石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第十話:雪解けの夜の星のパン

 冬至の夜が過ぎ、最も深い闇の底を打った世界は、今、ゆっくりと光の再生へと向かっていた。

 

 森の景色も、日ごとにその表情を変えていく。日中の陽光には力が戻り、硬く凍てついていた雪は、その表面から、慈雨のように静かに溶け始めていた。軒先から滴る雪解け水の、ぽたん、ぽたん、という音が、森の沈黙に、時計の秒針のような、時の進みを刻んでいる。

 

 夜はまだ長く、空気は冷たい。しかし、その冷気の中には、もうすぐそこまで来ている春の、湿った土の匂いが、確かに混じり始めていた。

 

 

 その夜の客は、これまでの誰とも違う形で、パン屋にやってきた。店の扉が、何の躊躇もなく、勢いよく開け放たれたのだ。

 

「こんにちはーっ!」

 

 鈴がカラン、とけたたましい音を立てる。そこに立っていたのは、頬を真っ赤に上気させた、七、八歳くらいの少年だった。元気で、好奇心に満ちた瞳が、店の中をきょろきょろと探検するように見回している。

 

 パン屋の主人は、薪をくべていた手を止め、その予期せぬ小さな訪問者に、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。これほど曇りのない、生命力に満ちた魂が、この店を訪れるのは、いつ以来のことだろうか。

 

「いらっしゃいませ、小さなお客さん」

 

 主人の穏やかな声に、少年――名をフィンという――は、全く臆することなく、ずかずかと店の中に入ってきた。

 

 フィンは、村の大人たちが、

 

「星の降る夜にだけ、森の奥に灯る不思議な火」

「迷った者だけが見つけられる、エルフの家」

 

 と噂するこの場所を、自分の目で見つけ出すのだと、今日、一人で探検に来たのだった。彼にとって、このパン屋は、恐ろしい場所などではなく、冒険の末にようやくたどり着いた、宝の島のような場所だった。

 

 

「わあ、すごい!本当にあったんだ!」

 

 フィンは、かまどの炎に目を輝かせると、次に、主人の顔をじっと見つめた。

 

「ねえ、あなた、エルフ?本当に耳がとがってる!かっこいいね!」

 

 その言葉には、何の先入観も、畏れもない。ただ、純粋な称賛だけがあった。主人は、思わずふっと微笑んだ。

 

「どうして夜しかお店やってないの?昼間は、エルフはみんな木の上で寝てるって本当?」

 

 次から次へと繰り出される素朴な質問に、主人は、一つ一つ、静かに、そして楽しそうに答えていく。

 ―――やがて、フィンの好奇心旺盛な瞳は、かまどのそばの壁に飾られた、ささやかな品々を見つけた。

 

「わあ、これなあに?きれいな葉っぱに、石っころ……鳥の仮面?もしかして、全部、魔法の道具?」

 

 その問いかけに、主人は、そっと壁に近づいた。そして、まるで古の物語を語り聞かせるかのように、静かな声で、フィンに教え始めた。

 

「これは、遠い日の約束を守ってくれる、お守りのハーブ」

 

 彼女は、ローズマリーの枝に触れた。

 

「これは、ある勇敢な森の友だちの、勇気のしるし」

 

 子狐の毛を、優しく撫でた。

 

「これは、仲直りした二人の、笑顔のかけら」

 

 寄り添うカエデの葉を、指でなぞる。

 

 主人は、訪れた客たちの物語を、どこか詩的で、そして子供にもわかるような言葉で、一つ一つ、紡いでいった。それは、愛する絵本を読み聞かせるような、慈しみに満ちた時間だった。

 

 フィンは、大人のように、その言葉の裏にある深い悲しみや苦悩を理解したわけではない。だが、彼の純粋な感性は、物語の本質を、まっすぐに捉えていた。

 

「へえーっ!じゃあ、ここにあるのは全部、誰かの思い出なんだね!すごい、宝物がいっぱいだ!」

 

 その曇りのない一言は、どんな賢者の言葉よりも、このパン屋の営みの価値を、力強く肯定するものだった。主人は、その言葉に、心の深いところが温かくなるのを感じた。そして、この元気な小さな冒険家のためのパンを、焼いてあげることにした。

 

 

 彼女が、フィンの目の前に差し出したのは、焼き立ての、甘い匂いがするパンだった。

 

 それは、いくつもの小さな星の形をしたパンが、お互いにくっつき合って、一つの大きな円を描いている、ちぎりパンだった。表面には、ザラメ糖が雪のようにまぶされ、かまどの光を反射して、きらきらと輝いている。

 

「わあーっ!お星さまのパンだ!」

 

 フィンは、満面の笑みで歓声を上げた。彼は、一番大きな星を一つちぎると、大きな口で、ぱくりと頬張った。

 

「おいしい!あまい!星のかけらって、こんな味がするんだね!」

 

 その屈託のない笑顔と、弾むような歓声が、これまで静寂に満ちていたパン屋を、明るい光で満たしていく。それは、悩みを抱えた大人たちの心を、静かに解きほぐす「癒し」の光とは違う。生命そのものが放つ、未来への希望に満ちた、力強い「喜び」の光だった。

 

 パンを夢中で食べ終えたフィンは、満足そうにお腹をさすりながら、主人に尋ねた。

 

「ねえ、エルフさん!また遊びに来てもいい?」

 

「ええ、いつでも。ただし、星がとても綺麗な夜に、ですよ」

 

 主人がそう答えた、その時だった。店の外から、

 

「フィン!どこにいるんだー!」

 

 と、男の大きな声が聞こえた。フィンの父親が、心配して探しに来たのだ。

 

 

 扉を開けて中に入ってきた父親は、店の幻想的な雰囲気と、そこに立つエルフの姿に、息を飲んだ。そして、畏敬の念に打たれたように、深く頭を下げた。そんな父親の様子を、フィンは不思議そうに見上げていた。

 

「さあ、お父さんとお帰りなさい。もう、一人でこんな森の奥まで来てはいけませんよ」

 

 主人の言葉に、フィンはこくりと頷いた。そして、帰り際に、彼は思い出したように、ポケットをごそごそと探った。

 

「あ、そうだ!これ、あげる!」

 

 彼が主人に差し出したのは、森で拾ったという、キラキラと光る石のかけらだった。雲母を含んだ、何の変哲もない石だが、フィンにとっては、冒険の末に見つけた、一番の宝物なのだ。

 

「俺の宝物!エルフさんにあげる!」

 

 主人は、その小さな手を、自らの両手で優しく包み込むようにして、石を受け取った。

 

「ありがとう。大切にしますね」

 

 フィンが父親に連れられて帰っていく。その背中を見送ったあと、主人は、手のひらに残された、まだ子供の体温でほんのりと温かい石を見つめた。

 

 そして、彼女は、壁の思い出たちの隣に、そのキラキラと光る石を、そっと置いた。新たに加わった、未来の光を宿した、小さな宝物。

 

 永い時を静かに生きてきた彼女にとって、この屈託のない子供の訪問は、生命が巡り、また新しい物語が始まっていくことの、何よりの証のように思えた。

 

 雪解け水の音が、希望の歌のように、静かな森に響いていた。

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