瀬川、エイスリン、そして姉帯。
もう、迷う事はないと、私は問いかける。
「私は、何をすればいいんです?」
その台詞を待っていたというように熊倉先生は上機嫌に、ただ重みのある言葉でそれを告げた。
「私、熊倉トシの弟子という肩書を持って、恭子にはこの大会で優勝してほしい」
部屋の中に静けさが、確かに舞い降りた。
私はやっと戦いのスタート地点に立ったばかりの様だ。
部室を出て空を見上げる。澄み切っている夜空を多くの星が彩る姿が目に映る。
今日だけで私の中で多くのことが動いた。それはもう十分すぎるくらいにだ。
「末原さん」
と、そこで姉帯が私の横に現れる。少しばかり泣いていたこともあって、その目はまだ赤いままだ。
なんだかしんみりとした雰囲気があった。姉体も私に悪いと思っている部分があるんだと思う、だからこうして横にいるけど何も言わないでいるんだと思う。
部室の外はとても寒くて、こうして窓から見上げる夜空以外にこれと言ったものはなかった。
そこに流れ星が流れると、姉帯は目を瞑って何かを祈ってるようだった。流れ星が消えるまでに三回願えば叶うというのは子供だましみたいな迷信だけど、今はそれを信じるのも悪くないなんてそんなことを思う。
「何お願いしたんや?」
その問いかけに姉帯は少しばかり恥ずかしそうにしていた。
はてさて、何をお願いしたのだろうかと考えて見るが、私は姉体ではないのでそれが予想できるわけもなかった。
「ま、また海に行けますように―っておねがいしたんだよー」
「海って、これから冬やで?」
「ちがうよ……来年の夏だよ」
そう言われた。来年の夏、そうそれはつまるところ本当に願い事だった。
今この状態で願うことのできる一番の贅沢だと私は思う。
まだ来年の夏に行くまでに多くの壁がある。壁があって、その壁がどんなものであるかを姉帯は理解している。
自身ではどうにもできないこと、そしてそれをどうにか出来る可能性を持っているのが今は私だけだということ、それが重苦しい現実になっていた。
なら、もっと大きな目標を立てよう。
そんな重苦しい現実、それを跳ね飛ばすくらいに大きな目標を。
「あかんで、姉帯」
「ふぇ?」
「せや海、海にクルージング。宮守のみんなでクルージング、これがええ!」
「クルージングとか、そんなお金ないよー」
「うちが若手プロ大会で優勝すればええんや、賞金手に入れたらすぐに来年の夏に予約入れたる!」
正直、机上の空論ともいえる話だった。
でもここは希望でいい、目標、願いは大きい方がいいと私は思っている。
「末原さん、ちょーたのしみだよー」
姉帯の返答を貰って、私はこの先を思い浮かべる。
想像や画面の中だけの未だ目で見たことのない海原、そこを船に乗って宮守のみんなと過ごすという夢。
私が目指すべきビジョンは、その時に確かに決まり、心はすでにこの先のことを考え始める。
そう、まずは電話をしなくちゃいけない。
それが、スタートラインの第一歩だ。
○
電話が鳴る。
夜の一時頃のことである。
部屋の主は今まさに寝ようとしていたこともあってか、少しばかり不機嫌そうに顔をしかめつつ、手の届く位置にある携帯を手にとってディスプレイを確認する。
知った名前に、こんな時間になんだろうと通話ボタンを押した。
「どないしたん恭子、おねむの時間や」
『夜分遅くにすいません。主将、ちょっとお話がありまして……』
「わざわざ宮守から電話か、なんか緊急なんやろ? 話してみ」
『はい、実は……』
静かに告げる言葉に意味はなく、すべては力によって動かされる。
若手プロ認定大会エントリー締め切りまで、あと二週間……
決意表明編はこれにて終わりです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
次もできたら上げます。
いろいろと間違いなどがあるかもしれませんが、これからよろしくお願いいたします。