石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第三話:月夜の森の小さな客

 その夜は、夏の匂いがした。

 

 日中の熱気をまだわずかに残した風が、木々の葉をゆるやかに揺らし、草いきれのむせ返るような匂いを運んでくる。夜空はどこまでも高く澄み、天頂には満月が、青白い光の円盤となって浮かんでいた。

 

 その光に照らされて、森の輪郭は銀色の絵の具で縁取られたようにくっきりと浮かび上がり、昼間とは異なる幻想的な貌を見せている。

 

 

 生命のざわめきに満ちた森の片隅で、一つの小さな命が、恐怖に震えていた。

 

 生まれてまだ数ヶ月しか経っていない、一匹の子狐だった。夕暮れ時、森に響き渡った猟師の鉄砲の音に驚き、母親のそばから無我夢中で走り出してしまったのだ。気づいた時には、見慣れた巣穴の匂いも、兄弟たちの気配も、どこにもなくなっていた。

 

 ここはどこだろう。母親はどこにいるのだろう。

 

 心細さと、じりじりと胃を灼くような空腹が、子狐の体力を容赦なく奪っていく。森の闇は、幼い彼にとって巨大な怪物のように思えた。

 風にそよぐ葉の音は怪物の息遣いに、木の根が作る影は潜む何者かの姿に見えて、そのたびにびくりと体をこわばらせた。月明かりは森を照らしてはいるが、それは同時に、あらゆる物の影を濃く、不気味に引き伸ばしてもいた。

 

 もう動けない。

 

 そう思った子狐が、シダの葉の茂みに身を潜めて丸くなった、その時だった。

 

 彼の小さな鼻が、ぴくりと動いた。今まで嗅いだことのない、不思議な匂いが風に乗って運ばれてくる。それは、森の匂いではなかった。土や草や、湿った苔の匂いではない。もっとずっと甘く、温かく、そして心を蕩かすような、途方もなく美味しい匂いだった。

 

 空腹の本能が、恐怖に打ち勝った。

 

 子狐は、最後の力を振り絞るように、匂いのする方へと鼻先を向け、おぼつかない足取りで歩き出した。

 

 匂いは、森の奥へ行くほどに強くなっていく。それはまるで、見えない糸が子狐を引っぱっているかのようだった。やがて、木々の切れ間から、ぼんやりと温かな光が漏れているのが見えた。他のどんな光とも違う、安心するオレンジ色の光。あの美味しい匂いは、間違いなくあの光の中からやってくる。

 

 子狐は、音を立てないように、抜き足差し足で光の源に近づいた。

 

 そこにあったのは、古びた石と木でできた、小さな一軒家だった。扉の横に掲げられたランタンが、優しくあたりを照らしている。扉は、ほんの少しだけ開いていた。子狐の小さな体なら、するりと滑り込めるくらいの隙間だ。

 

 彼は、その隙間に鼻先を押し付け、中の様子をうかがった。

 

 中には、もう一つの太陽があった。部屋の奥で、大きな石の口が、ぱちぱちと音を立てながら燃えている。その炎は、恐ろしい山火事の炎とは違う。穏やかで、温かく、見ているだけで体の芯から力が湧いてくるような、不思議な炎だった。

 

 そして、部屋の中央の大きな木の切り株の上には、匂いの源たちが、まるで王様のように鎮座していた。こんがりと焼けた、様々な形のごちそう。その一つ一つから、子狐の心を狂わせるような、甘く香ばしい匂いが立ち上っている。

 

 ごくり、と喉が鳴った。

 

 その時、部屋の奥にいた人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。子狐は、はっと息を飲み、瞬時に身を翻して扉の外の茂みに隠れた。心臓が、早鐘のように鳴っている。見つかった。食べられてしまうかもしれない。

 

 だが、いくら待っても、追ってくる足音はしなかった。

 

 おそるおそる、もう一度隙間から中を覗く。

 

 そこにいたのは、銀色の長い髪をした、静かな気配の女だった。人間だろうか。だが、その佇まいは、子狐が知っている人間――猟師のような、荒々しく、怖い匂いのする生き物とは全く違っていた。彼女は、森の月明かりそのものが人の形をとったかのように、静かで、清らかで、そしてどこか懐かしい気配をまとっていた。

 

 パン屋の主人は、子狐が隠れているのを最初から知っていた。彼女は驚きもせず、ただ静かに、その小さな客が安心できるのを待っていた。やがて、彼女はゆっくりと、音を立てないように、その場にしゃがみこんだ。威圧しないように、怯えた生き物の目線まで、その身を低くする。

 

「おや、小さなお客さん。どうしましたか?」

 

 その声は、子狐には言葉として理解できなかった。だが、その響きは、せせらぎの音のように優しく、母親が彼を毛づくろいする時のように、穏やかだった。この生き物は、自分に危害を加えるつもりはない。子狐は、本能でそう悟る。

 

「お腹が空いているのですね。そして、とても怖い思いをした」

 

 女は、子狐の心を見透かすように、静かに語りかける。

 

 彼女はゆっくりと立ち上がると、テーブルに並んだパンの中から、丸くて、黄金色に輝く、小さなパンを一つ手に取った。そして、それをさらに、子狐の小さな口でも食べられるくらいに、丁寧にちぎり始めた。

 

 パンは、ふわりと甘い匂いを立てた。卵とバターをたっぷり使ったブリオッシュだ。生地には、森で採れたクルミやハシバミの実が細かく砕かれて練り込まれ、表面には、月光を煮詰めたかのような、透明な蜂蜜がつややかに塗られていた。弱った体に、すぐに力がつくように。そんな作り手の想いが込められた、栄養価の高いパンだった。

 

 主人は、ちぎったパンを小さな木の皿に乗せると、扉のすぐ内側に、そっと置いた。子狐がすぐに逃げ出せる、安心できる距離だ。そして彼女自身は、かまどのそばまで静かに戻り、小さな客の邪魔をしないように、ただ穏やかにその様子を見守っていた。

 

 誘うような匂いに、子狐の理性の最後の糸がぷつりと切れた。

 

 彼は、茂みからそろりと姿を現し、警戒しながらも、皿に置かれたパンへと近づいていく。くんくん、と匂いを嗅ぎ、危険がないことを確かめる。そして、意を決して、一番大きなパンの欠片をぱくりと口に入れた。

 

 その瞬間、子狐の世界は、温かさと甘さで満たされた。

 

 蜂蜜の濃厚な甘みが、空っぽの体に染み渡り、恐怖で冷え切っていた手足の先に、じわりと温かい血が巡り始めるのを感じた。柔らかいパン生地は、舌の上でとろけるように消えていく。時々、カリッと歯に当たる木の実の食感と香ばしさが、慣れ親しんだ森の恵みを思い出させ、彼の心を少しずつ落ち着かせた。

 

 美味しい。

 

 ただひたすらに、美味しかった。

 

 夢中でパンを食べ進めるうち、あれほど大きかった恐怖や孤独は、不思議と薄れていった。この温かく、安全な場所で、こんなにも美味しいものを食べている。それだけで、世界はもう、それほど怖い場所ではないように思えた。

 

 言葉は通じない。けれど、パンを通じて、二つの心は確かにつながっていた。銀髪の主人は、小さな命が再び力を取り戻していく様子を、母親のような慈愛に満ちた眼差しで見守っていた。その視線は、子狐にとって、かまどの炎と同じくらい温かかった。

 

 やがて、皿の上のパンは、綺麗になくなった。

 

 空腹が満たされ、恐怖から解放された子狐のまぶたは、自然と重くなってくる。彼は、主人の足元までとことこと歩いていくと、まるでそこが自分の巣穴であるかのように、安心しきった様子で丸くなり、すうすうと小さな寝息を立て始めた。

 

 主人は、その無防備な姿にふっと微笑むと、そっと自分のショールを脱ぎ、小さな体を冷やさないように、優しくかけてやった。

 

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 

 東の空が白み始め、夜の闇が瑠璃色に変わる頃、子狐は目を覚ました。体の底から、力がみなぎってくるのを感じる。

その時、森の遠くから、彼を呼ぶ声が聞こえた。甲高く、けれど聞き慣れた、母親の鳴き声だ。

 

 子狐は、はっと顔を上げた。彼は助かったのだ。もう独りではない。彼は、自分にかけてられたショールからそっと抜け出すと、寝ていると思った主人が、いつの間にか目を覚まし、自分を穏やかに見つめていることに気づいた。

 

 子狐は、彼女の足元に駆け寄ると、感謝を伝えるように、その足にくんくんと鼻先をすり寄せた。そして、彼女の顔をしっかりと見上げると、

 

「コン」

 

 と、一声、澄んだ声で鳴いた。

 

 ありがとう、と。忘れない、と。そう言っているようだった。

 

「ええ、もう大丈夫。お母さんのところへお帰りなさい」

 

 主人は、その小さな頭を優しく一度だけ撫でた。

 

「そして、またお腹が空いたら、いつでもいらっしゃい。ここは、あなたのための場所でもありますから」

 

 子狐は、名残惜しそうに一度だけ振り返ると、母親の声がする方へと、今度は力強く、弾むような足取りで駆け出していった。その小さな背中は、朝の光が差し込み始めた森の中へと、あっという間に吸い込まれて消えていった。

 

 

 主人は、扉を閉めると、子狐が眠っていた場所に、一本だけ落ちている小さな巻き毛を見つけた。彼女はそれをそっと拾い上げ、かまどのそばの壁に立てかけてあったローズマリーの枝の隣に、優しく置いた。

 

 パン屋の主人の心に、森の小さな住人との間に生まれた、最初の温かい絆が、確かに灯った瞬間だった。

 

 そしてこれから先、晴れた星の夜には、時々、この店の周りで小さな影が遊ぶようになるのを、彼女はまだ知らない。

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