石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第十一話:再会は星屑バターの香りと共に

 春が、その全ての力を以て、森に訪れていた。

 

 雪解け水はせせらぎとなり、地面を覆っていた落ち葉の下からは、フキノトウやカタクリが、競うように顔を出す。木々の枝先には、柔らかな緑色の新芽が芽吹き、森全体が、生命の再生を祝う、喜びに満ちたざわめきに包まれていた。

 

 夜空の星々も、どこか春霞をまとったように、優しく、そして穏やかに瞬いている。

 

 パン屋のかまどのそばの壁に飾られた思い出たちは、この春の光の中で、新たな物語を待ちわびているかのようだった。その思い出たちの列の最後に、先日の少年が置いていった、キラキラと光る雲母の石が、新たな希望の象徴のように、静かな光を放っている。

 

 

 その夜、店の扉が、静かに、しかし、確かな足取りで開かれた。

 

 カラン、と鳴った鈴の音は、どこか懐かしい響きを持っていた。そこに立っていたのは、一人の青年だった。年の頃は二十歳前後。旅人風の丈夫な服を着て、その背には、使い込まれてはいるが、手入れの行き届いた革の鞄が背負われている。その顔つきは、まだ若々しさが残っているものの、厳しい旅を経てきたであろう、自信と落ち着きが満ちていた。

 

 彼は、店の中を見渡すと、かまどの前に立つ、銀色の髪の主人を見つめた。そして、その表情を、驚きと、深い安堵と、そして、込み上げるような懐かしさで、ほころばせた。

 

「……やはり、ここでしたか」

 

 青年の声は、以前の、か細く不安げな響きではなく、穏やかで、芯の通ったものになっていた。

 

 パン屋の主人は、薪をくべる手を止め、その訪問者を静かに見つめ返した。彼女の瞳には、驚きの色はない。まるで、長い旅路の果てに、友が約束通り帰ってきたのを迎えるかのような、穏やかで、そして慈しみに満ちた光が宿っていた。

 

「お帰りなさい、旅人さん。良い顔になりましたね」

 

 青年は、一年近く前にこの場所を訪れた、あの若い旅人、リオだった。

 

 故郷を飛び出し、未来への不安と孤独に打ちのめされていた彼が、このパン屋で食べた、温かいパン・オ・レ。あの味が、あの温かさが、彼を再び歩き出させ、今日まで支え続けてくれたのだ。彼は、様々な町を巡り、多くの人々と出会い、時には厳しい経験もしながら、自分なりの生きる道を見つけ、今、一人前の職人として、故郷へと帰る旅の途中にあった。

 

 そして、どうしても、もう一度この場所を訪れ、礼を言わねばならないと、そう強く思っていたのだ。

 

「あの夜のパンの味が、忘れられませんでした」

 

 リオは、まっすぐに主人を見つめて言った。

 

「あのパンがなければ、今の俺は、きっとありませんでした。本当に……本当に、ありがとうございました」

 

 彼は、心の底から、深く、深く頭を下げた。

 

 

 主人は、そんな彼に、静かに微笑みかけた。

 

「あなたを支えたのは、私でも、パンでもありません。あなた自身が、あなたの中に元々持っていた、温かさと、強さですよ。パンは、それを思い出す、ほんの少しのきっかけに過ぎません」

 

 そう言って、彼女は、まるで一年前の夜を再現するかのように、かまどの中から、ふっくらと焼き上がった、一つの丸いパンを取り出した。それは、あの夜と同じ、表面のバターが星屑のようにキラキラと輝く、パン・オ・レだった。

 

「さあ、どうぞ。長い旅路、お疲れでしょう」

 

 リオは、促されるままに、あの夜と同じテーブルについた。

 

 目の前に置かれたパンからは、ミルクとバターの、懐かしい、涙が出るほど優しい香りが立ち上る。彼は、ゆっくりとパンをちぎり、一口、口に運んだ。温かく、どこまでも優しい甘みが、口いっぱいに広がる。ああ、この味だ。この味が、俺の始まりだった。一年前は、孤独と不安の中で、涙と共に味わったこのパンを、今、彼は、感謝と、確かな自信と共に、誇らしい気持ちで味わっていた。

 

 パンを食べ終えたリオは、ふと、ずっと疑問に思っていたことを、口にした。

 

「あの……失礼でなければ、お名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」

 

 彼は、このパン屋の主人を、ずっと「エルフさん」と心の中で呼んでいた。だが、彼女は、彼にとって、名もなきエルフなどではない。人生を変えてくれた、大切な恩人なのだ。その名前を、知りたかった。

 

 

 主人は、その問いに、少しだけ、虚を突かれたように目を瞬かせた。彼女が、自らの名を、人間に告げるのは、一体、どれほど久しぶりのことだろうか。永い時を生きる彼女にとって、名前とは、他者と自分を区別するための記号である以上に、自らの魂のありかを示す、重い意味を持つものだった。

 

 彼女は、かまどのそばの壁に飾られた、たくさんの思い出のかけらたちへと、一度、その視線を向けた。そして、再びリオへと向き直ると、その唇から、まるで澄み切った泉の水が湧き出るかのように、清らかで、静かな響きが紡ぎ出された。

 

「私の名は、エステル」

 

「……エステル」

 

 リオは、その名前を、大切な宝物を授かったかのように、静かに、そして、深く胸に刻んだ。エステル。星、という意味を持つその名は、星の降る夜にだけ開くこのパン屋の主人に、あまりにもふさわしい響きを持っていた。

 

「エステルさん。俺は、故郷に帰ったら、家具職人として、自分の工房を開きます」

 

 リオは、決意に満ちた目で言った。

 

「いつか、俺が作った椅子やテーブルを、この店で使ってもらうのが、俺の夢です。その時まで、どうか、お元気で」

 

 それは、再会の約束だった。エステルは、その言葉に、ただ静かに、そして、これまで見せたどんな笑顔よりも、深く、美しい微笑みを浮かべて、頷いた。

 

「ええ。お待ちしていますよ、リオ」

 

 旅人は、希望に満ちた顔で、再び旅路へと戻っていった。その背中を見送ったエステルは、かまどのそばの壁に、リオが土産にと置いていった、旅先で見つけたという、美しい螺旋状の貝殻を、そっと置いた。

 

 思い出たちが、また一つ増えた。だが、今日の思い出は、これまでのものとは少しだけ違う。それは、過去の物語のかけらであると同時に、未来へと繋がる、確かな約束の証でもあった。

 

 壁に飾られた思い出たちが、まるで、この新たな約束を祝福するかのように、春の夜の穏やかな光の中で、静かに輝いているように、エステルには見えた。

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